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「大丈夫デスカ? …血ノニオイ……ケガデスカ?」
アンリがバックミラーを見ながら尋ねてくる。ほっとしたのと、車の振動で眠くなりかけていた俺ははっとした。
「あ…あ、そうなんだ、直樹が」
「救急箱、借りてるぜ、アンリ」
直樹は既に革ジャンとセーターを脱いでいた。車の後ろにあった箱から、包帯とガーゼを取り出し、手慣れた様子でまくり上げたシャツの下の傷に巻き付け始める。生暖かい血の匂いに軽く眉をしかめたアンリは、ぽつりと呟いた。
「ヤッパリ…大沢デスカ」
「うん、大沢だ。モレリー・コレクションのことは本当らしいぜ」
「トイウコトハ…」
アンリと直樹の、よくわからない会話を聞きながら、俺は車の側を擦り抜けて先へ走り出していくバイクを眺めた。
(あれは…お由宇だったのか)
周一郎と和野岬へ行った時、二台のバイクの背後から追ってきていたライダー、止まれ、と合図を送ってきていると運転手が言った。それを、周一郎は振り切るように命じた、おそらくはお由宇だとわかっていただろうに。
(お由宇は周一郎のやろうとしていることを知っていた…だから止めに来た……でも)
周一郎はその手を振り切った。
笑みが脳裏を横切っていく。切ないような、淋しいような……薄々殺されることを予想しながら、救いの手を振り切っていった者の笑み。
(そうせざるをえないように……俺が、追い詰めた)
シートにもたれる。
あの日、周一郎は何を考えていただろう。今の俺と同じように車のシートにもたれ、窓の外に近づく救いを拒否して、隣に自分の命を狙う男を置き…。
「滝さん」
「ん?」
呼びかけられて我に返る。
手当を終えたらしい直樹が肩を竦める。
「悪いけど、肩貸してくれよ。疲れちまった」
「あ、ああ」
「ふぅ」
ためらいもなく俺にもたれかかり、疲れ切っていたのだろう、やがて微かな寝息をたて始める直樹を見つめる。
この事件が始まった日、お由宇からの手紙が来た日を思い出す。高野の声……「よっぽどあなたに気を許していらっしゃるんですね」……背中を向け合ったまま、けれども同じ場所に居て、一つの事件に立ち向かうはずだったあの日……あの場所に居た周一郎を、俺は永久に失ってしまった。
(何が…間違っていた?)
俺の自覚、だろうか。
俺が、周一郎にとって、どういう存在なのかがわかっていなかったから?
いや、周一郎が俺にとって、どういう存在なのかがわかっていなかったからだ。
「…ん…」
直樹の安らかな寝息に涙ぐみそうになった。
(もっと、ゆっくり眠らせてやればよかった)
寝起きの慌てる顔を見たいなぞと思わないで。
せっかく得た安眠を、守ってやればよかった。
「……ちぇ」
情けない。
ああしてやればよかった、こうしてやればよかったばっかりだ。
「アチラモ、ナリフリ、カマワズデスネ」
「え?」
響いたアンリのことばに視線を上げる。
「『彼』ニシテハ、強引ナヤリ方ダト、由宇子サンガ言ッテマシタ」
「ふうん」
「イツモ、法律トハ上手クヤッテイタノニ、今回バカリハ、ミダスシカナクナッタヨウネ、ト」
「へえ…」
で、お前はお由宇とどういう関係なんだと尋ねようと思ったが、ただでさえ落ち込み気味のところにダブル・パンチの気配濃厚、それ以上は突っ込まないでおく。
「……コワイ人デスネ」
しばらく黙っていたアンリが再び話し出す。
「お由宇が?」
「彼女モ、コワイ人デス。敵ニシタクアリマセン。コッチノ意図ヲ伝エル前ニ、ソレニ応ジテ行動サレマスカラネ……刃物ミタイデス」
「そうかあ…?」
確かに不思議な女で、悪魔のように頭がいいとは思うが、こわいと思ったことはない。
と、アンリがバックミラーの中からくすりと笑った。
「ボクガ『コワイ』ト言ッタノハ、アナタノコトデスヨ、滝サン」
「え?」
余りにも意外な応えに驚く。アンリがくすくすと楽しげに笑った。
「アナタハ、何ノ意図モナシニ、コチラノ本音ヲ引キ出シテイッテシマウ。ツイ、本音ヲ言ッテシマウ。アナタト話スノハ、大変ウレシイ……ケレド……人ノ裏バカリ見テイル人間ニトッテハ……大変コワイ人デス……味方ニスルニハ、不安……」
アンリの顔が愛想良さを捨てていた。酷薄に光る青い瞳、鋭い視線をこちらに向ける。
「……カト言ッテ、敵ニナッテホシクハナイ……モシ、アナタガ敵ナラ、ナントカシテ、助ケタクナルデショウ……ナントカシテ、自分ノコトモ心配シテモライタイ……ケレド、ソノ代償ハ本音……大変、困リマス…………周一郎君ノ気持チ、ワカリマス」
アンリは一転、柔らかで渋い苦笑を見せた。
「モシ、許サレルナラ……友人ニナッテホシイト思ッテシマウ。コンナ、自分デモ、許サレルナラ…」
憂うような表情が、にっと笑みに崩れた。
「アア…ホラ、ネ…ツイ話シテシマウデショウ?」
「友人って……俺は特に友達を選ばないけど」
そのせいで宮田なんかがやってくるんだろうな、きっと。
溜め息をつくと、ふっとアンリは笑った。その笑みが、どこか周一郎の微笑に似ていてぎくりとする。
「ソウ……デモ、自分ハダメジャナイカト……思ウ時ガアルンデス、アナタミタイイナ人ニ会ッテシマウト、ネ」
きゅっ、と目元に軽く皺を寄せて、アンリはウィンクした。魅力的で華やかな、女性ならばくらりとするような笑顔、けれどどことなく、何を考えているのかわからないような笑みに戻る。
「由宇子サンハ、本格的ニ綾野ヲ追イ詰メルツモリデスヨ。大丈夫デスカ? 滝サン」
大丈夫かと確認されるのは、これで何度目だろう。それでも。
(何とかなるさ)
胸の中で呟く。
踏み込めば、変わるものがあるのを、俺は知っている。踏み込んで、終わらせなくてはならないものがあるのも知っている。
だから。
(これが終わったら)
俺は朝倉家を出て行こう。
時々墓参りに行くことは許してもらって、俺は俺の生活を始める。
(淋しいだろう)
亡くしてきた大事な人同様に。きっと数ヶ月は、周一郎の姿を探しちまうことだろう。
それでも、俺はもう一度、自分の生活を始める。
(「滝さん」って呼ぶ奴がいなくなる)
バイトを始めなくちゃならないな……幾つ掛け持ちするかな。
(あのレンガ塀ともお別れだ)
しばらくはお由宇の所へ転がり込んでいようか。
(墓の下は寒いだろう…)
下宿を探そう……コートをカタに取られないような所を。
(ルト…どうするんだろ)
大丈夫だろう、何とかやっていくだろう。
そして俺は新しい生活を始めるんだ。
窓の外の流れ去る景色を見つめた。
直樹は眠っている。アンリも黙って運転し続けている。
そして俺は、これからの生活を思い。
俺は。
「…くそっ」
そんな風に割り切れりゃ、誰も厄介事に巻き込まれるもんか!




