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「はい!」
娘の声がふいにはっきりと耳に届いた。
我に返る俺に、娘は微笑しながら服を渡してくれた。上だけだから、とちょっと娘に背中を向けて服を着る……と。そこで少し手を止めた。
ジーパンも汚れてなかったか? 俺はさっき、バスタオルを上下にまきつけていなかったか?
いつ、俺はジーパンを履いたんだろう?
思わずまじまじと下半身を眺める。
確かに汚れていない。数日前につけた染みもなくなっているような気がするから、きっと洗濯してもらったのだろう、けど、いつ?
かわいそうにね。
「……」
娘の呟きが妙に鮮やかに頭の隅にこびりついているのに、それがどういう経過で、どういう話でそうなったのか、どうにも思い出せなくて不安になった。
「あの」
「はい?」
「今の話、何だったんですか」
「?」
娘はきょとんとした。
瞬きをし不審そうに眉を寄せる。何を言っているのか、意味がわからないという顔だ。
「えーと」
「はい」
「何か話してませんでしたっけ」
「……いいえ?」
俺の歯切れの悪い問いかけに、相手はますます奇妙な顔になって、俺をじろじろと眺めた。
「いや、ほら、俺、今コーヒーを飲んで…」
言いかけて気づく。
テーブルの上にはコーヒーどころか、茶も出ていない。
夢?
今のやりとりは夢、だったのか?
「あれ?」
いつ俺は眠り出したんだ? 第一どうして眠り出したんだ?
「あれ?」
「あら、ごめんなさい」
催促されたと感じたのか、娘が慌てて立ち上がった。
「何か淹れましょうか」
「あ、いや、俺、そんなつもりじゃ」
ふと目をやると、窓の外はすっかり暗くなっている。
「俺、もう帰ります、すみません、お世話になって」
キッチンに向かいかけた娘の背中に声をかけて立ち上がった。
「いいえ、こちらこそご迷惑おかけして」
戸口まで見送ってくれた娘が、ふいと俺の肩越しに空を見上げる。
「あら……きれいなクレッセント」
「え?」
いくら無粋な俺でも、クレッセントが『爪跡のような三日月』のことを示すことぐらい知っている。けれど、今は『満月』に近いはず、周一郎が高野とそんなやりとりをしていた。
だが、娘の指差す先には、細い、切り裂くようなクレッセント・ムーンが夜を削っていて呆気にとられた。
「ほんとだ…」
「ね?」
娘の腕がするりと伸びて、俺の腕を捉えた。
「きれいな月でしょう。あたしの声、よく聞こえる?」
気持ちのいい響き、けれど人を圧するような声音、またあの夢の中のような淡い光に周囲が閉ざされていくような感じがする。危険を感じた俺の心の何かが、体から抜け出して、遠くの方から何が起こっているのか見定めようとする。
「……のよ」
娘が呆然と立っている俺の耳に囁いた。
虚ろに俺は頷く。ゆっくりと、けれど、その意志を貫き通すようにはっきりと。
「周一郎を…」
娘は再び囁いた。
もう一人の俺が内容にぞっと体を震わせ、やめろ、と叫ぶ、だがその声は、今の俺にはあまりにも遠く微かだ。
娘が満足げに頷いて、パンッ、と唐突に手を叩いた。
「っ!」
引き戻され、我に返る。その瞬間に、今自分がどこに居たのか、何をしていたのかわからなくなった。
覚えていることばはただ一つ。
「爪跡月?」
思わず尋ね直す。
「あれ、三日月のことですよね?」
「え、そうなの?」
娘は瞬きした。
「あたし、お月さまの別名がクレッセントだと思ってたわ」
娘がクレッセント、と口にすると、心の中に淡い波が立った。銀色の靄がかった半透明な視界、呑み込まれそうになって危うく首を振る。
「違いますよ、三日月のことだけです」
「そうなの!」
娘はきらきらと瞳を輝かせて笑った。
「これで、少し賢くなったわ!」
「あはは」
笑い返す、慣れた友人同士のように。
けれど。
あれ?
何かが引っ掛かる、何か妙な不安感が。
自分が取り返しのつかない何かを約束してしまったような、不快感。
「あ、の」
「じゃあ、あたしも仕事に戻りますね。本当にごめんなさい」
言いかけた俺を遮るように、娘はぺこりと頭を下げた。
慌てて俺も頭を下げ、急かされるように家を出る。
(あの娘の名前、聞かなかった)
歩き出した夜道でふいに思った。
「……それが?」
何かあんのか?
思わず頭上を見上げた。
鮮やかに光を放つ、ほぼ満月に近い白い月。
「…ま…いいか」
遅くなったのを、周一郎が心配してるかもしれない。
俺は足を速めた、自分が重ねたミスの大きさにも気づかずに。