出会いは茶屋の中で。
「きゃあ! やめて、手を離して下さい!」
三軒町という田舎の町にある、わりと大きな茶屋の中。悲鳴をあげたのは店の看板娘であるおかっぱの娘ーー彩音である。百六十くらい背丈を薄い黄色の着物で身を包み、年の頃は二十歳前後であろう。笑ったのならさぞ可愛いであろう顔を、今はひきつらせていた。
「おい、おい、おいよー、姉ちゃんさぁ? 人に酒をこぼしておいて、詫びもないんかよ?」
長椅子に座っているチンピラ風の男が、下卑た表情で彩音の右手首を左手でつかみ、残る右手で自分の胸を指差していた。そこは確かに濡れており、酒の匂いが辺りを漂っている。
その男の腰では金の細工が入った鞘に収まった剣が、男とは不釣り合いな存在感を醸し出している。
ーー『刀』の所有者は必ずいつも腰に差してその存在を示していなければならない、またどんな者でも『刀』以外の物を腰に差してはならないーー
これも幕府が出した御触れである。
これは『刀』が隠匿され、『刀』の持ち主が弱肉強食の世界から逃げられないようにするためである。
つまり、腰に剣がある事は、その剣は『刀』に他ならず。『刀』を持っている以上、その者は『侍』に他ならないのだ。
「や、め、て、下さい!」
「ふげっ!」
つかまれた手を振り払おうと彩音が勢い良く腕を振ると、引っ張られた『侍』はバランスを崩し、盛大に顔を机にぶつけた。少し鼻血が出ているようだが、それでもつかんだ彩音の手を離さないのは、なかなか根性があった。
「もお~、今日はいったい何なのよぉ~」
彩音はひきつっていた顔を、今度は泣きそうな顔に変えながら天を仰いだ。
今日、彼女はとても不運であった。
まず寝坊した。(いつも自分を起こしてくれる隣家の鶏は、昨晩の夕食になっていたそうだ)
慌てて着替えようとしたら、タンスの角に足の指をぶつけて、のたうちまわった。
急がなきゃ! っと茶屋まで駆けていたら、下駄の鼻緒が切れて見事にこけた。
道行く人々に下着を見られた。(一部の人々には大変な幸運だった)
それでも努力の甲斐があり、遅刻せずに来れたのに、実は自分が休みの日だった。
キレ気味に「もういいよ、じゃあ!」って言って帰ろうとしたら、「せっかく来たんだから、いいか?」と強引に働かされた。
そして現在進行中で『侍』に絡まれている。
自業自得と言われればそうかも知れないが、全ては運が悪いせいだと言いたくなる時がある。今の彩音の気持ちがそうであった。
「それにしても、いくら客が少ないからって、みんな出払う事ないじゃない」
田舎の店には良くあるように、店の大きさのわりに客は少ないのだ。それでも普段は二人は控えているのだが、今日は客足が悪く、彩音一人で大丈夫だと、他の者は用事を済ませる為に出かけたのである。それは確かに客が少ないというのもあるが、物理的にも彩音は強く、有能で信頼されている証でもあった。
だが、そんな時に限って急に客が増え『侍』までやって来た。
ーーこれはやっぱり不運としか言えないでしょ!
彩音はいまだにつかまれたままの手を振りながら、心の中でぼやく。
「離して下さい! こぼしたも何も、自分でやったんじゃないですか!」
「何言ってんだぁ、酒を持っていたのは、お前の手だろうよ?」
注文された酒を彩音が机に置く時に、『侍』は酒を持った彩音の手をつかんで自分に傾けさせたのである。彩音の胸を見ながらずっとニヤニヤしていたので、嫌な予感はあったのだか、まさか『侍』ともあろう者がこんなみみっちい事をするとは夢にも思っていなかった。先入観からくる油断であった。
幕府が御触れを出す前は『刀』によって暴走して周囲に迷惑をかける者がいたり、御触れを出した直後などは『刀』の力を使って欲望のままに好き勝手にやる者も出たが、それも昔の話である。今はそんな話はとんと聞かなくなった。『刀』を取り巻く環境から、弱者と悪人は淘汰されたのである。
今は世界に百人に入れる実力と、己の欲望に流されない心の強さを兼ね備えた者しか『刀』を持ち続けられない。だからこその称号、『侍』である。というのが一般的な認識であった。
「いい加減に離して下さい!」
後ろに下がる彩音に合わせて『侍』も席を立ちついてくる。
「いいじゃねぇか。ちょっと、拭いてくれよ? なんなら、舐めてくれよ? 俺は『侍』なんだぜ! お前みたいな町女が、俺に挑戦するって言うのかい? いいぜ、かかって来いよ。それともあれか、『刀』の力でこの店をぶっ壊してやろうか!」
そう言って、タラリと流れている鼻血もそのままに。顔をグイっと近づけてきた。
「いや! 離して!」
「あれ? ぐはっ!」
彩音は自分の手首をつかんでいる『侍』の手を握り返し、その手を中心として『侍』の身体が回転すようにして投げ飛ばした。一種の空気投げである。
綺麗に一回転して床に叩きつけられた『侍』はさすがに彩音の手首から手を離した。
幼い頃に両親をなくした彩音は、この茶屋の主人が親代わりとなって育てられた。その主人の教育方針で彩音はさまざまな格闘技を習っていたのだ。
『侍』の手を振り払うことに成功した彩音は距離をおこうと逃げ出すが、わりと大きいとはいえ店の中だ。すぐに壁に行きつく。
「ね、姉ちゃん、や、やってくれるじゃねえか? こうなったら、ぶちゅ~の刑だ!」
ふらつきながらも立ち上がった『侍』が今度は唇と両手を突きだしながら突進してくる。鼻血だけでなく青アザまでこしらえて、『侍』の気持ち悪さは酷くなる一方だ。
「助けて! 誰か助けて下さい!」
そう助けを求めるのだが、客達は怯えるばかりで動こうともしない。
だが、それもそうだろう。相手は『侍』なのだ。本気を出されれば、斬り捨て御免にされてしまう。
彩音もその事は分かっていた。だからこそ、#本気を出されないように手加減をしながら、助けを求め叫ぶしかないのだ。
「もう! 誰か助けてよ!」
「あんれー、げふぅ! ぐふっ!」
突進してくる『侍』の足元に彩音は滑り込み、巴投げの要領で蹴りあげる。一瞬見えた彩音の太ももに、客達は色めき立った。『侍』は自分の突進していた勢いのまま飛んでいき、逆さ向きに壁に張り付いた。そしたズルズルと壁をつたい地面に落ちる。
「お願いです! 誰か助けて下さい!」
彩音は店内を見渡すのだが、客達は一斉に手と首を横に振る。『侍』のあまりのヘタレっぷりに、すでに何かおかしい事に客達は気付いているのだが、それを指摘する勇気のある者はいなかった。
「助けて下さい」と言いながら、大人の男をポンポン投げ飛ばす町娘もとっくに畏怖の対象になっていた。
「へべへべへべ、ね、姉ちゃん、い、いい腕してるぜ」
結局、一番勇気と根性を兼ね備えているのはこの『侍』であった。口調が怪しくなっているのに諦めない。肩を回しながら立ち上がり叫ぶ。
「決めた! 今からお前は俺と裸で大相撲だ!」
そう言うと『侍』は必殺技を発動させる!
舌をベロベロ回転させ。
「ベロベロベロベロ」
さらに両手をワキワキ動かしながら。
「ワキワキワキワキ」
そして腰をカクカク動かしながら、徐々に彩音に迫って来る。
「うっス、うっス! マンボ! マンボ!」
今までこの必殺技で参らなかった女を『侍』は知らない。お願いだから近寄らないで! と、みんな泣き叫ぶのだ。自分の四十八の必殺技の中でも一番の得意技である。
これには彩音も生理的嫌悪感を増大させられ、恐怖に全身を支配される。彩音はこの世にゴキブリ以上の存在がいることを知ってしまった。
ーー知りたくなかったのに!
顔色が青くなり体が震えていることを実感する。
いやいやと、首を振りながら店の奥へ後退る。彩音の口からはたまらず絶叫が漏れた。
「誰でもいいです! なんでもします! 一生なんでもします! だから、助けてーー!」
ゆらり、と茶屋の暖簾をくぐり一人の男が店内に入ってきた。
男はみすぼらしかった。
身の丈は百八十程で、肩にかかる長さの髪は伸びるに任せバサバサ、ひげも伸び放題し放題。年齢も分からず、表情さえも分からない状態である。
着古した着流しを着ているだけで、何も身に付けておらず無手であった。
みすぼらしい男はそのまま無造作に『侍』の方に歩いて行く。
茫然の見つめる彩音の目線に気づき『侍』は振り返った。
「あーん、何だお前は? 俺とやるつもりなのかぁ? これを見ろ! 俺は『侍』だぜ!」
『侍』はみすぼらしい男に向かって腰を突き出し、そのままフリフリさせて『刀』を見せびらかす。
店内の注目を一身に浴びるが、みすぼらしい男は気にした素振りを見せずにさらに近づいていき、『侍』の肩越しに彩音を指差した。
「……太ももからナイスチラリ」
「「何っ!」」
『侍』と店内にいた客達は。素早く彩音に顔を向ける。
が、着物は何も乱れていない。
「てめえ、なにも見えねーーっ!?」
振り返った『侍』は驚愕した。
慌てて自分の腰を見る。
鞘しかない。
みすぼらしい男が、自分の方にその鞘の中の『刀』を向けて立っていた。
「……竹光?」
ポツリと彩音は呟いた。
そう、その『刀』は竹光だった。
竹光。竹で作った模造刀である。もちろん、こんなものは『刀』ではない。
彩音は理解した。
やがてみるみるうちに怒りで真っ赤になっていく。
そしてその時、一人の客が素早く彩音の手元に現れ何やら動いていた。
「こーの、『エセ侍』がーーー!」
「ドゲラっ!」
彩音の見事なアッパーカットに、男は吹っ飛んだ。
外に干してあった布団も何故か吹っ飛んだ。
男が『侍』だからと手を出しかねていたまわりの客達も、手元のお茶やら食い物だとか投げつける。
ぐちゃぐちゃになった男は「覚えてやがれー!」とこけながら逃げて行った。
茶屋の平和はこうして守られた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
いつの間にかはめられていた十オンスのボクシンググローブを客(片目に眼帯をしていた)に外してもらいながら、何度も繰り返しお辞儀をして彩音はみすぼらしい男にお礼を言った。
しかし、その男は彩音のお辞儀を手で制止ながら、こう言い放った。
「一生、なんでもするんだな?」
彩音の不運は、終わってはいなかった。