3
「お由宇、か? だよな…?」
そういえば、お由宇からの手紙を読んだ周一郎の様子がおかしかった。
思い出して、慌ててバッグを探って、手紙を取り出す。どこといって、おかしなものではなかったように思う、思うが。
周一郎が異常に集中して読んでいたのは、どの部分だったろう、と読み直す。
「確か詩があって……」
芸術の都パリ、とは古めかしいことばだが、人類の宝とでも言いたい作品がある場所には違いない。そこの空気にあてられたかと思ったような詩だったはず。
「……あいしてるのに、やさしさしかみせないのね、のこっていたかなしみはどこ
にけしたの……」
読みながら首を捻る。
これのどこに警告がある?
『残っていた悲しみ』というのが京都の事件の符号だとか?
『優しさしか見せない』というのが、隠されていた真実だったとか?
「うーん」
顔をしかめて続きを読む。
「ちにぬれたうでにはあいなんて、ゆめのなかのこと、うれいをつつんでかたすくめてみせる、いとしいあなた……」
俺に詩の才能があるとはさらさら思えないが、この詩がお由宇が惚れ込むような内容にはとても思えない。ましてや、最終章に至っては、ほとんど中身のないことばを並べただけとも…。
「中身が、ない?」
ふいにそれに引っ掛かった。
俺が、この詩がお由宇に不似合いだと思うのは、中身らしい中身がないからだ。お由宇が中身のない、意味のないものをわざわざ送って寄越すとは思えないからだ。
そして、周一郎は確かに『それ』を受け取っている、警告だ、と。
その警告が『綾野が生きている』ことだと。
「……あいしてるのに、やさしさしかみせないのね、のこっていたかなしみはどこにけしたの、ちにぬれたうでにはあいなんて、ゆめのなかのこと、うれいをつつんでかたすくめてみせる、いとしいあなた………あ」
何度も何度も眺めていて、ふいに気づいた。
これってよくあることば遊びじゃないか?
「『あ』いしてるのに『や』さしさしかみせない『の』こっていたかなしみ……『あ』『や』『の』『ち』『ゆ』『う』『い』……か!」
ことばの一番始めの一文字を繋げていくと、確かにそう読める。
「綾野、注意、生きている……だ」
周一郎はこれを読み取ったのだ。
慌てて日記を繰った。
『彼女と連絡を取る。フランスで動いた。綾野を見たと』
「え…」
背中の毛がざわざわと立ち上がっていくのはこういう感覚か。あの蛇じみた残忍さを思い出す。運命という奴は何が何でも、俺と綾野をぶつけなくては気がすまないのか。
お由宇はフランスで綾野を見つけるや否や、すぐに周一郎に連絡を寄越した。
なぜだろう?
(まさか)
淡く白い靄を思い出した。ここ数日の俺の妙な出来事。
(まさか)
『連絡は順調。綾野は僕を憎んでいるが、一度死んだ人間が「これから」死んでも問題はないだろう』
『「マジシャン」。催眠術の天才。フランスから送られたらしい。誰を狙っている?』
(催眠術?)
それって、あの、眠くなりますよー、はい、1、2、3、ってやつか?
チカッと頭の隅でクレッセント・ムーンが閃いた。
あの、名前も聞かなかったウェイトレス、あの娘にコーヒーをぶっかけられた日から、俺は周一郎を狙い始めた、んじゃないか?
(まさか、あの娘が『マジシャン』?)
『僕への刺客は、滝さんか』
「……」
予想はしたが、そのことばに呆然とする。
あの日コーヒーをぶっかけたのも、アパートに誘ったのも計画か? あそこで俺はコーヒーを飲んだ。そこにたぶん、何かの薬が入っていて……俺はあっさり暗示にかかった、周一郎を殺せ、という暗示に。
指から日記が滑り落ちかけ、我に返った。
『僕は馬鹿だ。「マジシャン」に操られている滝さんを遠ざけることも、拒むこともできない。彼女に頼んだ仕事を切り上げるか?』
『彼女に口止め。僕は賭けをしたいのだろう。滝さんは暗示を破ることができるかどうか。無理だろう。滝さんの好意を量ってる。僕の価値を量ってる』
『ことばを使い分けてどうしようというのか。自分の必要性がわからないだけだ』
『生きていいのかどうかわからない』
『滝さんは誰でも受け入れている』
『滝さんは大事にしてくれる、僕を、だがそれは本音か?』
『本当は、面倒なんじゃないか?』
『言い出せないんじゃないか』
『優しいだけだ』
『滝さんまで不要なら、僕の生きている価値などない』
『僕は、生きていていいのか?』
『ここにいていいのか?』
『僕はここにいていいんですか、滝さん』
「……っ」
歯を食いしばった。年甲斐もなく泣き出しそうだった。
「…俺が一度でも、嫌ったことがあったかよ…っ」
小憎らしい奴だとは思ったことがある。ガキのくせして、何を突っ張っている、そう思ったことはある。だが、一度だって心底嫌いだと思ったことはない。むしろ、いじっぱりがほんの一瞬、俺の前で崩れるのが無性に嬉しくてならなかった。
苦しくて、その先を求めてページを繰る。白紙。周一郎の寂しいような哀しいような、何とも言えない瞳が重なる。白紙。「滝さん!」振り返る周一郎が重なる。白紙。弱みを見せたと気づいて赤くなる周一郎。白紙。ルトを抱き上げる周一郎。白紙。サングラスの奥の瞳が問いかける、いいんですか、と。白紙。「僕、ここにいていいんですか?」白紙。「いいんですか、滝さん」白紙。「滝さん」白紙。「滝さん…」「…滝さん…」「……滝…さん……」………。
滲む視界に、周一郎の声が遠く響く。繰り続ける白紙のページに零れ落ちる涙、それを隠すように、永久に埋められることがなくなったページを、俺はひたすら繰り続け……。
「……周一郎……すまん…」
最後まで白いままのページに深く項垂れた。




