襟櫛の脅威
「辞めるか…、やっぱ」
水曜の朝、目覚めた時には、俺の心は完全に萎えていた。
すぐに、社長に電話してその旨を告げた。
辞める理由としては、まあ、ありきたりな嘘八百、就職できたという線で押し通した。
今日だけは出勤してくれと言われ、今日だけならと念押ししておいた。
そういう心持ちで改めて見ても、相変わらず、不気味な建物だった。
「まあ、今日で見納めだしな」
建物に入り、守衛に挨拶をし、ロッカーに荷物を置く。
今週に入って3日目、もう慣れたものだった。
「辞めるって聞いたけど、夜中に泳いでる奴が理由か?」
カズトだ、相変わらずの情報収集力だ。
まあ、的外れだったが。
別に、雑魚のストラが夜中に何をしていようが、俺は特に何も思わない。
「そうだ、水を差されたのは不満だったわけだ」
面倒なので、適当に認めておいた。
「ふーん、そっか…」
信じてくれたのか、或いは興味が無かったのか、カズトはそこで話を止めてしまう。
そして、そのまま、3階に上がり、いつものように仕事を始める。
昨日から変化なく、『京通』の運用は俺の仕事だった。
たまに解放され、3階以外の階に行かされた時、俺は決まってスマホで組織に連絡を取っていた。
そんな事が何度か続いた時、事件は起きた。
襟櫛の手伝いを指示され、渋々といった態で2階に下りた俺は、いつもと同じように誰にも見咎められないように荷物の列と列の間に身を滑り込ませ、スマホを取り出した。
「おい、お前さ…」
呼び掛けに応じて振り向き、誰もいなかった事に疑問を覚えながら、再び、スマホの画面を見ようとした時、首筋の両側に刃が滑り通ってきたのだ。
「えっ…?」
一歩でも動いたならば、首筋を刃が薙ぎ、一瞬で殺されてしまう、そんな不穏さの中に陥れられる。
「仕事中はスマホを見たら駄目だ。その程度の事も、お前は知らないのか?」
襟櫛だ。
彼とは相容れないと思っていたが、まさか、特異性などについての警告ではなく、ここの仕事について、なんていう一般的な事で注意されるなんて想像すらもしていなかった。
「な、何だよ…?」
「質問に答えろ。お前は、今、この時、この場でスマホを見ているのが駄目だと、そう思わなかったのか?」
「規則は知っているさ…、けどな、そいつを馬鹿正直に守るなんざ、ここでずっと働き続ける為だってならともかく、今日で辞める俺にしてみれば、無意味だろうが…」
「そうか、辞めるのか…」
首筋の両側に突き付けられていた刃が消える。
「じゃあ、金輪際、もう二度と、ここに姿を見せるな。明日以降、俺がお前を見たら、容赦なく殺す。これは警告ではなく、宣言だ。記憶しておけ」
振り向くのが、恐かった。
言われずとも、俺もこの現場に戻るつもりなんて、一切、無かった。
しかし、それにしたって、一時的な感情であった面が強かったわけだが、襟櫛の宣言によって、鉄則に生まれ変わった事を理解する。
「今から、お前のスマホの件を報告に行く。素直に怒られて、惨めにここを去れ。いいな?」
「あ、ああ…、分かったさ」
反論も、反駁も、認めてくれそうになかった。
そんな事をすれば、その時点で殺されるのは明白だったから…。