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こんこん。
静かなノックに続いて、
「滝様」
辺りをはばかるような低い高野の声が聞こえた。
俺は動かなかった。深く肘掛け椅子に身を沈ませたまま、黙っている、主を失った周一郎の部屋で。
「滝様」
少し口調が強くなった。
「坊っちゃまが悲しまれます……どうか、ご参列下さい」
「…っ、」
口に競り上がった罵倒を噛み殺した。
高野が周一郎の死を悲しんでいないはずがない。周一郎の命令と意志を、最後の最後まで守りたいだけなのだ。
日差しは既に落ちていた。部屋の中には、夕暮れの物憂い光が満ちている。青く霞む部屋の壁に、俺のポートレートが掛かっている。
「滝様……」
低い声が諦めたように続ける。
「それでは、こちらにお食事を置いて参りますから、一口でもお食べ下さい」
朝からほとんど何も食べておられないでしょう……?
どこか寂しそうに尋ねる声が滲んでいる。
そのまましばらく俺の動きを伺っていたようだったが、やがて静かに立ち去って行った。
屋敷の中は、俺の居る部屋を除いて、軽く湿ったざわめきに揺れていた。
今日は周一郎の密葬の日だ。
周一郎が朝倉財閥を動かしていることは、ごく限られた者しか知らない。そして、知っている者は、その突然の不在に動揺を隠せていないようで、密葬とは形だけ、その実、次に打つ手を必死に探し求めての話し合いが続いている。
その形だけの式にも、俺は出なかった。
周一郎を追い詰め殺したのは、他ならぬ俺、伏せられ隠され匿われてはいるけれど、俺が何をしたのか、誰よりも俺自身が知っている。
胸が苦い。腹が、視界が澱んでいる。
(ここに居ちゃ、いけない)
足元には、すっかり荷造りしてしまったボストンバッグがあった。
(周一郎…)
俺なんか、雇わなければよかったのに。
周一郎の死体は、あの『事故』の翌日に見つかった。
「滝さんですね」
知らせを受けて朝倉家から駆けつけた俺に、警官は沈痛な顔を向けた。
死体などは見慣れているはずの相手の態度には、痛々しくて見ていられない、というニュアンスがあって、心臓を鷲掴みされたような気になった。
警官は、おそるおそる頷く俺を人垣から連れ出し、野次馬達が近寄れぬ岩場の方へ導いていく。
「あそこです」
警官の声に、そこに居た厚木警部が立ち上がり、重々しく頷く。俺を連れていった警官は、そこで向きを変えた。不審な顔つきの俺に答えるように、
「見たくないんです……あれは」
固い声音で言って、警官は野次馬の整理に戻っていく。
俺は少し後ろ姿を見送り、厚木警部をめざして岩場を歩いた。
近づくにつれ、厚木警部の足下のビニールシートをかぶせられた塊に目を吸いつけられる。
「辛い役目でね」
厚木警部の声は苦かった。腰をかがめ、ビニールシートをそっとはぐる。
「っ、」
信じたくなかった。
あの崖から確かに海に落ちたのに、俺はまだ周一郎が死んでいるとは思いたくなかった。
だが。
「……」
ビニールシートの下にあった顔は、紛れもなく周一郎のものだった。
「……周一郎君だと思うのだが」
厚木警部の声も半分耳に入っていなかった。
崩れるように膝をついた俺の前で、周一郎の体がぐったりと水に濡れそぼったまま横たわっていた。
乱れた髪が額に張りつき、どこかで打ったのだろうか、幾筋かの血の跡が額から端整な顔を横切っている。伏せられた瞼は青白く、もう開くことはなく、悲鳴をあげまいとしたのか、一文字に結んだ口元にも血の跡があった。身に着けていたベージュのセーターの所々に赤黒くしみ込んだ血痕があり、何も拒まぬように弛緩し切って投げ出された四肢には、わずかな温感もない。
俺はそっと手を伸ばして、周一郎に触れた。
冷えきった、死者の固さだけが戻ってきた。
「滝君…」
「……周…一郎……です」
掠れた声で応じた。
涙が出なかった。胸のあたりで重いしこりがあって泣けなかった。それが悔しく哀しく、俺は吐き捨てた。
「周一郎ですよ!」
死体の、切なげにひそめた眉が苦しそうで寂しそうで、その顔に『滝さん』と呼びかける周一郎の顔が重なってやりきれなくなった。




