10
「滝さん?」
周一郎は正面から俺を見つめた。サングラスを通しても、その瞳に宿る深い憂いと絶望は、とても十八、九で浮かべられる凄さがあった。
「他の誰かなら、僕はむざむざ殺されはしない……でも………あなたには……」
ぐっと眉根が寄せられた。端正な顔立ちが苦しげに歪む。閉じた瞼の睫毛が震え、深いところから声が漏れた。
「僕は死にたくはない」
(それなら『こいつ』を何とかしろよ!)
胸の中で地団駄踏んだ。
(殴るかどうにかして病院送りにしろって!)
俺だって嫌だ、こんな状態で訳もわからず、人殺しになるなんて。
(周一郎!)
助けてくれ。
(周一郎っ!)
俺の煩悶に応じるように、ふ、と周一郎は薄く目を開いた。
風が吹き上げ、周一郎の髪をなびかせる。噛みしめていた唇に淡く血が滲んでいる。どれほどの激情と戦っていたのか、こちらを射抜くように捉えていた瞳が、急に生気を失った。
(おい?)
背中を氷塊どころではない、もっと寒い、ぞっとしたものが滑り落ちていく。
(どこかで、これと同じ場面を)
そっくりな、この競り上がる不安感、溢れていく、満ちていく、奇妙な確信。
オレハコイツヲ、タスケラレナイ。
(周一郎?)
「でも……」
甘い、とさえ言えるような声音。
微かな笑み、今にも消え去りそうな、気弱な。
(京都)
そうだ、あの橋の上、川面へ周一郎が呑み込まれていく一瞬前の。
(あのとき、俺は間に合わなかった)
場面が重なる。
仰け反り落ちる周一郎、水面にあがる飛沫、寸前綻ぶ、幻のような笑み……。
(冗談、じゃ、ね、えっ)
俺は死にものぐるいになった、『俺』を内側から殴りつけ、ぶちのめし、淡い靄を突き抜けようともがく。
だが。
「僕はあなたを殺人犯にしたくない」
淡々と周一郎はことばを続けた。同時に、まるで後ろにも地面があるかのように、平然と空中へ一歩、後じさりした。
がらっと音をたてて、周一郎の足下の岩が砕ける。
「周一郎!!!」
俺の口を絶叫がついた。
瞬時に靄を突き抜け、周一郎へと精一杯手を差し伸べる。
はっとしたように、一瞬、周一郎の顔がほころんだ。いいんですか、と言いたげな、妙に痛々しい表情が空に舞う。
「っ!」
周一郎が腕を伸ばした。俺の手を掴もうと、岩と一緒に崩れ落ちながら、こちらへ手を差し伸べる。
「くそぉっ!」
両手を差し出す。手と手、スローモーションのように近づいていく。地面に倒れて叩きつけられ、一瞬視界が眩んだ。
「ち、いっっ!」
強打した胸の痛みにふっと緩んだ意識の中で、這い寄ってきた『俺』を蹴り出す。微かに鈍っていた視界が晴れ渡る。
体を伸ばす、もっと、もっとだ。
がっ、と腹のあたりでのしかかっていた岩が崩れる。均衡を失って前へのめる。一緒に落ちるかもしれない。
(んなもん、構うか!)
もう、二度と、あんな想いはごめんだ。
なのに。
「…え?」
周一郎の唇が何かを紡いだ。
「なに……?」
もう少しで届くはずの手を、周一郎がいきなり自分の体に引き寄せて驚く。
「ばっ…!」
緩やかに流れていた時がいきなり加速される。
「おいっっ!」
俺の目の前で、周一郎は見る間に黒い点となって遠ざかっていく。何が起こったのか信じられなくて見開いた目に、波が意志あるもののように大きく盛り上がり、周一郎を包み込み呑み込むのが映った。
「どう…して……?」
落ちた?
なぜ?
十分に俺の手を掴める距離だった、今度は間に合った、なのに、なぜ?
「なんで…? ……っ」
体を起こそうとして、地面についた手の下でざくり、と砕けた岩にぎょっとする。改めて気づけば、俺の体はかろうじて岩盤に乗っている状態、もう少し力が加わって岩が砕けていれば、きっと支えを失って落ちていただろう。
「まさか」
閃光のように答えがわかった。
周一郎の視界に、この俺の状態は見えていただろうか?
ああ、もちろん、見えていただろう、あの全てを見通す瞳は、自分を掴んだ俺がこの後どうなるのかも、はっきり見て取っていたに違いない。
(俺も落ちると、思って…?)
この岬を熟知していた。端に近寄れば、踵の軽い一撃で崩れるほど脆い基盤だということも。だからこそ、ここを選んだ周一郎、ならば当然。
「……どうして……お前はそう…なんだよ…」
悔しさが募る。腹立たしさに変わり、怒りに変わる……またもや助けられなかった無力、それは周一郎と俺の、どうしても埋め切れない立ち位置の落差を思わせて。
周一郎が俺を助けるということは、周一郎が死ぬしかないこと。
俺か、お前か。
そういう選択肢しかない厳しさを、俺はまた読み損なったということか?
けど。
「どうして…一人で、決めちまうんだよ!」
ざぶっと海が穏やかな音をたてた。
「どうしていつも!」
俺にその才能があれば、お前を追い詰めずに済んだのか?
俺にその覚悟があれば、お前を守ることができたのか?
けど。
「どう、して……っっ!」
どうして、お前はいつも、俺を対極に置くんだ。
「く…そおおおっ!」
ざわざわと人が集まる気配も気持ちにはなく、がくがく震える体と過熱した頭が、今の俺の全てだった。




