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「…わかった。行くよ」
『俺』が応える。
ぴくりと周一郎の眉が動いた。
(気づけ、周一郎!)
気づいてくれ、『これ』は俺、じゃない。
「………」
周一郎はじっとこちらを見つめていた。光が瞳を過り、煙るような目になったのを、サングラスをかけて隠すように背け、
「では、車を用意させます」
背中を向けて遠ざかる。しばらくして、玄関から俺を呼ぶ声がした。
(気づかなかった? まさか)
『俺』は当然のようにすたすたと歩いて玄関に向かい、用意された車に乗り込む。じたばたしている俺に気づかないふうで、珍しくラフなジャケットスタイルで既に車に乗り込んでいた周一郎が、表情のない顔で運転手に告げる。
「和野岬へ」
朝倉家を出て数十分後、運転手が唐突に伝えてきた。
「尾けられています」
「何だ」
後ろを振り返りもせず、周一郎が尋ねる。
「オートバイが一台……追いつきます」
思わず後ろを振り返った。HONDAの750、見る見る近づいてこちらの車と並ぶ。
「っ!」
ライダーがふいに手を伸ばし、どんどん、と車の窓を叩いてきた。何かを喚くように頭を振っているが聞こえない。何を思ったのか、ライダーが片手でオートバイを操りながら、ヘルメットを脱ごうとした。
(おい、危ない!)
俺は慌てたが、『俺』は落ち着いたものだ。車の外で怪しい動きをするライダーにうろたえた風も驚いた風もない。だが、それは周一郎も同じで、何か攻撃をしかけられていると怯える様子もなく、相手の出方を眺めている。
「!」
と、背後からもう一台、HONDAと車の間に突っ込んできた。
「…」
運転手は見事な腕で、絡み合うように並走し始めたオートバイ二台から離れた。HONDAがもう一台のバイクと競り合いながら速度を上げ、あっという間に道路の先に消えていく。
「……暴走族の小競り合いでしょうか……おや?」
平然とことばを継いだ運転手が再びバックミラーを見る。
「もう一台……女性のようですが、さかんに止まれと合図してきています」
ふ、と周一郎が笑った。
寂しい笑み、切なげな、胸を絞るような笑みを浮かべて、首を振る。
「振り切ってくれ」
「はい」
いきなり車の速度が上がった。背後から追いすがってくるバイクを見る見る置き去る。
「今のは……?」
『俺』が尋ねた。
「さあ」
変だな。
(相手のこと、知ってるみたいだったのに)
俺の思惑も知らぬ気に、車は和野岬へ向かって走った。
途中、オートバイ事故ーひょっとすると、俺達を追い越していった、あの二台のどちらかーがあったらしく、人々が集まっていたが、今の俺にとっては、どうやって『俺』を引き止めるかが差し迫った問題、だがじたばたするだけで何もできない。
そうこうしているうちに、岬が見えてきた。観光地でもない寂しい場所、おまけに朝のことだから、人影はほとんどない。
まさに『俺』にとっては絶好の場所だ。
「……どうぞ」
運転手がドアを開け、『俺』達を降ろすと、言いつけられていたのか、すぐに走り去って行ってしまう。俺が必死に、行くな、行ったら、お前のご主人がどうかなっちまうんだぞ、と心の中で叫んでも、もちろん届かなかった。
「いい天気ですね」
周一郎は車が消えてしまうと、深く息を吸い込んだ。ゆっくりとした足取りで岬の突端へ向かう。それほど切り立った険しい岬ではなく、突端まで緑豊かな岬だったが、見下ろせば白い歯並みを思わせる海が広がっている。岬の裾に噛みつく波の勢いはかなり強い。
ここから落ちれば、まず助からないだろう……。
(あっ、このっ!)
その俺の思考に反応したように、『俺』は静かに周一郎の背後に忍び寄った。
(ばかっ、やめろっ)
もがく俺、進む足、踏ん張る俺、周一郎の背中に向けて伸ばされる、手。
(やめろこのくそ馬鹿すっとこどっこい!)
「滝さん」
「、」
突然、凛と響いた声に動きを止めた。
無防備に背中を向けていた周一郎が、陽炎が揺らめくように向きを変え、俺に向き合った。
ざぶり、と、その遥か下で波の砕ける音がする。
「滝さん? 僕のことばが聞こえてますか?」
物柔らかい口調で呼びかけながら、周一郎はこちらを見据えた。静かに澄んだ瞳、サングラスの向こうからでもわかる、優しい視線。
(気づいてたのか!)
いつから? どうして?
でも、それなら、なぜ、こんなところへ『俺』を誘い込んだ?
(あ)
俺の脳裏に、力なくぐったりとベッドの上に伸ばされていた周一郎の腕が浮かんだ。
(まさか)
背中に氷塊が放り込まれた気がする。過ったのは京都の清の姿。
それが何を意味するのか、もう俺はよくわかっている。
(殺される、つもりで)
「、っ、ば、かっ」
じりじりと周一郎の側へ近づいていた『俺』の足が止まった。ほんの少し、俺が表面に出ることに成功した、その間に叫ぶ。
「何、してるっ!」
「滝さん…」
「にげ、ろっ!」
必死に後ずさりする俺に、周一郎は静かに首を振った。
「じゃあ、誰か、を、呼んで、く、れっ!」
前へ前へと否応なく押し出される力に抵抗する。次第に押さえがきかなくなる。頭ががんがん痛み出して吐き気がする。
「は、やくっ!」
だが、周一郎は再び首を振った。
「……暗示は……強いものです」
微かな声が呟いた。
「へたに実行を妨げれば……人を…破壊することもある……」
「周一……っ!」
びしっ、と脳髄に亀裂が走った、そんな痛みに膝をついた。もっともそれは、意識上の俺のこと、『俺』の体は再び周一郎に向けて迫り出している。




