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「挨拶?」
直樹はきょとんとした。
「ここを出ていくのか?」
「ああ」
それがお前に何の関係がある。
「じゃ、朝倉家に…」
「あそこも出る」
かぱん、と直樹のどこかが外れたような、呆気にとられた表情で直樹は俺を見返した。
「出てどうすんだ? ……綾野の方は?」
「綾野は死んだんだそうだ」
「死んだ…」
「ああ。客達の知り合いにししりあん、てのが居たそうだ。そいつに殺られたって、アンリが連絡してきた」
「ふ…うん…」
直樹はゆっくり瞬きすると、そっと理香に視線を落とした。
「じゃあ、もう、お前が狙われることもねえなあ」
ぎくっ、と理香が震えた。しばらく体を硬直させた後、のろのろと体を起こす。鼻の頭と目元が薄赤くなっていて、ただのラブシーンにしてはひどく哀しげな切なげな顔だ。まるで、かけがえのないもの、今にも失いそうになっているものを眺めるように、直樹を見つめると、唐突ににっ、と笑った。
「うん、そうだね」
一抹の寂しさが漂った、強がったとしか見えない表情は気のせいだったのか。
理香はさっと直樹から離れた。立ち上がり、打って変わって明るい顔で言い放つ。
「あたしも、もう抜けようっと。由宇子さんに言ってくるね?」
「ああ」
直樹も、恋人が離れていくにしては奇妙な表情で理香を見送った。いとおしいというよりは哀れむような、大事だと思っているというよりはとても綺麗な見知らぬものを見るような。
「それで?」
昨日の服のまま眠っていたのだろう、ベッドから抜け出し、脱ぎ捨てられていたセーターを被り、ジーンズのチャックを上げる。
「どうする気だって?」
「俺?」
「他に誰が居るんだよ」
「……下宿を探す」
「はあ?」
直樹は珍生物世界一覧を見るような視線で俺を眺めた。
「……大学は」
「しばらく休学。生活していけそうになるまで」
「……わからねえな」
肩を竦めた俺に、直樹は背中を向け、革ジャンを羽織りながら続けた。
「周一郎はいないんだし、あの家はあんた一人だろ? 誰にも気兼ねする必要ねえじゃねえか」
何て言ったかな、執事とかあそこに居る連中だって、あんたに出ていけなんて行ってないんだろ?
「……だからだよ」
耳の奥に過った声、胸の暗がりを掠めた幻影、柔らかく両手を広げる、逝ってしまった静かな存在。自分がいなくなることを覚悟して、それでも俺の居場所を守ってくれようとした、優しい腕。
「……周一郎がいないからだ」
「え?」
今度こそ本当に驚いた、そういう顔で直樹が肩越しに振り返る。
「周一郎がいないから、俺があの家に居る意味はないんだ」
そうだそうだ、皿洗いだってできないし、掃除も洗濯も、草刈りだって満足にできないんだからな俺は。
(俺ができるのは)
あの、所作完璧で、頭が良すぎて、気持ちが優しすぎて、意地っ張りで不眠症のやつの、一瞬寝落ちるための枕になるぐらい。
「だから出て行く」
またぞろいじけてしまいそうになってきたので、投げるように言い捨てて部屋を出る。
「おい! 滝さん! 待てよ、もう出てくのか?」
背後から追ってくる直樹の声を無視して、俺はお由宇の家を出た。




