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月下魔術師 〜猫たちの時間3〜  作者: segakiyui
3.空へ

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13/42

1

 こんこん。

 静かなノックに続いて、

「滝様」

 辺りをはばかるような低い高野の声が聞こえた。

 俺は動かなかった。深く肘掛け椅子に身を沈ませたまま、黙っている、主を失った周一郎の部屋で。

「滝様」

 少し口調が強くなった。

「坊っちゃまが悲しまれます……どうか、ご参列下さい」

「…っ、」

 口に競り上がった罵倒を噛み殺した。

 高野が周一郎の死を悲しんでいないはずがない。周一郎の命令と意志を、最後の最後まで守りたいだけなのだ。

 日差しは既に落ちていた。部屋の中には、夕暮れの物憂い光が満ちている。青く霞む部屋の壁に、俺のポートレートが掛かっている。

「滝様……」

 低い声が諦めたように続ける。

「それでは、こちらにお食事を置いて参りますから、一口でもお食べ下さい」

 朝からほとんど何も食べておられないでしょう……?

 どこか寂しそうに尋ねる声が滲んでいる。

 そのまましばらく俺の動きを伺っていたようだったが、やがて静かに立ち去って行った。

 屋敷の中は、俺の居る部屋を除いて、軽く湿ったざわめきに揺れていた。

 今日は周一郎の密葬の日だ。

 周一郎が朝倉財閥を動かしていることは、ごく限られた者しか知らない。そして、知っている者は、その突然の不在に動揺を隠せていないようで、密葬とは形だけ、その実、次に打つ手を必死に探し求めての話し合いが続いている。

 その形だけの式にも、俺は出なかった。

 周一郎を追い詰め殺したのは、他ならぬ俺、伏せられ隠され匿われてはいるけれど、俺が何をしたのか、誰よりも俺自身が知っている。

 胸が苦い。腹が、視界が澱んでいる。

(ここに居ちゃ、いけない)

 足元には、すっかり荷造りしてしまったボストンバッグがあった。

(周一郎…)

 俺なんか、雇わなければよかったのに。


 周一郎の死体は、あの『事故』の翌日に見つかった。

「滝さんですね」

 知らせを受けて朝倉家から駆けつけた俺に、警官は沈痛な顔を向けた。

 死体などは見慣れているはずの相手の態度には、痛々しくて見ていられない、というニュアンスがあって、心臓を鷲掴みされたような気になった。

 警官は、おそるおそる頷く俺を人垣から連れ出し、野次馬達が近寄れぬ岩場の方へ導いていく。

「あそこです」

 警官の声に、そこに居た厚木警部が立ち上がり、重々しく頷く。俺を連れていった警官は、そこで向きを変えた。不審な顔つきの俺に答えるように、

「見たくないんです……あれは」

 固い声音で言って、警官は野次馬の整理に戻っていく。

 俺は少し後ろ姿を見送り、厚木警部をめざして岩場を歩いた。

 近づくにつれ、厚木警部の足下のビニールシートをかぶせられた塊に目を吸いつけられる。

「辛い役目でね」

 厚木警部の声は苦かった。腰をかがめ、ビニールシートをそっとはぐる。

「っ、」

 信じたくなかった。

 あの崖から確かに海に落ちたのに、俺はまだ周一郎が死んでいるとは思いたくなかった。

 だが。

「……」

 ビニールシートの下にあった顔は、紛れもなく周一郎のものだった。

「……周一郎君だと思うのだが」

 厚木警部の声も半分耳に入っていなかった。

 崩れるように膝をついた俺の前で、周一郎の体がぐったりと水に濡れそぼったまま横たわっていた。

 乱れた髪が額に張りつき、どこかで打ったのだろうか、幾筋かの血の跡が額から端整な顔を横切っている。伏せられた瞼は青白く、もう開くことはなく、悲鳴をあげまいとしたのか、一文字に結んだ口元にも血の跡があった。身に着けていたベージュのセーターの所々に赤黒くしみ込んだ血痕があり、何も拒まぬように弛緩し切って投げ出された四肢には、わずかな温感もない。

 俺はそっと手を伸ばして、周一郎に触れた。

 冷えきった、死者の固さだけが戻ってきた。

「滝君…」

「……周…一郎……です」

 掠れた声で応じた。

 涙が出なかった。胸のあたりで重いしこりがあって泣けなかった。それが悔しく哀しく、俺は吐き捨てた。

「周一郎ですよ!」

 死体の、切なげにひそめた眉が苦しそうで寂しそうで、その顔に『滝さん』と呼びかける周一郎の顔が重なってやりきれなくなった。



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