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その新聞記事を読んだのは秋、高く澄んだ空に見事な月が輝く夜だった。
「え」
小さな囲み記事、だが報じられた名前の意外さにぎょっとして、新聞を引っ掴んで食堂を飛び出す。
「周一郎!」
階段を駆け上り、仕事が詰まっているからと自室で夕食を摂った周一郎の部屋にノックもなしに飛び込んだ。
「……何です」
一瞬だけ動きを止めた周一郎はちらりと視線を上げ、すぐに書類を捲り出す。
「この記事読んだか?!」
周一郎はたいてい朝一番に数種類の新聞に目を通している。ましてやこんな記事を見逃すわけもないのだが、知ってたなら話してくれてもいいだろう。
「ええ」
俺が振り回した新聞に何が載っていたのか先刻お見通しらしく、相手は淡々と書類に目を通し続ける。
「なら!」
「なら?」
「なら……えーと……なら……」
周一郎のそっけなさに勢い込んだ気持ちが見る見る萎えた。
「奈良の大仏は大きいかなーと……」
「………彼が収監されていたのは奈良ではありませんが」
「わーってるよ、そんなこと」
「……座ったらどうです」
「あ、ああ」
ドアを閉め、ソファにどさりと腰を落とし、改めて新聞を広げる。
そこには綾野啓一の獄中死が伝えられていた。
うまく尻尾を切って逃げられるはずだった悪巧み、けれど周一郎の打つ手の方がうんと早くて容赦がなくて、京都の事件の後、綾野はあっと言う間に余力をはぎ取られ、保釈金を積むことさえできなくなった。そのまま、余罪追及で拘留されて数日後、自殺しているのが見つかったらしい。
「あいつが死ぬとはねえ…」
贅沢な暮らしをしてたから、一転してしまった環境に耐えられなかったんだろうか。
「…そうですね」
周一郎の声は静かだ。恨みも憎しみも、ましてや悲しみの陰りさえ響かない、けれど。
なら。
ならお前も安心しただろう、とか。ならお前もこの先ちょっとは楽だよな、とか。
言いかけた俺のことばがどういう意味だか、周一郎はきちんとわかっている。
それが人の死を喜ぶことだとわかっているから問い直した、そういうふうに思える。
新聞を畳み直して視線を上げると、周一郎は書類を繰る手を止めて考え込んでいる。感情の浮かばない透明な黒い瞳が、部屋の淡い光を跳ねて、まるで丁寧に磨かれたガラス細工のようだ。
「周一郎?」
呼びかけると、夢から醒めたように周一郎は瞬いた。
「ああ…」
思い出したように立ち上がり、一通の封筒を手に机を離れてやってくる。
「これがあなたに届いています」
「へ?」
渡された封筒をまじまじと眺める。
「エア・メール?」
「フランスから」
「ふらんす?」
って、あの外国のフランスだよなあ?
尋ねる俺に呆れたように溜め息をついた周一郎は、促すように俺を見た。
差出人の名前はない。微かに甘い香りは香水だろうか。
封を切ると、薄い緑の半透明のレター・ペーパーが現れる。開いた中身に並ぶのは紺色の女性らしい筆跡だ。横目で見た周一郎が机に戻ろうとするのを、中身を読んで呼び止めた。
「おい、お前宛でもあるみたいだぜ?」
肩越しに周一郎が振り返る。
「一緒に居ろって書いてある」
だからこっち座れよ。
促すと、一瞬ためらったが、仕方ないといった顔で隣に腰を降ろした。そのまま少し身を乗り出して手紙を覗き込む仕草はこれまでのこいつならしなかった柔らかさ、よしよし、いい傾向だとにやにやしながら文面に目を走らせる。
『周一郎も側に居ること。
お久しぶり、志郎。私は今パリにいます。事情があって、急ぎこちらに来たのだけど、あなたが私がいないのにいじけると困るし、気になることもあるので手紙を書きました。いい加減に携帯ぐらい持ってよね』
「……ほっとけ」
携帯代が払えるぐらいなら、バイト一つはとっくに止められるだろうが。
ぼやきながら続きを読む。
『実はこの前の事件、日本では始末がついていますが、こちらではまだいろいろ残っていることがあって、まあその残務処理というところね。一ヶ月ほどかかると思います。
大学には休学届けを出してあるので心配しないで。
ただこちらの連絡先ははっきりできません。「佐野由宇子」の名前が注目されるのも困るので、妙なことはしないでね。あなたはおせっかいなんだから。
また連絡できるようなら連絡します、それでは。
由宇子
P.S. そうそう、せっかく芸術の都に居るんだから、詩を一つ送るわ。
愛してるのに
優しさしか見せないのね
残っていた悲しみはどこに消したの
血に濡れた腕には愛なんて
夢の中のこと
憂いを包んで肩竦めてみせる
愛しいあなた
命掛けで愛せなんて言わないわ
綺麗なだけの約束もいらない
天上の甘さがほしいの
今はただ
瑠璃の瞳で見つめ返して』
「なんだぁ…?」
これって恋愛の詩だよな?
お由宇が俺に恋愛の詩?
「……ありえねえ…」
俺は首を傾げた。
「外国で悪いもんにでもあたったとか」
「…ちょっと見せて頂けますか?」
一体お由宇に何があったんだと引き攣っている俺に、珍しく周一郎がねだった。
「ああ、なんか面白いか? これ有名な詩なのか?」
「いえ、そういうわけでは…」
手紙を渡すと周一郎は食い入るように文面を見つめている。その表情が見る見る険しく強張っていくような気がして、俺はなお首を傾げた。
「周一郎?」
ひょっとして。
「……」
ひょっとして、周一郎はお由宇のことが好きだったとか?
そう言えば、この二人はどうもお互いに知っている感じだったんだよな。
お由宇は心理学系大学生、周一郎は家からほとんど出たことのない引きこもり実業家、どこに接点があるかというと……合コンぐらいか?
「うーむ」
周一郎が合コン? お由宇が合コン?
「ありえねえ…」
それこそ、何か特殊な研究とかセミナーの席で顔を合わせたという方がまだあり得るような気がするぞ、うん。そう、それならあり得る、たとえば、軍需産業の会合とかで、周一郎はスポンサー側、お由宇は才能を見込まれてのヘッドハンティングとか。
「……ありえる……」
わはは、はまりすぎて笑えねえ。
「滝さん」
「わ、はいはい」
「何を百面相してるんですか」
「いやあの、そのつまり男と女の深い関係についてだな」
「……ふーん」
冷ややかな相手の視線にはっとする。
「え? あ、いや違う、俺は別にお由宇とそういう関係じゃ」
あれ? なんで俺は弁解してるんだ?
「別に構いませんよ、僕は」
あなたが誰とどういう関係であろうが。
「相手が気の毒だなと思うだけです」
あなたのドジに付き合い続けていく根気には敬服しますが。
「おい」
冷たく言い捨てて、しかも手紙を持ったまま立ち上がる相手を見上げる。
「なんか誤解してるだろ」
「誤解していません」
「いや、誤解してるぞ絶対」
「何を誤解すればいいんですか」
あなたがドジだってことですか、それとも。
「あなたが佐野さんに対してよからぬ妄想でも掻き立ててると」
「わーっ」
お前、一体何を言い出すんだ、そう続けて立ち上がったとたん、ノックが響いた。
「はい」
「坊っちゃま、コーヒーをお持ちいたしまし……おや、滝様もここにいらっしゃいましたか」
高野がにこやかに微笑みながら、銀色の盆を手に入ってくる。カップが二つ用意されているところを見ると、俺の部屋にも運んでくれるつもりだったんだろう、そのまま、ここで召し上がられますね、とテーブルに並べてくれた。
「さすが朝倉家の執事だよな、タイミングばっちり」
「よかったですね」
「険があるな……おい、飲まないのか?」
「僕はもう少し仕事を」
「冷めるぞ」
「……わかりました」
周一郎は渋々再び俺の隣に腰を降ろし、カップを手にした。それでも手紙のことが気になるらしく、テーブルに広げてじっと眺めながらコーヒーを啜っている。
「そんなに面白い詩なのか?」
思わず尋ねると、周一郎はゆっくりと目を細めて俺を振り向いた。
真っ黒な瞳、表情が消えていて感情の動き一つない、完璧に制御された視線、等身大のロボットに見つめられるとこんな感じかもしれない。
「ええ、とっても面白いです」
ことばと裏腹に声も感情の一切を含んでいない。
そのままふいと、また手紙に視線を戻す、その集中具合が並じゃない。
何となく声をかけられないまま、ひたすらコーヒーを飲み、それが終わっても立ち上がってさよならというのも落ち着かなくて、俺は新聞を手にした。