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「アンリ…?」
「失礼シマシタ。アナタガ色々知ッテルト困ル時ガアルト、言ワレテマシタカラ。ボク、あんり・もれりートモ呼バレマス。でゅびえハ、母方ノ姓ナノデス」
「あなたってお芝居ヘタでしょ? もし、綾野の手下に出くわして、何か訊かれたら、相手に隠し通せそうにないから、アンリには黙っていてもらったの」
「お由宇!」
むっとして怒鳴ろうとした俺の頭に、ふっと綾野の手下に向かい合っている自分の姿が浮かんだ。闇の帝王のように冷ややかな笑みを広げてかっこつけている綾野が、実は密かに張り巡らせた罠に向かってまっしぐらに走り込んでいると思ったら……だめだ、確実にしまりのないにたにた笑いになってしまう。
俺の頭の中を見抜いたように、お由宇はにっこりと笑った。
「ね?」
「……うん」
「アンリは次期当主なの。モレリー氏は、元々綾野の遣り口を忌々しく思っておられたの。それで、息子から今度の作戦を持ちかけられた時、二つ返事で協力して下さることになったの」
「でも…せっかくのコレクションを売ってまで」
思わず呟く。
いくらむかつく相手をやっつけるためだからと言って、自分の大切にしていたコレクションが売り飛ばされていくことを同意できると思えない。それとも、金持ちっていうのは、そこまで酔狂、いや、暇を持て余して退屈がっている人種なんだろうか。
と、どうしたのか、アンリはふいに奇妙な笑みを浮かべた。
「もれりー・これくしょん、ネ。確カニ、アレハ、モットモもれりー家ラシイこれくしょんデショウネ。ゴ心配ハ無用デス、滝サン。父モ、一度、アレヲ売リニ出シテミタガッタノデス。彼一流ノゆーもあデネ」
ますます訳がわからなくなった。モレリーのユーモアとモレリー・コレクションの売り出しとどういう関係があるというんだろう。
「あら、もう昼を過ぎてるじゃない。御飯にしましょ」
お由宇が時計を振り返りながら立ち上がった。いつの間にか空のコーヒーカップを集めて手に持っている。そのまま台所へ向かいながら尋ねてくる。
「食べて行くでしょ、アンリ? 理香さん?」
「ハイ」
「ん」
俺と直樹は計算済みらしい。手慣れた動作で五組の食器を用意し始める。
「むー」
どことなくすっきりしないまま、かと言って何を確かめればいいのかもわからないまま、お由宇の動きを眺めていると、ふあう、と小さなあくびを漏らして直樹が席を立った。
「午前中に起きることなんて、まずねえからな。昼飯ができたら起こしてくれ、ちょっと寝てるよ」
眠たげな口調に、はっとしたように理香がその腕にしがみついて一緒に立つ。
「じゃ、後で」
にやりと笑った直樹は軽く手を振り、理香を従えてドアの向こうへ消える。
「理香サンハ、彼ノ側ニイルト別人ノヨウデスネ」
「うん」
頷いて二人を見送っていた視線を戻し、俺を凝視しているアンリにどきりとする。
「な、何だ?」
「…イエ」
アンリは穏やかに澄んだブルーの瞳に微かな憂いを浮かべた。
「コノ仮面劇ノ結末ハ、ドウナルノカナ、ト思ッテ」
「仮面劇…?」
俺の脳裏を、リオのカーニバルの派手派手しい仮面がわさわさ揺れながら横切った。
「仮面劇って……何が?」
「それでね、志郎」
アンリが答える前に、台所から食器を運び込みつつ、お由宇が話しかけてきた。
「実は一つ、あなたにお願いがあるの」
「お願い?」
「私の恋人になって欲しいの」
「へっ」
どん、と胸をでかい木槌で殴られたような衝撃がきた。
「こ、恋人……っ」
そりゃお由宇は十分に美人だ。料理も上手いし、いろいろと面倒も見てくれるし、頭もいいし、それなりに親切だし、いやそういう意味では本当に突っ込みようのない相手だが。
「お、俺のかっ」
思わず聞き直す。だってそうだろう、お由宇に問題がないとしたら、こういう場合は絶対俺に何かあるか、相手が間違っているかに違いない。
「そうよ、あなたが一番いいの、恋人役に」
「…は? 恋人…役……?」
それはひょっとして。
「えーとつまり、芝居、ってことだよな?」
「他にどんな意味があるの?」
「……いや、ないと思う、ないだろう、うん、絶対にない」
ずるずる落ち込んでいく気持ちを必死に引き立てつつ頷いた。
なるほどなー、恋人役。それならわかる、とってもよくわかる。わかってしまうあたりがもうどうにも情けないが、十分にわかる。
「そっかー恋人役なーなるほどなーさすがだなー」
「何がさすがなの?」
「いやいいんだもう気にしないでくれ明日は雨に決まってるそういうことだ、で何で恋人役がいる?」
訝しそうなお由宇の突っ込みを何とか流して尋ねると、相手は直樹が消えたドアに素早い一瞥を投げて、俺を振り向いた。きらきら光る瞳がとても楽しそうで、物騒に見える。
「綾野が罠に落ちていくところ、見たくない?」
「見たい!」
即決で答える。周一郎を追い詰め、世界の覇者みたいに振舞うあいつが、どんなに惨めな顔になるのかは是非見たい。
「オークションは、モレリー・コレクションが日本を離れフランスに着く頃に、綾野の持ち船、『マリー・ボネ』号の船上で行われるわ。名義はポール・ボウヌのものなんだけどね。船上の財界人のパーティという名目だから、パートナー同伴なのよ」
ああ、なるほど、と改めて腑に落ちた。
「オークションが終わった後、オークション以上の見物ができるはずよ」
嬉しそうにお由宇は笑う。逆に俺は、財界人のパーティと聞いて気力が萎えてくるのを感じた。そんなものは見たことも食べたこともない。災難には喉から溢れるまで出くわしているのだが。
「アンリは? 彼ならぴったりだろ」
怯んだの半分で、多少いじけて答えると、お由宇は心底残念そうに首を振った。
「彼はだめなの。私達がオークションを見物している間に、直樹とやってもらう仕事があるのよ」
「仕事? ……じゃ、俺達の仕事ってのは、ひょっとして綾野の目を引きつけておくとかいう」
「そう、陽動作戦、ね」
俺は陽動作戦ばっかりだ、と思わず胸の中でぼやいたが、俺に仕事を任せるようなら、お由宇の作戦とやらもかなりいい加減だとは思う。
「お昼できたわよ。直樹君達を呼んで来てくれる?」
「わかった」
俺はソファから腰を上げた。




