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次の日、俺は上機嫌だった。
「じゃ、ちょっと本屋まで行ってくるな」
「はい、いってらっしゃいませ。お夕食までにはお戻り願います」
「わかってるって」
高野の見送りを受けて、足取り軽く歩き出す俺の頭に浮かんでくるのは、今朝、俺にもたれて前後不覚に眠っていたと気づいた時の周一郎の顔。
目を覚ましたのは、珍しいことに周一郎より先で、差し込んできた朝日の眩さと体中の痛みのせいらしかった。
周一郎を起こすまいとしたのが一晩中の緊張の原因、体が他人の物のように強張ってしまっている。そっと首を捻り、続いてカチカチになった足を少し動かしてみる。
「…ふ…」
漏れた声にぎくりとして周一郎を見やると、相変わらず無邪気な顔で眠っている。
良からぬことを思いついてにやりとした。
「周一郎」
声をかけ、軽く揺さぶる。
「起きろよ、朝だぞ」
「…ん……」
もぞりと動いて逆に朝日を避けるように俺の懐へ潜りかけた周一郎は、次の瞬間、文字通り跳ね起きた。
「っ、滝っ、さん!」
「おぉ」
「どうしてここにっ!」
「どうしてはないだろ」
に、と笑ってやる。
「人の肩を枕にしてたくせに」
「僕、が?」
弱みを見せた、といつもの照れたような怒ったような表情になった周一郎は、みるみる赤くなった。
「その様子じゃ、よく眠れたみたいだな」
澄まして言ってやるとくるりと背を向け、急ぎ足に机に近づき書類を片付け始めながら、むっつりした声を投げてきた。
「どうして起こしてくれなかったんです。仕事も溜まってたし、片付けなくてはならないこともあったし。第一、滝さんも困ったでしょう」
「べつに」
俺は肩を竦めた。
「俺はかまわん。お前もかなり疲れてたみたいだしな」
よいしょ、こらしょ、と掛け声をかけながら、ソファにガムみたいにくっついた体を引きはがす。
「それに」
「?」
無言で振り返った周一郎はきっちりサングラスを掛けている。部屋に差し込む陽光を遮り、ついでに周一郎の表情も隠してしまったそれに、皮肉をこめて言い放つ。
「こんな時ぐらいしか、俺を頼ってくれないしな」
「……あなたは先天的なお人好しなんですね」
言い捨てて、周一郎はすたすたと部屋を横切り、ドアへ向かった。
「それとも時間を持て余した暇人ですか」
見事なポーカーフェイス、声にはためらいも思いやりもない。
ちぇっ。
胸の中で舌打ちしつつ、うん、と両手を上げて伸びをした。
はいはい、悪うございましたよ、暇人で。なら何か? あのままソファの真ん中でこてんとか一人で眠りたかったというのか? それとも俺とソファに挟まれて圧死したかったとでも?
そんなこと言うなら次は絶対、眠るな起きろ、ここで寝ると凍死するぞ、と大声で叫びながら起こしてやる、と密かな復讐計画を練りながら、微妙に落ち込む。
(結局こいつが俺に心を許すってことはないんだろうなあ)
大きく溜め息をついて手を下ろし、ドアの側で立ったままの周一郎が出て行こうとしないのに気づいた。
「?」
「……すみませんでした」
きょとんとした俺の耳に届いたのは優しい謝罪。
「おい……って、もういなくなってやがる」
だがそれは幻聴かと思うほど一瞬で、次の瞬間には開いたドアの隙間から猫のようにすり抜けて姿を消してしまっていた、のだが。
「ふ、ふんふん、ふーん」
俺は鼻歌まじりで角を曲がった。いずれにせよ、まあ少しは軟化してきたんだ、いい傾向だ、そのうち膝枕とかでも寝る…………さすがにそれはないか。
「まあぼちぼちやるさ、なあ!」
「きゃあっ」
「どあっ!」
勢いをつけて大きく踏み出したとたん、いきなり飛び込んできたものと嫌というほどぶつかってひっくり返った。追い打ちをかけるように、じゃぶっと頭から降ってきたのは。
「コーヒーっ?」
え、何だ、最近の天気はコーヒーまで降るのか、と思わず空を見上げた額に、続いてもう一回。
ごん。
「、てえっ?!……げ!」
ぽふんと間抜けな音をたてて額に跳ねてから落ちて来たコーヒーカップが、俺の腹に残った中身を撒く。
「ご、ごめんなさい!」
高くて可愛いうろたえた声が響いて、目の前にしゃがみ込んだのは、メイド喫茶店員風のミニドレスに白いフリルエプロン、推定年齢20歳前後の女性、が膝をついて真正面に迫った。
「どうしよう、こんなに汚しちゃって」
眉をしかめた顔は零れ落ちそうな瞳とふっくらした唇のなかなかの美人、いや、待て、距離が近い、かなり近いんだが。
「だ、大丈夫」
俺ならよくこけるし、コーヒーをかぶるのも初めてじゃないし、第一怪我も何もしてないし。
「だからその、だいじょ」
「大丈夫じゃないわ!」
笑いながら言いかけたら、逆に断言されてぐい、と手首を掴まれた。
「全然大丈夫じゃないの!」
「は?」
「はい立って! 早く! 着替えて乾かすの!」
「え、あ」
いや着替えて乾かす前にできれば洗う方がいいんじゃないか、そうぼんやり考えた俺を急き立てて、娘は俺を引っ張り起こすと、手にしていた銀色のお盆を片手にぐいぐい俺を引っ張っていく。
「あの、君、出前か何かなら、あのカップ放置はまずいんじゃ」
「いいのよ!」
うわ。
がう、と一瞬大型肉食獣に噛みつかれたような奇妙な感覚が襲った。
なぜかわからないが、急所を銜えられてしまって逃げられない、そういう気がして、何となく相手に握られた手首を見る。
「あの、ちょっと、待って」
「待たないの、待てないでしょ!」
「う……うん……?」
うなずいて、大人しく彼女の後から歩き出しながら、俺はそのままずるずると相手のアパートだという部屋に連れ込まれてしまった。