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船上のパーティは今やたけなわだった。脚の震えも次第に納まり、やっと立食パーティの料理の味がわかり始めたところだった。この俺でさえ、見覚えのある有名人があちらこちらに居て、さりげなくお由宇の仕草を見習って会釈すると、向こうもまるでこっちを知っているかのように頷いて見せた。
「ずいぶんいい加減なんだな」
「一人一人覚えていたら、それこそ身が持たないわよ。カクテルはどう?」
「うん…」
俺はカクテルを受け取りながら、手が震えて借り物のスーツを汚すじゃないかと気が気じゃなかった。こういう場所にずいぶん慣れているらしいお由宇は、次々かかる誘いをさりげなくかわしていたが、それでも時間だけは忘れていなかったらしく、ちらっと時計に目をやって囁いた。
「時間よ」
「あ…うん」
俺は半ばお由宇に引っ張られるようにして、人々の間をゆっくり動いていった。
「志郎」
お由宇がウィンクを送ってよこす。鴨を見つけたらしい。
このパーティへの招待状はアンリの方から手に入れていたが、オークションの参加状はない。そのあたりのコレクターの券を失敬しようというのだった。前の、どうにも似合わない真紅のドレスを着た婦人と如何にも成金風の男が、俺達と同じように人波の間を縫って行く。見たところ、オークションに出るのは初めてらしい。きょろきょろしている二人を通路の窪んだ所で待ち伏せ、人影が居なくなった所を見計らって軽く殴らせてもらった。きゅうとも言わずにのびる二人を、手荒いながら近くの客室へ運び込み、参加状と中世の舞踏会用じゃないかと思える仮面を頂く。
「伊田様でございますね、こちらへどうぞ」
どうやら、オークションの中身については詳しく知らされていないらしい、素人っぽいスーツの男が俺達を席へ案内し、ドアを閉めた。鍵のかかる音。
これで、俺達は完全にこの広間に閉じ込められたわけだ。
ずり落ちそうな仮面を着けた俺達は、部屋に集まったコレクター達の顔を見ていく。気のせいだろうか、外に居た著名人があまりいないような気がした。
「とんだ仮面舞踏会ね」
お由宇のことばに、また周一郎を思い出した。
十分な視力はない、色も形も曖昧な、淡く霞む世界の中に、幾つも幾つも仮面を重ねた人々が往来する。ルトの爪がその仮面を剥ぐにつれ、隠されていた顔が見えてくる、優しい春めいた微笑みの下で残虐で血に濡れた牙も……。
「直樹とアンリは?」
「もう待っているはずよ」
用意された座席はそれほど多くない。導かれて次々と座っていく客達は、お互いの仮面を興味深そうに見つめ合い、曖昧な笑みで目を逸らす。
広間の正面にはイベントや舞台などで使われるのだろう、低めのステージが設けられている。
「あ…」
お由宇の視線を追って周囲を見回していた俺は、ステージ中央に置かれた重厚な木目の演台に近づいた人物に気づいた。黒地に銀で模様が描かれた仮面をつけているが、その冷酷な瞳の色には覚えがある。獄中で死んだはずの綾野だ。
「お集りの皆様」
マイクから声が響いて、ざわめきが静まった。それぞれに演台を見やる顔をゆっくりと見渡して、綾野はことばを続ける。
「お待たせいたしました。オークションを開始いたします」
綾野の背後に降ろされていた真紅のカーテンがするすると左右に分かれた。
「モレリー・コレクション『木影』の連作です」
通常のオークションなら、品物を一気に見せることはないのではないか。
だが、居並ぶ客の視線が慌ただしく作品を行き交い、やがて深く重い溜め息が漏れる、羨望と興奮と、全てを手に入れるための財力を思って。
「『木影』『木の色』『木もれ陽の下』『木もれ陽と少女』『冬の幻想』『木樹の祭』『月樹の影』……以上七点」
本物がここにある以上、フランスに戻ったのは綾野がすり替えた偽物のはずだ。だが、俺とお由宇は、その偽物が、直樹とアンリの手で『ランティエ』が新しく描いた贋作に再びすり替えられたことを知っている。
そして、直樹とアンリは、その偽物の絵を持って、この船のどこかに潜み、綾野のモレリー・コレクションとすり替える隙を狙っているはずだった。
「…けどさ」
俺はそっとお由宇に耳打ちする。
「防犯カメラとか、そういうの、当然あるよな?」
「そっちは大丈夫よ」
カメラがあっても、機械だから。
お由宇は微かに笑う。
「それをチェックするのは人間だもの」
「? どういうことだ?」
「私には友達も多いということよね」
これ以上、あまり聞かない方がいいってことか、と尋ねると、そういうことね、と苦笑された。
「では、まず『月樹の影』から」
モレリー・コレクションの中でも、幻想的とされる絵が背後の壁から二人の女性によって、中央の綾野の隣へ運ばれた。
モノトーンに近い色遣い、ぼうっと煙るような緑と紫、ミルク色の月光が滴るような柔らかい筆遣いで表現されている。
絵の事はよくわからないが、その絵の甘く切ない美しさは充分心に沁みた。
確かに『ランティエ』は世界の裏側で生きている人間かもしれないが、それでもこれだけ美しいものを生み出せる心というか魂というか、そういうものを持ち合わせている。
(人間って、わからねえな)
「5000万」
「7000万」
「1億」
淡々とした声が続く。まだ誰もがお互いの程度をはかっているぐらいなのだろう。
「1億2000万」
「1億2500万」
「1億3100万」
上がり方が鈍った。それ以降は続かない。
「では…『月樹の影』は1億3100万で『ブルー・タイガー』様に」
青色の虎を模したと思われる仮面の紳士がゆっくり頷く。
「次、『木樹の祭』」
綾野の唇が皮肉っぽく歪む、
「2000万」
「2700万」
「3200万」
「…3700……いや、5000万」
これは上がり方が遅い。
「ふう……」
思わず溜め息をついた。よくも、どもらずにぽんと2000万などと言えるものだ。俺なら確実に舌を噛む。
「7500万」
「……他には? 結構、7500万で『ホワイト・クラウン』様に」
腹がせり出したでっぷりした男が、にまりと笑って周囲を見回す。気まずい顔になって、その男の視線から顔を背けた婦人が一人、夫らしい男にイライラと何か訴えている。




