不毛な関係
明りの消された、暗く、冷たいホテルのベッドの中で、私は一人で目が覚めた。
おそらくあの人は、もう仕事に行ったのだろう。
気紛れに私を抱いて、用は済んだとばかりに私を置いて去っていくあの人。
「・・・それを待っている私も酔狂ね」
自虐的な言葉が思わず口に出てしまった。
彼にとって私はただの暇潰しの玩具でしかない。それならば、従順でおとなしい人形をしていればいいと、あの頃は簡単に思っていた。
けれど、私の心が悲鳴を上げ始めていた。もう、彼を待つこともできないほど私の心は痛みに麻痺し、最早何も感じることができなくなってきた。
これではいけない。私が私でなくなってしまう。
心を壊したところであの人は私に見向きもしないことなど、わかっている。
だから、心に余裕がなくなってき始めた頃から、あの人には内緒で準備をしていた。
あの人から、逃げ出すための準備を―――。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
『―――・・・続いて、次のニュースをお伝えします。都内のホテルに宿泊していた女性が一人、行方不明となりました。女性は・・・・・・』
ニュース番組に提供された写真の女性は、どこか儚そうな雰囲気のとてもきれいな女性だった。
「社長。彼女のことですが、やはり携帯も解約したらしく、所在を掴むことができませんでした」
社長、と呼ばれた男は椅子の背にもたれかかり、秘書の報告を黙って聞く。
「・・・ふん、だろうな。あいつが本気で隠れれば、見つけ出すことが難しいのは分かっていたことだ」
男が囲っていた女が逃げ出した。ただそれだけのはずだったのに、なぜ自分は未だに逃げ出した女を見つけようと躍起になっているのか。それは男自身にも理解できなかった。
「まあいい。早々にあいつが見つかるはずがない。元から長期戦のつもりだ」
男は次の指示を秘書に出して、机の上にある書類へと眼を落とした。秘書は何も言わずに頭を下げて部屋を出る。
扉の閉まる音が聞こえてしばらくしてから、男は顔を上げた。
男が流した女性の行方不明事件は、さして世間には興味のないことなのだろう。僅か数十秒で次の話題へと移っていた。
「・・・お前は今どこにいる」
男しかいない部屋に、その言葉は空虚に響いた。
―――出会いなど、もう覚えてはいなかった。
ただ、桜のように儚げで、それでいて強い光を瞳に宿した彼女に興味を持ったことは間違いではなかった。
これまで男が上辺だけの付き合いをしてきた女たちとは違う、凛として静かに立つその姿が美しい、と思った。そしてそれが欲しい、と願って手を出した。
彼女は今までの女たちとは違い、男に何も求めなかった。お金も装飾品も、何一つ求めることなく、また男の地位や権力に媚びることもなく、ただ淡々と男の傍にあった。
それは、男に不快な感情を与えることもなく、むしろ心地よいものだった。彼女がいるときだけ、男は何の心配もすることなく、穏やかな眠りに落ちていくことができた。
「・・・何故、お前は何も望まない」
彼女が何を願って男の傍らにあり、何を想って男の前から姿を消したのか、それは彼女自身にしか答えが分からなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あの人のもとから逃げ出して、三か月が経った。
あの日、ホテルを出てすぐに姉に連絡を取った。
もともと彼と付き合うことに賛成ではなかった姉だったが、何も言わず、昔のようにただ優しく微笑んで私を匿ってくれた。
『・・・おかえり』
その一言がやけに胸にしみて、年甲斐もなく姉に縋り付いて泣いてしまった。
それからは、姉の仕事を手伝いながら姉が借りているマンションの一室に住まわせてもらっている。
食料は姉や姉の仕事仲間が買ってくるので、外へ出ることはほとんどなかった。外へ出れば、あの人の部下が私を見つけてしまうかもしれないと考えてしまって、外へ出ることが怖かった。
「そんなこと、あるはずないのに・・・」
何故、そんな風に思ってしまったのだろう。
あの人は、自分の手の内からいなくなったものに執着しない。これまであの人が付き合っていた女性たちは皆そうだった。
あの人の関心を引こうと、必死に、すべてを投げ出して、ただただあの人だけを求めて、そして、すべてを失っていった彼女たち。
その有り様を見続けてきた私には、あの人に何かを求めることが怖かった。
求めれば、あの人に見捨てられる。その瞳に、私を映してくれなくなる。それが、どうしようもなく恐ろしかった。
「・・・私が何かを望めば、あなたは私から興味を失うでしょう?」
問われたわけではない。
けれど、あの人が目の前にいるような気がして、ずっと心の内に留めていた答えを口にしてしまう。
これから先、ずっと姉の世話になるわけにはいかない。
それに何より―――。
「―――大丈夫よ。私が、お母さんがあなたを守るから」
そっと触れたお腹に宿る小さな命を愛おしく思う。
最後に肌をふれ合わせたあの日、あの人は珍しく避妊をしなかった。
いつもならば、念に念を入れて慎重にしていたのに。あの日に何かあったのだろうか。
いろいろと考えているうちに、扉が開く音がした。
きっと姉が帰ってきたのだろうと、振り返った先に立っていたのは、あの人だった。
「・・・どうして」
思わず口元を覆って彼を凝視する。
記憶にある頃より少し痩せ、けれど眼光は更に鋭さを増して私を睨むように見ている。
「ようやく、見つけた」
ゆっくりと距離を縮めてくる彼に、私は動けなかった。目の前に立った彼は、固まっている私を見て息を吐く。
それは聞きようによっては安堵のため息にも聞こえる。
「・・・探した」
ただそれだけを呟いて、彼は私を抱き締める。
訳は分からずに固まっている私には、これが現実なのか夢なのか分からなかった。
「どう、して・・・」
ここにいるの?と続けたかったのに、言葉がうまく出てこない。
どうしてここにいることが分かったの?
姉さんは?マンションのオートロックはどうやって解除したの?
さまざまな疑問がぐるぐると頭の中で回っている。
ようやく腕の力を緩めてくれた彼は、私をソファーに座らせてから自分も隣に座る。
「ここに来る前、お前の姉に会ってきた」
やはり、姉はこの人がここに来ることを知っているのだ。ならば、どうして姉は私の居場所を教えたのだろう。
「・・・姉さんは」
「会った瞬間、何の予告もなしに殴られそうになった」
姉の所在を聞こうとした言葉は遮られた上に、彼の言葉に眼を見開く。
きっと姉はやってきたこの人の近づいて、にっこりと笑いかけてから思いっきり殴ろうとしたのだろう。姉は相手が誰であろうと容赦がないから、容易に想像がつく。
「殴られそうになった挙句、『帰れ』と言われた。『お前にあいつに会う資格があるとでも思っているのか』とも言われて、俺は何も答えられなかった」
この人の言いたいことが分からず、ただ黙って話を聞く。それに、この人がこんなにも話している姿は初めてだった。
「初めはただこれまで付き合ってきた女とは違うお前に興味があったから、手を出した。だが・・・」
そこで言葉を切った彼は、じっと私を見つめる。
その瞳の中に、これまで見たこともない熱を見つけて戸惑う。そんなこと、あるはずがない。
「お前が俺の前から姿を決して、俺はお前を追い求めた。その意味が分かるか?」
私はただ首を横に振ることしかできない。
だって、その言葉の先にあるものは、ずっと望んでいたもので、けれど決して手に入れることは叶わないものなのだから。
「———愛している。だから、俺と共に来い」
それは独尊的な彼には似つかわしくなくて、けれど彼らしい言葉でもあった。
「・・・はい」
溢れ出る涙を気に留めることなく彼に微笑む。
その様子を見て、彼も微かに微笑むように口角を僅かに上げた。
「帰ろう、二人で一緒に」
「いいえ」
彼の言葉に首を振ると、彼は眉間にしわを寄せて不機嫌になる。
その子供のような仕草に思わず笑ってしまう。
「・・・この子と、三人で」
そう言いながらまだあまり目立たない腹部に手を当てる。
その動作に彼はひどく驚いた顔をして凝視する。
「・・・子供が・・・出来たのか」
コクリと頷けば、大きく息を吐いて脱力した彼が覆いかぶさってくる。
何の反応も返ってこないことに不安を感じながらもじっと待っていると、ようやく落ち着いたらしい彼が顔を上げた。
「こうしてはいられない。今すぐ帰ろう。・・・あぁ、コートを着ないといけないな。つわりはないのか、気分が悪いなら・・・」
「もう、大丈夫です。つわりは朝が辛いですけど、そんなに酷いものでもないですし」
それまでの彼とは打って変わって、狼狽えたように手に持った携帯でどこかに連絡しようとしている。
「それに、姉さんがいてくれたので・・・」
最後に付け足した言葉がいけなかったのか、途端に不機嫌になる彼が微笑ましく感じる。だが、自分が義姉になる人物に嫉妬していることに気付いて、今度は拗ねたような表情になる。
それが可笑しくて笑っていると、突然彼に抱えられる。
「きゃぁっ!?」
身体が宙に浮いて思わず目の前にあった彼の首に手をまわして縋ってしまった。
「―――こうなったら、お前の姉が帰ってくる前に家に帰ろう」
何かと邪魔されそうだ、と苦虫を噛み締めたような表情をする彼に何も言わずに抱きつく。彼の腕の中にいるだけで満たされた感覚に浸る。
―――あぁ・・・。ようやく、私は帰る場所ができたんだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
数か月後。
待望の娘の誕生祝いに身近な友人たちを集めて細やかなガーデンパーティが催された。
主役である生まれたばかりの赤ん坊を四苦八苦しながら抱える男性の傍には、幸福な雰囲気に包まれた女性が笑っていた。
「・・・・・・あの男、ただの親バカだったか」
出産祝いに駆け付けた女性の姉が零した内容に周囲にいた知人友人たちは噴出してしまう。
世間では、冷静沈着で何事にも動じない実業家として知れ渡っている彼が、生まれたばかりの娘に振り回されている姿は確かに親そのものだ。
そっと姉を見ているとその視線に気付いたのか、姉が女性へと顔を向ける。
「どうしたんだ?」
「ううん。ありがとう、姉さん」
「・・・別に、礼を言われるようなことをした覚えはないよ」
突然の女性のお礼に、薄らとだが耳が赤くなった姉のぶっきらぼうな言葉が返ってくる。おそらく照れているのだろう。
まだまだ寒さの残る季節の中、女性は春を思わせる笑顔を浮かべる。
それは、儚げでありながらも凛として咲く花の如く、鮮やかな笑みだった。
END.