フウノ
その時、フウノの睫が揺れて、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれていった。
頭に痛みが走り、小さな呻き声を漏らして顔を顰める。
何かがおでこを伝って流れている感触が肌に伝わって、気持ち悪い。
フウノは右手をそっとおでこに伸ばして、その何かを指で拭うと、手を目の前にやった。
そして、息を吸い込む。
―――血……!? なんで……!?
そして。
―――ギャアアアアアアアアアアア!!
フウノは脳裏に突然響いてきた声に驚愕し目を見開くと、咄嗟に体を起こした。それに伴って頭に痛みが走ったが、顔を顰めてやり過ごす。
視線を周囲に見渡せば、どこかの村の広場のようだった。遠巻きに、何故か村人が点々と並んでこちらを見ている。
その表情には恐怖が混じっていた。
―――ど、どういうこと……?
「ガアアアアアアアアアアア!!」
魔物の声が突然響いて、ビクッと体を震わせたフウノは、ゆっくりと体ごと動かし、背後に視線を向けた。
その双眸に、変な角度に首が曲がって倒れている魔物と、その横に立って静かに魔物の成れの果てを見下ろしているサリタン、そして数メートル離れた所に立っている数匹の魔物の姿が映って、フウノは目を見開き、固唾を吞んだ。
叫び声を上げた魔物が左足を大きく前に出して土を踏むと、勢いよく跳躍した。魔物の後ろ足についていた砂利が零れ落ちてパラパラと宙を舞う。魔物は全身で風を切りながら鋭い鉤爪がついた腕を上空に伸ばして襲い掛かってくる。その眼は鋭く、血走っており魔物の全身から憤怒が滾っていた。
サリタンは、今までに無いほど冷静になっている己を感じていた。
魔物が上空に掲げていた腕が、新たな風を切る音と共に振り下ろされ、鉤爪が光を放ちながら迫り、サリタンの額に陽光を背にして出来た腕の影が、映りこむ。
爪が額に下されそうになっていた時、サリタンは瞬時に右足で地を蹴り左足に体重を移しながら膝を曲げると上空へ跳躍し、避ける。魔物の鉤爪が虚空を切り裂いたと同時にその足が着地して砂埃が宙を舞った。
切られる筈だったサリタンが突如姿を消したことで魔物が驚愕に目を見開いている間に、空高く跳躍したサリタンの体は勢いよく風を切りながら落下し始める。サリタンは両膝を曲げて備え、魔物が頭上からの風を切る音に気が付いて顔を上げた瞬間、曲げた足を瞬時に伸ばして魔物の顔面を足蹴りにし、仰向けに倒れた魔物の後頭部をそのまま地に勢いよく押し潰した。
数秒遅れて、魔物の体液が打ち付けた後頭部からじんわりと滲み出て来て地に水たまりを作り、汚染していく。
まさに、一瞬と呼べるほどの速さだった。
サリタンは、顔を上げて遠巻きに並んで見ている三匹の魔物の姿をその双眸で捉えると、呟くように言った。
「……次は?」
その声色の冷たさに、聞いているだけのフウノの体に悪寒が走る。
「グ……」
「グルルル……」
「グル、グルルル……」
残った三匹の魔物が顔を見合わせている。まるで相談しているのかのようにも見えた。
すると、三匹が腰を低く屈め、前足についている鉤爪で、砂をガリガリ削り始めた。助走をつけるかのように、腰を低くし臀部を上げ、狙いを定めるように震わせている。長い尻尾がシュルシュルと宙を踊って、弧を描く。
次の瞬間。
三匹同時に魔物が地を駆ける。砂利が飛び散り砂埃が舞う。一直線にサリタンへ向かって跳躍する。
しかし頭上から攻めたのは一匹、残りの二匹は左右から鋭い鉤爪を振り下ろして三か所から攻めてくる。
サリタンは片足に力を入れ腰を低くし体を前に倒しながら左足を瞬時に踏み出して駆け真正面を突っ切り避けると、ダン!と右足で勢いのついた体を急停止させ腰を低く保ったまま左足で跳躍し、上空から攻めている一匹の真上に飛んで魔物の背中目指して落下する。その背中を踏み台にして右足に力を入れて蹴り跳びあがって空を舞った。
背中を踏まれた魔物は体が地に向かって蹴落とされ、左右を攻めていた魔物の鉤爪がその身を抉り、体液が吹き出した。
ガアアアアアアアアア!!と断末魔が響くと同時に肉を削がれた魔物は大量の体液を吹き出しながら大地へとひれ伏した。
ピク、ピク、と体が動いており、それを見てしまったフウノは咄嗟に目を逸らす。
そうしたことで、フウノの視界にサリタンの背中が入った。
サリタンは背筋をピンと伸ばし、その場に佇んでじっと魔物達を見ていた。
同胞の身を抉り、今まで人間の血で黒く変色してきた鉤爪が今は同胞の体液で濡れそぼり、陽光を浴びて鈍い光を放っていた。爪の先から同胞の体液が滴となって、ぽたり、ぽたり、と地に落ちやがてそれは吸い込まれてゆく。
その様子を生き残った魔物二匹は愕然と見ていた。数秒間身動きせず佇んでいたが、やがて雄叫びをあげて憎しみのこもった目でサリタンを睨むと、足で地を蹴り怒りのままに襲い掛かる。
風を切り向かってくる魔物の姿を何も逃すまいと観察するサリタンの目に、次の行動に移すための動きが映る。右上から左下へ振り下ろされた鉤爪を横へ跳んで難なく避けると、計算されたように、その後ろに隠れるようにしていた残りの一匹が現れて右から左へと鋭い爪を振った。
だがそれをも前屈みだった躰をすっと後ろに倒すことで避けるが爪の先が頬を掠って横に一直線の傷が出来た。サリタンは倒れそうになっている体を二歩跳びながら後退することで態勢を整え、足を揃えて止まると、左親指で頬を撫でその指を見つめた。
血が付いて指の腹が赤くなっていた。それを口に含んでふっ、と口角を上げると、サリタンは視線を離れた所に立っている村人に向ける。
その男は腰に剣を携えていた。
一歩二歩と大きく足を踏み出して跳躍しながらその男の目の前に降り立つと恐怖に怯えた顔で「うひいいいいいいい!!」と叫ぶように言ったのも気に留めず、腰の剣を鞘から引き抜くと振り向き様に魔物の位置を素早く把握し、胸に向かってそれを勢いよくシュッと投げる。
刃は空を裂きながら飛んでゆきあっという間に魔物の胸部へドスッと突き刺さる。数秒遅れてその衝撃に気が付いた魔物は己を貫いている剣を見て動きを止めた。
「ガ・・・・・・?」
理解できない、なぜ、と言わんばかりの短い一声を漏らして、魔物は背中から重い音を響かせて倒れた。同時に風圧で砂利が飛び散り砂埃が舞い、刺さっていた刃が地に押され、ずずず、と肉を抉りながら胸部の方へ上がってゆく。
そして魔物は、剣が胸部に刺さったまま、息絶えた。
「グ、ガアアアアアアアアア!!」
突然雄叫びを上げて、残りの一匹が真横で息絶えている同胞の命を奪った剣を抜き、地鳴りのような足音を響かせながら一直線に突進してくる。サリタンはそれを冷静に見ながらゆっくりとした足取りで近づき始めた。
数秒後、魔物が剣を握った腕を勢いよくサリタンの細い首を目がけて振ったが、サリタンはその振り下ろされた腕を、拳を作り力を込めて固くした左腕で止めると、止められた事に驚愕している魔物の一瞬の隙を見逃さず左手で、魔物が右手で握りしめている剣を手ごと掴み捻りあげ、剣先を魔物自身に向けて勢いよく突き刺した。
刺された剣が魔物の胸を貫通し、背中から剣先が生え、体液が飛び散る。
自身が掴んでいる剣がそのまま己に突き刺さって、自殺でもしたかのような格好になった魔物は、信じられないものを見るかのようにサリタンを一瞥したあと、そのままガクリと膝をついて長い口からドロリと体液を垂らしながら、ドサリと地に崩れ落ちた。
ふと、サリタンは気配を感じて視線を周囲に走らせる。
何も逃すまいと目を細めて。
そして、一点で止めた。そこから目を離さぬまま右手で、目前に倒れている魔物の胸を貫いた剣を引き抜く。
そして何かを窺うように数秒佇んでいたが、突然大きく剣を背後に振ったあと左足を大きく一歩前に出すと同時に素早くそれを投げた。
剣先が空気を裂いて向かう先は村を囲っている草木の中だった。
剣がそこへ吸い込まれるように消えたと思った次の瞬間「ギャアアアアアアアア!!」と魔物の絶叫が村中に木霊した。
叫び声が途絶えた後、村を静寂が支配した。
声を僅かにでも出せば殺されるとでも言わんばかりに、しーんと静まり返っている。
聞こえる音は、風が吹いた際の葉擦れのそれだけだ。
だがそれも、長くは続かなかった。
「……化け物……」
と、誰かが呟くように言い、それは静かすぎる村によく響いて聞こえた。
すると、まるで水面に水滴が落ちて波紋が広がるように、村人たちが「化け物だ……」と口々に言い出し始める。
サリタンはそれまで魔物だけに向けられていた黒い感情が、村人達に向けられていくのを、感じていた。
―――そう、結局こうなるのだな。
サリタンは、口角を上げた。
そして、ゆっくりと、一歩一歩、見せびらかすように、一番近くに立っている村人に近寄っていく。
武器も何も持たないサリタンが一歩踏み出すごとに、村人の男は恐怖に顔をゆがませていった。
「近づくな!! ば、化け物!!!」
男が「ひいいいいいいいい!!」と今にも首を絞めて殺されそうな声を上げサリタンは拳を作って曲げた肘を後ろへゆっくり移動させる。
「やめるんじゃ!!!」
そこに、凛とした声が響いた。
もう、聞きなれたその声色に、サリタンは構えていた腕を下し、声がした方へと視線を動かす。
そこには、肩で荒く息をしているヒーローが立っていた。
無言でヒーローを見つめていたサリタンだったが、突然両肩を掴まれて力づくで地面に叩きつけられ首を絞められる。
「がっ……!」
「何を!! やめるんじゃ!!」
息ができず、苦しさからサリタンの手が、首を絞めている男の太い手に伸ばされる。両手に力を込めて外そうとするが、体重も掛けられているのか、自身の力が失われつつあるからか、ビクともしない。その間にどんどん意識が薄れていく。
そしてまた突然に苦しさから解放されたサリタンは空気を求めて激しく咳き込んだ。
はぁ、はぁ、と息も絶え絶えに視線を動かせば、ヒーローが首を絞めていた男の肩を掴んで動きを止めていた。男はもがいて力づくでヒーローの手を払おうとするが叶わず、睨み付けた。
「あんた、化け物を庇うのか!!」
「この子は」
「お前の方がよほど化け物だろうが!」
ヒーローの声を遮るようにサリタンがそう叫ぶように言った。
「な、なんだと!?」
「こら、サリタン! やめなさい」
「なんでコイツを庇うんだよ、首を絞められて殺されそうになってたのを見ただろう!?」
「サリタン!」
「なんでだよ? 魔物を殺しただけで、化け物扱いされるんだ! だったらわたしを殺そうとしたコイツも化け物だろうが!!!」
その瞬間、サリタンの左頬に衝撃が走った。
頬が、ジン、と徐々に痛みを訴えてくる。
サリタンはヒーローに頬を打たれたことを理解し、下唇を噛んだ。
心が、痛かった。
こんなに孤独を感じたのは、りあを失って以来だった。
「……じゃないのに……」
小さな声で何かを呟くが、その声はヒーローに届かなかった。
「サリタン……?」
「好きでりあを失ったんじゃない! 好きで生まれ変わったわけじゃない!! なぜ止めた!! そのまま殺してくれたらよかったんだ!!!」
そう叫び、サリタンは身を翻して走り出す。
「さ、サリタン!」
引き留めようとヒーローは手を伸ばしたが、その手は虚空を掻いた。
ぎゅ、と力強く拳を握りしめ追いかけようと一歩足を踏み出したとき、小さな子供がサリタンの後を追う姿が目に映った。
フウノだ。
ヒーローは、フウノに勇気づけられるように、己も一歩足を踏み出して追いかけるために走り出した。
砂利道を走り続け息が切れそうになったとき、道の終わりが訪れサリタンは足を止めた。肩で荒く息をしながら、サリタンの心とは反対に清々しいほど青く続いている青空を見た。
そして、ザバン、と大量の水が、何かにぶつかる音が、耳に届き独特な香りが鼻孔をくすぐった。
崖の下に、サファイア色の海が広がっていた。
物悲しい気持ちに支配され、サリタンは一歩踏み出した。
そして、崖まであと数歩という所で。
足音と共に背中に衝撃を受けた。
温かい、何か。
見てみれば、小さい両手が、サリタンのお腹で組まれて自由を奪われていた。
その時、数メートル離れたところでは二人に追いついたヒーローが足をとめ、口を挟むのも憚って静かに立っていた。
サリタンは腹で組んである両手を外そうと手を伸ばし、触れる。
「……邪魔を、するな」
すると、背中に頭をつけたフウノが無言で頭を振った気配を感じた。
「……あきらめるの?」
「……何をだ」
「……りあ」
その言葉に目を見開いてサリタンは背後のフウノを振り返る。そして憎々しげに睨み付けた。
「お前に関係ないだろ!」
「あるよ」
「ない!」
そう叫んでフウノに背を向けると、再度崖へと一歩足を踏み出す。その様子をみたヒーローは、止めようと一歩足を踏み出したが、フウノの言葉で動きを止めた。
「レグツェルガーデメディウスガルツェ」
その言葉を耳にした途端、サリタンは足を止めた。
空耳かと疑った。
体が、震える。
思考が停止した。
震える唇で、問う。
「なん……だって………………?」
サリタンはゆっくり振り返って、背後に佇んでいるフウノを見つめた。
フウノは口を閉口させたあと、瞳に涙を滲ませて微笑み、両手を広げた。
そして、もう一度言う。
「レグツェルガーデメディウスガルツェ。……レグ?」
サリタンは、もう疑わなかった。
「……っりあっ!!!」
大股で駆け出し三歩でフウノの胸に飛び込むと全身の込めれるだけの力を使ってもう離すまいとするように力強くフウノを抱きしめる。
フウノは泣き笑いしながら、飛び込んできたサリタンを抱きしめ返した。無意識に、宥めるように、サリタンの背中に回した手を上下に動かして、撫でる。
それ以上、二人に言葉はいらなかった。




