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「ヘーックショイ!」
「ごめんなさいね、ほんと、あたし慌ててたものだから」
「んぁ……いや、俺のほうこそ、どうも…」
もごもご言いながら、与えられたバスタオルを腰に固く巻き付けて、背中からバスタオルも掻き合わせる。
秋とはいえ、夜になるとずいぶん冷えてくる。彼女は洗濯機の回りで忙しそうにしていて、それは俺のジーパンとポロシャツを洗ってくれているからなのだが、それでも。
「こんな簡単に男を入れていいのか…?」
お由宇といい、この娘といい、それほど俺は安全パイ人畜無害に見えるのか? 消防庁から表彰されるほど安全基準を満たしてしまってるとか? ………それは男としてはどうなんだろう?
「うーむ…」
「もう少しだから、これ、飲んでて」
唸っていると、目の前のテーブルに温かそうなコーヒーが置かれた。
「どうも…でも、あの、仕事中じゃ」
「マスターはあたしに惚れてるから。文句なんか言わないの、ゆっくりしてて」
「……はあ」
そういうことなら一層他の男が自宅に居るってのはまずいんじゃないのか?
「っくしょ」
再びくしゃみが出て、続いて何度も出そうになったのに、慌ててカップを掴んだ。
「いただきます」
じんわりと掌か伝わる熱にほっとした。
「あったかい…な」
ごくりと一口飲み、すぐにもう一口飲む。
何か不思議な味だった。
今まで飲んだことがない、奇妙な甘みとも苦みともつかない味。
それともこれは凄く高いコーヒーで、俺が知らないような種類だからだろうか? いやそれでも朝倉家のコーヒーだって、確かとんでもない値段だったはずだし、このコーヒーの妙な感じはそれとまた違う気もする。
「??」
匂いを嗅いでみようとして、そのままごくりと飲んでしまい、またあれ、と首を傾げた。
今俺は飲もうとしなかったよな? 飲もうと思ってなかったよな?
なのになぜ、飲んじまうんだ? ほら、今だって。
ごくん。ごくごくごく。
残ったコーヒーを一気に飲み干し、何となく娘を振り返った。洗濯を終わって、今は乾燥機をかけてくれていたらしい娘が振り返ってにっこり笑い、その笑顔が満月のようだと思い、次の瞬間、また、がぶりとどこかの急所を噛みつかれたような気がして皮膚が粟立った。
「あれ…?」
「コーヒー」
娘が笑った。
「もう一杯、いかが?」
「もう一杯、下さい」
俺は間髪入れずに応えて空のカップを差し出す自分の腕を見つめた。
なんだ? 今こいつ、勝手に動かなかったか?
瞬きして、カップと娘を交互に見る。相手は微笑みながら、カップにコーヒーをポットから注ぐ。
手を放していないと、もし零れたら火傷するかもしれないし、危ないだろうに、娘は手を放せと言わないし、俺も放さない。
こ、ぽ、ぽ、ぽ、ぽぽ。
湯気を立てて注がれるコーヒーが、一気に溢れて手もろとも膝や体を焼きそうで、目が離せない、手が放せない。
こぷこぷこぷこ…ぷ。
「はいどうぞ」
促されるままに、俺はコーヒを口元に運んだ。
いい香り、奇妙な味、舌を焼きそうな熱さ、なのに呑み込むのが止められない。口の中、確実に薄皮がめくれたに違いない。なのに。
「おいしいでしょう?」
娘が笑う。
「おいしいです」
俺は笑い返す。口の中がひりひりしている。
「体が温まるわよね?」
「体が温まります」
何だ? 何だ? 何だ?
勝手に受け答えする口や、勝手にコーヒーを飲む手や、温かくなってくる体に勝手に解れていってしまう気持ちに妙な違和感が広がって不安になってくる。
おかしい。
何か、おかしい。
けど、何が? なぜ? どこが? どうして?
「お名前は?」
娘が静かに尋ねた。
いつの間にか、テーブルの前に座って、俺を覗き込みながら目を細めている。満月のようだと思った微笑が、今は研がれて鋭く曲がった三日月のように思える。
「滝、です……滝、志郎」
「どこに住んでいるの?」
「周一郎のところ……朝倉、周一郎ってやつの、家庭教師をしています」
「そう…」
その朝倉周一郎って、あたしの探してる人かしら? サングラスをかけた怖い坊やなんだけど…?
「ああ……きっとそうですね」
俺はへらりと笑った。彼女に応えられるのが嬉しくて、もっとたくさん聞いてほしいと思った。
「でも怖くないですよ……あいつは…」
凄くいいやつなんです。
「そう……じゃあもっと教えてね…?」
甘い声が響いて、視界が柔らかな吐息を紡ぐ唇と細めた瞳だけに覆われた。
淡い夢の中のような問いかけは続く。
周一郎が怖くないなんて、滝さんって強いのね……強い?……怖くないんでしょ……ええ、ありません…だってあいつにはひどく脆いところがある……知ってるわ、あなたでしょ……俺が?……そうよ、あなたが周一郎のアキレス腱………まさか…あいつは俺なんか頼ったりしませんよ………そうかしら………。
くすくす、と笑い声が響いた。誰が娘と話をしてるんだろう。
俺なのか? 俺らしい。
けど、何だって、俺はこんなことを話している?
そうかしら……そうですよ……周一郎に確かめたの?……何を……あなたにいて欲しいのか、いて欲しくないのか……俺から聞くんですか、相手にしてもらえないですよ、俺は……あいつの相棒にもなれやしない……意地っ張りね……誰が?
意地っ張りなのは周一郎なんだ、だけど…………俺はその意地っ張りなとこも気に入ってるんです………そう……かわいそうにね……。
かわいそうにね。
誰が? 周一郎が?
なぜ?