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幾つ物件を見て回っただろう。
何の興味があるのか、俺の下宿探しに付き合って、広告やチラシを見つけるたびに、ああだこうだとけなしながらしつこくつきまとっていた直樹は、さっきから急に黙り込んでしまっていた。
『滝さん…本気で?』
そう聞かれて、当たり前だろが、そう突っぱねたのが不愉快だったのか。
直樹が沈もうが落ち込もうが、とにかく、今は少しでも安い所へ潜り込まなくてはならなかった。朝倉家での暮らしはすっぱり忘れろよ、と自分に言い聞かせていると、月額20000円という文字が飛び込んだ。幸い、この近くだ。
「よし!」
急いでそこへ向かう。物件を確認して、できるだけ早く手を打たなくては。
沈黙を守り続ける直樹が無言で付いて来る。
数分歩くと、その『みすぎ荘』が見えてきた。
「う…わ」
思わず声を上げる。
建っているのが不思議なくらいの二階建ての木造、だよな、きっと。微妙に傾いている雰囲気で、ガスと水道が通っているというのが自慢なんだろうという代物だ。だからといって、ここでめげてては、明日から食い物にも困ってしまう。
「ここにするぞ!」
自分に気合いを入れてみた。
「ここに決めた!」
「こんな…とこに?」
直樹がぼそぼそと呟く。
「屋根どころか壁もあるんだぞ、立派なもんだ!」
無茶を承知で言い張る。もっとも、そうやって自分を励まさなくては住む気になれない。屋根のある所でいいなんて、言わなきゃよかった。
「床が抜けるぜ」
「一階にする」
「冬は寒いぜ」
「新聞紙をセーターの下に巻く!」
家の中でか? どんなサバイバルだ。
「ガス使ったら爆発したりして」
「あったかくてちょうどいい!」
何だか泣きたくなってきた。
「滝さん」
「お前が何と言おうと、俺はここに決めたからな!」
足を踏み出す。
「……滝さん!」
いきなり腕を引っ張られてぎょっとした。
「離せよ、何だって止め」
腕を振りほどこうとして、続いたことばに絶句する。
「行かないで下さい、滝さん」
その、他人行儀な、いじっぱりな口調を誰が忘れるだろう。
驚き……続いて強烈な怒りが湧き上がる、またや俺をからかう直樹への。
「直樹! お前いい加減に…っ」
振り返る俺の視線を受け止める印象的な瞳、結んだ口許に不安そうな微かなためらいを浮かべて、俺を見つめる。
(雰囲気が、違う…?)
「まさ…っ」
叫びかけて、俺は詰まった。頭の中が一瞬空白になり、続いて今までの場面が一気に混ざる。
相手は薄く笑った。
「ご心配かけてすみませんでした。……まだ直樹に見えますか? ……なんなら、今『ルトが見ている』景色でも言いましょうか?」
決定的なことばをさらりと吐く唇、それでも信じられなくて口を開く。
「いや、待て、でも、あいつが『行かないでくれ』なんて、言うはずが……いや、第一どうして今の今まで…てか、何で今になって」
途切れることばにもどかしくなる。
(違う、俺の言いたいのは)
へどもどする俺の前で、相手はぷい、と背を向けた。
「だって、このままだったら」
妙に幼い声が響いた。
「滝さん、あそこへ行ってしまうじゃないですか。……まさか、本気でそんなことするほど馬鹿だとは思わなかったから」
忌々しげに舌打ちする気配の口調に、ようやく言いたいことばの一部を取り戻す。
「周、一郎…なんだな…?」
相手はちらりと肩越しに視線を投げて来た。怒ったような照れたような表情、紛れもなく周一郎の懐かしい顔だ。
(生きていた? 死んでなかった? どうして? いつから? なぜ?)
だめだ、おかしくなる。
頭の中が、交差する横断歩道を躍りながら入り乱れて渡っていくリオのカーニバルに占拠されたような気分、軽くパニックになってくるりと背を向け、逃げるように数歩『みすぎ荘』の方へ歩く。
「え? ……滝さん!」
驚いた顔で周一郎が振り返るのが背中でわかった。見ていないのに脳裏で展開する光景、不安げに向きを変えて一歩、片手を伸ばし、俺の腕を掴もうとして一歩、スローモーションに駒送りが入ったような一場面一場面がはっきり見える。それに重なるように周一郎が死んだと思った日からの出来事が流れ、二度と聞くことはないと諦めた声が繰り返し耳に響き渡った。
「滝さん!」
(生きて……いやがった)
腕にかかる力、掴んでくる指。
(この、人騒がせな)
駆け寄る足音、近寄る体温。
(俺の)
今まで感じたことのないような深い安堵と興奮、池の中で今にも枯れ落ちそうに項垂れていた蓮が見る見る首を上げて花開くように、心の底にずっと重苦しく沈んでいた苦さが一気に溶け出していく。
(俺の…?)
「滝さん、って」
ああ、そうか。
ふいに、あの魔術師に操られてから俺がしてきたことの意味が見えた。
(巻き込まれたとか、乗りかかった船とか、そんなんじゃなくて)
ずっと受け身で厄介事に関わってきた俺が、何度も逃げられる機会があったのに、とうとう最後まで逃げなかったのは。
(失いたくなかったんだ)
空を仰ぎ、目を閉じる。
(こいつを、失いたくなかった)
なのに。
自分の気持ちに納得すると同時に、むくむくと湧き上がってきたのは怒りだ。
(こいつは、俺が朝倉家を出て行かないなら、『直樹』のままでいるつもりだったんだよな)
「滝さん、聞こえないん…」
つまり、俺が大事にしているのは『周一郎』なのに、何かよくわからないおかしな理屈で『直樹』の方を押し付けようとしたわけだ、俺の気持ちを無視して。
「この…馬鹿やろう!」
次の瞬間、強引に自分の方を振り向かせようとする相手の力のままに振り向いて、思い切り怒鳴りつける。
「どれだけ心配して悩んだと思ってるんだ!」
「っ!」
「断りなしに死ぬ奴があるか! 今度死ぬ時は早めに言え!」
(おい今度死ぬ時はって何だそれは)
つい勢いで口が滑った台詞に自分で突っ込みかけた瞬間、目を見開いて固まった周一郎が、
「は、い」
見事に素直に頷いて、今度は俺が固まった。
泣きそうな幼い表情が周一郎の顔を過る。見たことのない脆そうな気配、何だかそのまま飛びついてきそうな雰囲気だったが、自制力に関しては周一郎の方が遥かに上だった。
「……すみません。でも、滝さんは困るんじゃありませんか、僕の家を出ると」
一瞬にして気持ちを切り替えたような低い謝罪の後に淡々と続く説得、けれど瞳は珍しくまっすぐに俺を見上げる。
困ルト、イッテヨ。
記憶を失っていた時の直樹なら、きっとそうあっさりねだったはずだ。
俺が困らないと言えば、周一郎にはもう打つ手がない。
なのに、困るんじゃないのか、としか言えない。
どこまでもどこまでも。
(意地っ張り、だよな)
「……戻ればいいんだろ、戻れば」
ぱあっと顔を輝かせてくれれば、こっちも照れくさくなくていいのに、何だその、驚いたような不安そうな顔は。出てくと困ると言ったのはそっちだろうに、何で驚いちまうんだよ、そこで。
そんなに自信がないのか、自分の側に俺が戻ることに。
「あ……ああ、腹が減った!」
思わず喚いてしまった。
「……高野にすぐに用意させます」
見開いた目をにっこり細めかけ、慌ててくるりと背中を向けた周一郎、後ろ姿が今にもスキップしそうに見えてるって気づいてねえんだよな、やっぱり。
「五食分ぐらい頼む」
わかりました、と応じる嬉しそうな声に気づかないふりで、俺はボストンバッグを担ぎ上げた。




