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数十分後、大沢はうってかわって不機嫌な表情で、相手の顔を凝視していた。
外の通りを歩いていた温和な社会人風はなりを潜め、裏道に片足突っ込んでいることが明らかな冷ややかさが漂っている。
「ずいぶん慣れてるなあ」
俺は直樹の様子に少々感心していた。
普通の繁華街ではなく、ちょっと静かな路地にある『桜樹』という店、品揃えは喫茶店だが、当たり前の喫茶店にしては出入りする人間達の目が鋭すぎる。夜になってもパブ形式には変わらず、店の中には物憂い紫煙とコーヒーの香りが漂うのみ。直樹はここの常連だとかで、俺にサングラスをかけさせると、先に立って店に入った。
「そりゃそうだろ、大沢はこの店をいつも使っているんだぜ」
「いや、お前の事」
「オレ…?」
にやりと直樹は不敵に笑って、コーヒーカップを覗き込んだ。一瞬、閉じた口元に寂しさが漂ったように見えたが、すぐにぱっと目を上げる。
「前から知ってたしな。ここが大沢のよく来る店だとわかってからは、ずっとマークしてた」
「お由宇の指示か、それ?」
「そ」
頷いて直樹は大沢の相手に目を据えた。
暮れた日は、人恋しさを呼び起こす。人々が一人二人と近くの店に入っていく。けれども『桜樹』に人が増える気配はない。
薄暗い照明の下、一癖ありそうなマスターは表情のない瞳を時々ドアの方へ向け、『桜樹』と金文字の入ったガラスの押し戸が、鉄壁で自分達を守っているのだと言わんばかりに薄い笑みを漏らす。微かに流された音楽は、話し声をうまく溶け込ませて、店は妙なざわめいた沈黙に満ちていた。
俺も、直樹の視線を追って、大沢の方をそっと見つめた。
サングラスを通して眺める世間は、鈍いトーンの光にたゆとうような感じで、誰もがセピアがかった仮面を被っている、さながら音楽のない仮面舞踏会だ。
(あいつはいつも、こんな感じで外を見ていたんだな)
思い出すともなしに、周一郎のことを考えた。
(何もかもがセピアの闇に沈む……)
そして、その薄暗闇の視界に対して、ルトは色鮮やかな世界を捉える、激しく移り変わる人々の本音を、隠された笑みの裏を、想いの光と深い影を。
(俺も同じように見えていたのか?)
仮面を被った道化師のように。
(他のやつと同じように)
サングラスを通した人の顔は、どれもこれも似たように見える。どの笑顔も形だけの虚ろな笑みに、どの怒りも体面を守るだけの中身のない怒りに。
(俺もそんな風に見えて)
だから、周一郎は黙って逝ってしまったんだろうか。
「ん?」
肘を突かれ、我に返る。
大沢の様子が厳しいものになっていた。どうやら言い争いになっているようだ。相手の男、五十歳前後の平凡そうなサラリーマンも難しい顔になっている。
それでも、互いの声が店内の音楽を破るほど高くならないのは、よほど、こういう所での商談をし慣れていると見える。が、どうしたはずみか、ふっと大沢の声が、一瞬途切れた音楽の合間を擦り抜けてきた。
「…モレリー・コレクション…」
はっとしたように声を落として、大沢は周囲を見回した。
ぼんやりとそっちを見つめていた俺と、まともに目が合う。大沢の目がぎらりと光って、思わず首を竦めた。穏やかな紳士然とした容貌に殺気が過り、唐突に席を立つ。
「っ」
こちらへ来るのかと思ってひやりとした俺に、それ以上一瞥も投げず、大沢はゆったりとした足取りでカウンターの隅まで歩き、携帯を取り出した。
「なんだ…」
どこかから電話がかかってきただけか。
ほっとしたのも束の間、ちちちと軽い舌打ちが漏れるのに、直樹に目をやる。
あくまで静かな落ち着いた顔でコーヒーを飲んだ直樹は、伏せた視線をじっとテーブルの上、俺の手のあたりに注いだまま呟いた。
「まずいな」
「え…?」
直樹はしばらく全身で大沢の気配を探っているようだったが、流れるような自然な動作で立ち上がった。
「出よう」
「? 大沢は?」
思わず尋ねながら、それでも慌ててレシートを掴む俺に、憐れむ視線を投げて、
「死にたいなら見張ってろよ」
背中を向けて店を出ていく。
「死ぬ?」
後を追いつつ問いを繰り返すと、
「もっと、ちょいと遅かったような…気もする……が」
店を出て数分、直樹は唐突に立ち止まった。闇を透かすように、静かに周囲に目を向ける。つられて俺もあたりを見回す。
「あ…れ…?」
いつの間にか、俺達は数人の得体の知れない男達に取り囲まれていた。




