8
その夜、俺は朝までまんじりともせずに過ごした。
眠れるわけはなかった。眠れば、あの淡く輝く靄が、再び俺に周一郎を襲わせるような気がして、幾度かぞくりぞくりと身を震わせながら。
次の朝は見事な秋晴れの日で、青色のガラスを散らせたように、空はそこここに微妙で繊細な輝きを煌めかせていた。
雲一つない、とはこういう空を言うのだろう。爽やかな風が開けた窓から吹き込み、強張った体を解していく。少し伸びをした。タンスに放り込んでいるボストンバッグのことが、ふと頭を掠める。
(出て行くか?)
理由もわからないままに?
「……」
部屋を出た。
この部屋、そして、この家は、俺にとっても『ホーム』になりつつある。
できることなら離れたくない。
(けど)
周一郎の生死となれば、話は違う。
「ふぅ…」
廊下をとぼとぼと歩いて行った俺は、階段の下で、高野から手紙を受け取っている周一郎の姿を見つけた。
整った顔立ちには少し影がさし、身に着けたベージュのタートルネックに隠れた首が、微かな傷みを伴って視界に飛び込んでくる。
「…おはようございます」
こちらの視線に気づいたらしい周一郎が、ゆるやかに俺を振り向いた。艶やかな黒髪、眩げな表情、妙に幼く見えて、そのまま消えてしまいそうで、慌て気味に廊下を駆け寄る。
「周一郎、俺、」
「お由宇さんからまた手紙が来ていますよ」
不思議なほど淡々とした、別な言い方をすれば、心がどこかに行ってしまっているような声だった。差し出された手からエアメールを受け取り、封を破る。
『こんにちは、志郎。元気でやってる?
こちらはまた新しい展開になろうとしてるわ。以前のフランスの密輸組織を覚えてる? あれが、また急に動き出しているの。寸断されたはずなのに、みるみる組織化されていっている。まるで、「誰か」がまとめ始めたみたい。長期戦にもつれ込むのは困るから、早急に決着をつけることになると思う。準備は進んでいるから、心配しないで。
むしろ心配と言えば、そっちの方かも。
私にはどうしても気になっているの。
綾野は、本当に死んだのかしら?』
「はぁ?」
いきなりの手紙で、京都の事件をあれこれ書き出してあるのにも呆気にとられたが、何だって?
「綾野が死んでない?」
「、っ」
びくっ、と周一郎が激しく震えて思わずそちらを見ると、相手の顔が真っ白になっていた。
「おい、周一郎、」
「なぜ」
「だよな、あいつが生きてるなんて…」
言いかけて俺は口を閉じた。
真っ青になっている周一郎のサングラスの向こうの瞳、見えないはずのその視線がまっすぐ俺に注がれていると痛いほどわかる。その視線の意味も、まるで、テレパシーのように頭に飛び込んできた。
そうだ、違う、こいつが今こんなにうろたえているのは。
「生きてる、のか?」
「、」
周一郎が目を見開いた。微かに息を吸い込む、だがその酸素は助けにならなかったらしい。
「な、ぜ」
「周一郎!」
「滝さん、に…っ」
苦しげな呟きを漏らして崩れた相手に手にした便箋を投げ捨てた。
「周一郎! おい!」
叫びながら、同時に理解する。
こいつは知ってたんだ。
綾野が死んでないこと。
生きていること。
フランスで復活している密輸組織、まさか、その背後の『誰か』というのは。
そして、その『誰か』が狙っているのは、まさか。
「周一郎!」
半身起こさせてぴたぴたと頬を叩く。高野の迫力には負けるが、幸いにも少しめまいを起こした程度だったらしく、周一郎はすぐに意識を取り戻した。
薄く開けた瞳で俺を見上げ、肩越しに入る朝日が眩かったのか、すぐに背ける。
「大丈夫か?」
夕べのことも堪えてるはずだ。何より今わかった事実、それが俺に封じられていた情報だったということは。
「…ちょっと…出かけませんか」
「は?」
ぼんやりした口調で周一郎が呟き、呆気にとられる。
出かける? こんな状態で? こんな体調で?
「ざけんな! 何、馬鹿なこと言ってやがる! さっさと寝ろ!」
本気で詰った。
「ぶっ倒れたくせに、出かけるも何も」
「あなたは本当にのせやすいな」
俺の怒りの形相を見上げていた周一郎が、ふいに、にっと笑って身を起こす。
「何度ひっかかっても懲りないんですね」
「は、ぁ?」
くすりと笑った相手は、倒れたことなど夢だったようにするりと立ち上がって、パンパンと元気に服の埃を払い、ことばを継いだ。
「今のは芝居です」
微かに肩をすくめてみせる。嘲る口調だった。
「おい」
「本当にあなたはいつまでたってもお人好しだ……」
最後の方が滲むように噛み締められた、そう感じたのだが。
「どうせ、今日、大学へは行かないんでしょう? ちょっと付き合って下さい」
暇な男を使う、そういう響きの声にむっとする。
俺だってそれなりに予定があるのだ、予定が。まあ、今日はないが。今日は。
「付き合う…って、どこへ」
ふて腐れた俺の問いかけに答えが返ってくるまで、少し沈黙があった。
「……ぼくが気に入っている所へ。それとも…」
背中を向けて呟き、くるりと振り返った周一郎は、冷めた笑みに唇を歪ませていた。
「行き先不明では不安ですか?」
変だ。
ふと、そう思った。
これは周一郎らしくない。らしくなさすぎる。
これではまるで、俺に甘えているようだ。
そう思った瞬間、頭の隅で白い反射が閃いた。クレッセント・ムーン……ちらりと浮かんだイメージに呼び出されたように、淡い靄が見る見る頭の中を覆っていく。
(しまった!)
心の中でうろたえた。
眠ってる時だけじゃなかったのか!




