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「『木もれ陽と少女』……5000万から」
「1億」
「1億2000万」
「2億!」
きんきん声がその婦人の喉から飛び出た。
「……はい、2億」
綾野が静かに繰り返す。ざわめきが起こる。数人はしまったという顔、残りはたいして関心がなさそうか、微かな軽蔑を浮かべている顔だ。
「失敗したような顔は、オークション慣れしていない人よ」
「え?」
「今が賭け時ではない……彼女はそれに気づいてないのね」
「賭け時って……欲しい絵に値をつけていくんだろ?」
お由宇は少し肩を竦める。
「あの人が欲しいのは絵ではなくて、オークションで競り勝ったという気分なんでしょ」
続く数作、オークションが進むにつれ、その婦人の様子は目に見えて落ち込んできた。周囲が次々出されてくる作品に熱狂していくのに反比例して、彼女は沈み込んでいくが、夫はもう知らぬ顔だ。オークションに予定していた手持ち額を使い果たしたのだろうか。
「いろいろ大変だなあ」
「感心してる場合じゃないでしょ? こっちも大変よ」
「次、『木の色』、3000万から」
綾野が作品を紹介しながら、ぴたりと俺を見据えてきた。仮面をつけ、格好もいつもとは全く違うはずだが、感情を読み取りにくい瞳が、より無表情に俺の顔を凝視する。
「いかがですかな?」
「う」
まるで俺を指名したように問いかけてくるのに怯む。たじろぐ俺に重ねて声をかけようとした相手に、お由宇が淡々と応じた。
「5200万」
「7500万」
「9000万」
お由宇の提示を追うように次々と値がつく。綾野が仕方なしに俺から客達に視線を戻す。
「では『木の色』、1億3000万で」
綾野は買い取った婦人に優雅な一礼を送る。上品に、如何にも誠実真摯な人間のように。
「次は『木もれ陽の下』…」
「3000万」
「志郎?」
「ん?」
お由宇が冷ややかな声をかけてきた。
「ちょっと騒ぎになりそうよ」
「え」
お由宇の視線を追って意味に気づく。ステージの端に居た男が綾野に頷き、片隅の扉から滑り出て行くのが見えた。
「5100万」
「6000万」
「他には?」
尋ねる綾野の視線が、俺達を舐め回す。センサーがあれば、派手な警報音が鳴り響くような、物騒な視線だ。
「6300万」
「7500万」
「俺達だとわかったのかな」
「きっとね。伊田夫妻を確かめに行ったようね」
「7600万」
「願ってもない陽動作戦だな」
俺が強がると、お由宇が苦笑した。
「あなたにそんなことが言えるとは思わなかったわ」
「…俺だって、たまには言える」
「そうね」
くすくす笑うお由宇の声に重なって、吊り上がる値が聞こえる。
「7800万」
「そのためには、ここでもうしばらく綾野の相手をしなくちゃならないのよ」
「8100万」
「あんまりやりたくない」
「8300万」
「なにせ、一度、綾野の視線で戦死している」
「9000万」
「精神戦は強いでしょ」
「1億1000万」
相手によりけりだ、と応えようとした俺の目に、隅の扉から再度顔を出す男が映った。綾野が地獄の鬼もいじけるような冷たい笑みを浮かべて、俺達を見る。
「っ」
原初的な恐怖というのか、体中の産毛が一気に逆立って身を竦める。
どうしてこんな奴を相手にしようとしたんだろう。
後悔が見る見る競り上がって、ない尻尾を股に挟んできゃんきゃん悲鳴を上げて逃げ出しそうなのを、必死に押さえ付ける。
「怖い?」
「……」
お由宇が柔らかく笑うのに応えなかった。
今更言ったところで、どうなるものでもないんだし。
「では、『木もれ陽の下』は1億2300万で、『レッド・キャット』様に」
始まった時にはひんやりしていた広間の空気は、詰めかけた客の熱気に蒸されてきていた。喉が渇く。背中にべっとり汗をかいているはずだが、乾く気配も冷える気配もない。
「次が最後です、『木影』7000万から」
綾野がことさら丁寧に最後の作品を導いた。その後ろで、隅の扉から入ってきた男達が、一人また一人と俺達の背後、入り口の扉の前に集まり始める。
「7200万」
このオークションが終われば、背後に回ってきている男達が、俺達を捕まえるつもりだろう。猫がネズミをいたぶるように、綾野は落ち着いてオークションを進める。
「7500万」
「8100万」
「あら」
ふいに、お由宇が小さく呟いた。じっと『木影』を見つめている瞳が、ゆっくり細められ小さく笑う。
「9000万」
「1億2000万」
「他には?」
綾野は俺達を見やって笑った。ふてぶてしい、どこか嘲笑するような笑み。
「1億3000万」
「1億3700万」
「1億7000万」
「1億……7200万」
歯を食いしばるような音が響いた。
「1億7200万。他には……いらっしゃらないようですね。では、1億7200万で、『グリーン・ジャガー』様に」
ほうっ、と並ぶ人々の間から溜め息が漏れた。
「作品は別室にご用意いたしております。どうぞお持ち帰り下さい。事前にお伝えしておいた通り、以後は皆様の持ち物となり、保全管理もお任せいたします。また、私どもの手がご入用ならば、ご相談させて頂きますのでお申し付け下さいませ」
(もちろん、ただという訳じゃねえよな?)
俺の心の声が聞こえたわけでもないだろうが、慇懃な態度で頭を下げた綾野は、席を立ったお由宇に向かって声をかけてきた。
「『パープル・ドッグ』様」
打って変わった鋭い咎めるような響きに、三々五々出て行きかけていた客が足を止める。半身振り返らせたお由宇が、穏やかに尋ねた。
「何か御用でしょうか」
「今日はお目に止まるものはなかったんでしょうか。一作も…お声がかからなかったようですが」




