8(天気予報はズル)
聞き間違えたと思った。母は続けた。「会社が安定するかどうか不透明だったのよ。綱渡りって程ではなかったけれども、万が一は付きまとっていた。結局、不景気のあおり喰らっちゃって。お義父さんの工場、潰れちゃった。私はまぁ、天涯孤独の身だからね。唯一の肉親といえば遠野の叔父さんだけだったし。筑紫の方も付き合いはお婆ちゃんの代でお終い。だから家族が欲しかった。あの人の所為じゃない。私の我侭もあるのよ」
「あたしはお母さんの我侭の産物なの?」
「お父さんとふたりで決めた我侭よ」娘を真っ直ぐ見つめ、母は云った。「籍を入れるかどうかは最後まで揉めたけれども。妊娠が分かったときは嬉しかった。十月十日も待てなかった。あんた、予定日過ぎても私のお腹の中で随分呑気にしてたのよ」
優しい視線を娘に向けた。「呑気者にしてはするっと出て来て、おぎゃあだもの」くすくす笑い、「お父さん、大泣きしちゃって」
「過呼吸起こしちゃったんだよね」
「そうよ」
あは、と母は笑う。
「ほんと、しょうもない人」
なんて答えたら良いのか、頼子は分からなかった。
「だからね、頼子」母は、身体を戻し、娘の頭を撫でた。「ありがとう。私とあの人のおチビちゃん」
「お母さんは本当にそれで良かったんだ? お父さんを許してるんだ?」
「許すとか許さないとか、」母は、困ったように眉根を寄せ、「二択なら許さない。なんで全部ひとりで抱えたのか、ひとりで片を付けようと思ったのか。頼ってくれなかったのか、甘えてくれなかったのか。頭にハゲまで作って、それでも私じゃ駄目だったのか。云いたいことなら両手じゃ足りない。けど」
「けど?」
「今となっちゃ、どうでもいいかな」
「ひどくない?」
「そりゃ、ひどいわよ」
「似た者夫婦?」
「そういうのは結婚生活が長く続いた場合じゃないかな」
そーですか。そーですね。
「私ね、」と母は続けた。「あの人に待ってるって云っちゃったんだ」
「ふーん?」
あれはしくったなー、とぶつぶつ。
「あんたは?」母が問う。
「何が?」娘が応える。
「お母さんたちのこと、恨んでる?」
「なんで?」
母はなんとも云えない表情で、首を小さく横に振った。「なんでもない」
もちろん、気にならないと云えば嘘になる。
けれども、恨むことに意味を見出せない。
そんなものは掌に落ちた雪と同じ。
冷たいのは一瞬だけ。
六花の結晶は姿を変え、気付かぬうちに溶け消える。
「怒ったほうが良かった?」娘が訊ねる。
「無視されるよりは良いかな」母が答える。
「びっくりしたけど、今更だよ、お母さん」
「そうね」
母は、視線をついと逸らした。
「今更、ごめんなさいも嘘っぽいよね。そもそも謝ることだと思わないし。あんたが不便や寂しい思いをしているなら、それは確かに悪いとは思うけれども、私なりに不自由だとか寂しくないよう頑張ってるし、これからもそのつもり。結局ね、その時その時、正しいと思ったことをしただけで、振り返ったところで正解不正解も分からないんだよねぇ」
「そっかー」娘が云った。
「そうだー」母が云った。
そして母と娘は、会話の中休みのように目をテレビへ向けた。
力士が腰を落とす。
行事が構える。
場内沸き立つ、結びの一番。
「ねぇ、お母さん」
「何?」
「河童が冬眠するって知ってた?」
「山童のこと?」
「ほんとだったんだ!?」
「おばーちゃんに聞いた事あるよ。あんたの曾お婆ちゃんね。啓蟄だし、そろそろ山から降りてくるじゃないかな」
「ふーん」マジだった。瓢箪から駒ってか。
「よりちゃん」母が云った。「かーさん、帰りの道々で考えてたけど」
「ん?」
「崩れ牡丹、こぼれ梅に散り桜」節をつけ、歌うように続けた。「雪はやっぱり散るものかしら」
「桜吹雪?」
「たぶんね。三月だけに『弥生雪』なんてのも考えたけど、なんか違うかな。どうもね。なんかね。小賢しい、みたいな? あーっ、あっあっ」
横綱に、本場所初めて土がついた。
「残念」母は、よいせっとばかりに立ち上がった。「具合は良いのね? 食欲ある?」
母は一度に幾つも訊く。
「うん」娘は一度にまとめて答える。「うん、大丈夫」
「良かった」
「雪、積もりそう?」
「さぁ」どうかしらね、と母はジャケットを脱いだ。「それは明日の朝のお楽しみ?」
中継を終えたテレビは、ニュースに切り替わる。
娘はリモコンを手にして電源を切った。
母が不思議そうな顔をするのが分かった。
「天気予報はズルだと思う」娘が云う。
「ごもっとも」母が笑う。
お尻をもぞもぞさせて深くこたつに入り込み、ますます背中を丸めると、片頬を天板にくっつけた。
ひんやりしていて気持ち良かった。
明日、雪が積もっていたら。
積もって晴れていたのなら。
もっと気持ち良いんだろうと頼子は思う。
─了─




