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「くそっっ!」
理香が自分の方へ向かってきたバイクからかろうじて飛び退く。かなりの距離をとったように見えたが、バイクの男が握っていたのは鉄パイプ、ぎりぎり僅差で理香を掠めてあっという間に走り去る。
ちぃっ、と高い舌打ちが聞こえ、俺の前からお由宇が走っていく。
「ナンバーは!」
「だめ、ナンバープレート外してる! 狙ってやがった、あいつ!」
振り返った理香が激しく顔を振った。
「ブレーキもかけてねえ!」
「かけてたら自分もただじゃすまないわよ」
人一人、たとえ少女にせよ、人間の体は重い。バイクのバランスを保ったまま、相手だけをなぎ倒すには、それなりの度胸と腕は必要、とお由宇は冷めた目で呟いた。
吹っ飛んだマジシャンは、予想もしていなかったのだろう、いやむしろ、バイクが自分と理香との間を遮ってくれると思ってさえいたのかもしれない。道路の端に人形のように奇妙な形で転がった彼女にゆっくり近づくお由宇の後から、おそるおそる覗き込む。
「…っ」
同じものを見た、和野岬の海岸で。
遠い視線、微かな驚きと穏やかさの同居する、ぽっかり空いた魂の虚ろを思わせる目。
何だよこれは。
「……綾野、か?」
「…たぶん。理香さん」
「……さっきそこに居た人が連絡してくれてた」
理香が顎で、そこから一目散に走っていく背中を示した。
「面倒なことに関わり合いたくないらしいね」
こっちも同じだ、と肩を竦めてみせる。
「帰ろう、お由宇さん」
そいつはもう戻ってこないよ。
言い放つ理香がちらりと何か言いたげに俺を見た。
「そうね。そっちの情報はすぐに入るでしょう……志郎?」
お由宇が同じように静かな声で続けて、ゆっくりと振り返る。
死体を目の前にしても全く動じない四つの目に見据えられて、俺は竦んだ。
「何、だよ」
思わず視線を逸らせる。逸らせた視界には、否応なく道路に転がっている死体が入ってくる。
ああそうだろう、綾野なのだ。綾野は手段を選ばない。自分の身を守り、自分の望みを叶えるためには、何人死なせても平気なのだ。
ぞくり、と背筋が冷えた。鳥肌が立って、足下が頼りなくなる。
どうもがいても捕まってしまいそうな気がする。知ぃらない、とここで投げ出しても、綾野が俺の死を安全弁の一つとして必要とするなら、俺の思惑おかまいなしに、今夜にでもコンクリート詰めになっているのかもしれない。
「志郎?」
お由宇がもう一度呼びかけて、振り返った。
聖母マリアじみた微笑。
いいのよ、と語る瞳。
あなたが嫌ならいいのよ。
でも、な?
思わず掌を開いて見下ろした。
あの時、俺は周一郎を救えなかった。
なのに、周一郎は俺を救ってくれた、自分の退路を断つことで。俺が殺人犯になることから。俺が一緒に死ぬことから。俺が負い目を背負うことから。
命の借りは、いつ精算されるのだろう?
園長の話を思い出す。
太陽は全ての道を照らしている。
「俺は…」
できれば、自分がぎりぎりのときに、助けが欲しい。
自分がぎりぎりのときに、今果たさなかった借りを返せと言われて受け入れられるほど、器の大きな人間じゃないんだ。
「…お由宇…」
「はい?」
「……コーヒーを一杯奢ってくれ」
もちろん、出世払いで。
かたかた震えながら、それでも胸を張って伝えると、理香が呆れた顔になり、お由宇がくすりと笑った。
「いいわ……あ、そうだ」
私の家で面白い人に会うかもしれないわよ?
「面白い人? ……厚木警部とか」
「は! デカが居るならあたしが行きゃしないだろ! ばかじゃね?」
理香が嘲笑うのに、事情を知らないだけでも馬鹿なのか、と思い……ふと、足下を見下ろした。
「……ごめん」
虚ろに開いたマジシャンの瞳を閉ざす。ひんやりと冷たくて固い感触に、あの時伏せられていたとはいえ、薄く開いていた周一郎の目も、こうして閉ざしてやればよかった、と胸が詰まった。
辛い現実の裏側を見る傷みから、少しでも守ってやればよかった。
けれど、俺は馬鹿だったから。
何も知らなかった、から。
「ごめん」
マジシャンと呼ばれるこの娘が俺を操った、けれど彼女もまた綾野の操り人形でしかなかった。どこかでその鎖を切ることができたとしたら、俺が君に操られなければ良かったんだ。俺が何が起こってるのかを見ないふりをしなければよかったんだ。
周一郎がいなくなる前に、俺がもっと、世界をよく見ていればよかったんだ。
俺が見ているから、安心して眠っていろ。
そう言ってやれば、よかった。
「……志郎!」
「今、行く」
きっと口を結び、立ち上がり。
何かがいきなりだらだらと鼻から口へ。
「おわ! おっさん、鼻っ!」
「むぐぐぐ」
「志郎、早く」
ハンカチを出したお由宇がいきなり流れ出した俺の鼻血に溜め息をつく。
…………やっぱり慣れないハードボイルドなんてするべきじゃない。




