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ルルルル………。ルルルルル……。
眠りの闇の遠くから電話の音がする。
「…はい」
かちゃり、と受話器を取る音がして、お由宇の声が聞こえた。
「アンリ? ええ、由宇子です」
俺は寝ぼけ眼を開けた。
「っ」
すぐ目の前に机の脚があってぎょっとする。ソファで寝てたはずなのに、いつの間に床に落っこちたんだろう。
「あてて…」
きしむ体に唸りながらごそごそ起き上がる俺に、ちらりと視線を投げてから、お由宇は相手に応えた。
「綾野が? ……そう……あの中にやっぱりいたの……不運だったと言えばそれまでだけど……そうね、彼の作戦がうまくいき過ぎたことにしておきましょう」
きゅっと肩を竦めたお由宇は淡い苦笑を浮かべた。
「え? ええ……きっとそうね、あちらの末端から追い込んでおいたんでしょうけど……今までなら、綾野ごときに食いついてはこなかったでしょうし。全く喰えないお子様よ」
くすくす笑った顔は声の割りには楽しげじゃない。いや、楽しげは楽しげだが、ああよかった嬉しいわとかいう無邪気なものではなくて、全力で噛み合える相手を見つけた闘犬のような殺気がちらつく。
今まで見たことのない、冷ややかな獰猛さ。
思わずごくりと唾を呑んだ俺を一瞥して、お由宇はすぐに猛々しい笑みを消した。柔らかなアルカイックスマイルになり、
「ええ……そう伝えておくわ。それじゃ」
チン、と上品な手つきで受話器を置いて振り返る。
「綾野が殺されていたそうよ」
「っっ!」
「あのコレクターの中に、シシリアンに繋がる関係者が居たらしいわ。信頼と名誉を重んじる彼らは、綾野のやり方に黙っているわけにはいかないと判断したようね。フランス行きの船で撃たれて、海に落ちたらしいわ」
どこか寒々とした声だった。
(あいつが散った海に、綾野も消えた)
これこそ前世からの腐れ縁というやつか?
(でも、だからって)
のろのろ起き上がり、洗面所で顔を洗う。ばしゃばしゃ冷たい水を頭から被っても、体のどこかで死んだように身動きしない自分を感じた。
(だからって)
周一郎が帰ってくるわけじゃないもんな。
「荷物を取りに行くの?」
タオルで顔と頭を同時に擦りながら出て来た俺に、お由宇は心得たように声をかけてきた。
「ん……先に休学届け、出してくる。しばらくはアルバイト暮らしだ。下宿も探さなきゃならんし」
溜め息が出る。学費と住処を同時に失ってしまった。いや、たぶん、そうじゃなくて、失ったものは。
「しばらくなら、ここにいてもいいのよ」
鼻先をタオルに埋めたままぼんやりしてしまった俺を気にしたのか、話しかけてきたお由宇にゆっくり首を振る。
「いや……直樹は?」
「部屋よ。まだ寝てるでしょうね」
時計を見やる。オークションがあったのが昨日の夜、今が午後二時過ぎ、俺が起きられた方が不思議なのだ。
まあ、俺なんかまだいい方で、アンリはあれからすぐチャーター機でフランスへ、モレリー・コレクションを持って飛んだから、今電話をしてくるまで一睡もしていなかっただろう。
「……ちょっと、挨拶してくる」
「志郎、」
なぜかお由宇が止めかけたが、それを無視して、直樹が寝泊まりしている部屋に向かう。
「おい、な…」
おき、と続けてノックをしかけて、中から漏れる声にぎくりとする。
「……ったね」
「……りがと……」
囁き声と甘い返答、どうやら理香が一緒に居るらしい。うろたえてその場を離れようとして、止めようとした気配のお由宇を思い出す。
(そうか、理香が居るって知ってたのか)
「やれやれ」
首を竦めて向きを変えた俺の耳に、ふいに激しくしゃくりあげるような声が届いた。
「直樹…直樹!」
「どうした!」
夕べは怪我をした様子はなかったが、顔を似せたせいで中身まで似たのか、妙に意地っ張りなところがある奴だから、また何かを我慢していたのか傷が悪化したのか。慌てて部屋に飛び込んで、ベッドから半身起こした直樹と、彼にしがみついて泣いている理香を見つける。
「…聞いてたのかい?」
一瞬びくりとした直樹は、ふてぶてしい笑みを広げた。
「案外、趣味が悪いな」
「違うっ」
これはひょっとすると、ひょっとする状況だったのか。さっきの泣き声はひょっとしてひょっとするものだったのか。思いついた内容に焦りながら、まくしたてる。
「もう、お前と会うことはないだろうと思って、挨拶に来ただけだっ!」
(昼間っから公然といちゃつくな、ガキのくせに!)
いやもちろん、いい大人だって時と場合があるだろうあるはずだあってほしい。




