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大学で休学届けの書類を受け取り、荷物を取りに朝倉家に向かった俺の目に、あの長い長いレンガ塀が映る。
「……一年くらい前、か」
初めて朝倉家を訪れたのは、大家にコートを下宿代の形にとられて、行く所もなくぶらぶら歩いていた時だった。こんなバカでかい建物に住む奴、物好きにも遊び相手に金を払おうとしている子どもってどんな奴だろうと思っていた。現れたのはサングラスをかけた弱視の少年、いろいろな仮面を被り直す大人達の争いを冷然と見つめ、自分もサングラスという仮面で心を隠し、全てを操った。
なのに、俺には、その全てを種明かしして見せた、少年だった。
(いや……一年もたってないのか)
そうだ、長い人生からすりゃ、まだ知り合ったばかり、なのに、俺はずっと昔からあいつと居たような気がしている。
「にゃ…あ?」
「ルト!」
足下に聞き慣れた声がして、思わずすり寄った小猫を抱き上げた。
「そういや、あの時もお前だったけな、俺を入れてくれたのは」
ルトは、顔の大きさから言えば少し大きすぎる耳を寝かせた。小さなたれ耳の可愛いタイプじゃない容姿、目を細めて小さな口を開け、声を出さずに鳴いてみせると一層なんだか妖しい気配、それでも今日はどこか不安げに見えた。
「俺と来るか? ご主人がいなくなって淋しいだろ?」
きゅっ、とルトは鼻に皺を寄せた。冗談言うない、そんなすぐに宗旨替えできるかよ、と言いたげに顔を背け、身をくねらせて俺の腕を擦り抜ける。
「…だよな」
(俺だって、直樹の『周一郎もどき』はまっぴらだ)
一人頷いて、門扉を開ける。
歩く一足ごとに、思い出がほろ苦く駆け抜けていく。
先を行くルトの尻尾がゆらゆらと揺れて、それを追って歩く俺は、このまま永久に朝倉家の玄関に着かないような気がしてくる。着かないまま、思い出の中を歩み続けて抜けられなくなりそうな。
「にゃあん」
だが、ルトはきちんと、俺を朝倉家の玄関に導いた。
そのまま、再び自分の本来の居場所、迷宮の彼方の異世界に歩み去るような足取りで、振り返りもせずに姿を消していく。
こうやって、通り過ぎた光景の一つとして、奇妙な猫と少年の姿は、俺の遠い記憶の中の物語になっていくのかもしれない。
「お帰りなさいませ」
「うん」
出迎えた高野は、いつも通りだった。
綾野の死が伝えられていないはずはない。
けれど、世界に何が起ころうとも、この朝倉家を守るのが至上命令と考える彼は、この先もずっとこうやって、客を迎え送り出していくのだろう。
俺が、こうして高野に迎えられるのも今日限りだ。
(二度とこんな経験するこた、ねえよな)
大豪邸で、執事にお帰りなさいませと迎えられ、輝く銀食器で食事をし、染み一つなくふかふかに整えられた寝床で休む。
夢のような、華やかで豊かな暮らし。
想像してみる、まだここに居続けることを。
だが、そこには居るはずの姿がない。
『滝さん』
光を背中に、小首を傾げ、淡々とした声音で、それでも体全体が俺を迎えようとするような優しさを滲ませる、細くて小さな、一人の少年。そんな自分を恥じらうように苛立つように、険しい表情と冷淡な仕草を取り繕う、周一郎。
未練を振り切り、自分の部屋に脚を向けかけ、思い直して階段を上がった。
キィ。
軽い虚ろな音をたてて、周一郎の部屋の扉は開いた。
逝ってしまっても部屋はそのままに整えられ、埃一つ載っていない机の上に、日記があった。
真っ白なページを抱え、永久に埋められることのない空洞を抱えた、閉じられてしまった物語。
「ちぇ」
幻なりと見たかったが、俺は想像力貧困な人間なんだろう。人の気配なく静まり返る部屋に、新たな存在は出現しなかった。
この次、この扉を開けるのが周一郎でないのは確かだ。
そして、この部屋が周一郎以外の主人を迎え入れることがないのも確かだろう。
「…開かずの間、か」
この屋敷には、そういう部屋があるのがふさわしい気がする。
扉を閉めて階段を下りる。
俺の部屋は、もうさっぱり片付いていた。
いつでも眠れるように整えられたベッドを横目に、俺はボストンバッグとコートを取り出した。
これ以上に荷物が増えないのはどうしてだろうな? ひょっとすると、持ち物には、それを持つだけの格とかがいるのかもしれない。
(俺の格はボストンバッグとコート……いや、ボストンバッグ一つ、か)
何となく納得して、笑えてくる。
部屋を出て、玄関に向かう。
高野はさっきからずっとそこに居て、動かなかったんじゃないかと思うぐらい静かに、まだ立っていた。
「長い間、お世話になりました」
立ち止まり、ぺこりと頭を下げる。
相手も黙って頭を下げる。黒尽くめの服装、いつもよりネクタイの色も濃い。この分ではずっともうこの喪服じみた姿のままで一生過ごす気かもしれない。
無言の気配に押し出されるように、外へ出る。
午後の日差しは少し弱まっていた。コートを丸めてボストンバッグにひっかけ、これが最後と周一郎の眠る白い墓を訪れる。
「大悟がいるから、少しは寂しくないだろうが」
そっと声をかけた。
森閑とした周囲に俺の声がえらく無遠慮に響く。
「たまには来るよ……その…生活に余裕ができたら、花でも持ってくる。線香は…いらねえよな?」
我ながら間抜けた別れのことばだとは思った。と、かさり、と木の葉を踏む音がして、俺はどきりとして振り返った。
「その…ここだと聞いたんで」
「…お前か」
うんざりした俺に、直樹が肩を竦めて見せる。
「こんな立派なところ、出ちまうのか?」
俺はむっとして直樹の側を通り過ぎた。
「何だよ、怒ってんのか?」
「人がマジの時に出てくんなよ」
ボストンバッグを持ち直してすたすた歩く。タイミングが悪い。胸の奥に立ち上がった周一郎の顔に、クレヨンで落書きしてくるようなうっとうしさだ。
「下宿なんて、いいの、ないぜ」
「屋根がありゃいい」
こいつはほんと、自分の顔とか存在とかの意味をわかってやがるのか? もう居なくなった大事な友人の不出来なコピーが飛んだり跳ねたりするのを、誰がああ懐かしいなあとか思えるだろう。
「けどさ」
「もう黙れ」
「……」
俺が言い捨てると、直樹は大人しく口を噤んだまま、俺についてくる。
背後からの気配を無視しようとして無視しきれず、ついつい脚を速めて、俺はあっという間に朝倉家の門扉に辿りつき、そこから出た。
ガッシャーン。
冷たく重い音をたてて閉まった門の遥か彼方、高野の姿を、朝倉家を、そしてそのどこにも居なくなった周一郎の姿を思い、俺は背を向けた。
その瞬間から、朝倉家は、俺の世界と急速に離れていった。




