魔物2
「グアアアアアアアアア!」
咆哮が森中に轟き、フウノは立ち尽くしていた。己の背を軽く二倍は越しているであろう獣のような魔物を目前にして、逃げるわけでもなく。
いや、逃げれなかった。地に、足が固定されて動けないかのように。まるで一体化でもしているかのように、離れないのだ。
恐怖により身体が支配され、全身がわなないている。
限界まで見開かれた双眸に、涙が滲み始めた。
うさぎのような顔つきだが目はそれと似つかない程鋭く、耳は猫や犬のように短い。半開きになっている口からは鋭く光る牙が上下に二本ずつ生え、とめどめなく垂れ続ける涎は、目前に立っているフウノを獲物として捉えている証拠に他ならない。
唸り声を静かに上げながら、ドスン、と重そうな音を響かせて一歩、また一歩と足を進めてくる。その姿を目に映しながら、フウノは最期の時が来る、と、ひしひしと感じていた。
絶望に身を震わせながら、昼間の己の行動を後悔する。
そして、とうとう魔物が鋭い爪を持つ手を、上空へ振り上げた。
何かの血でどす黒くなった爪の先が、陽光の光で鋭い光を放った。
時は少し戻って。
一人で帰宅すると宣言したフウノがヒーロー宅を出て数秒後。
フウノが出ていく姿を総出で玄関に並び見送っていたヒーローが、一歩後ろに下がっているサリタンに視線を向け、無言で見つめ始めた。
その視線を目を逸らすことで回避していたが無言の圧力に押され、やがて、深く溜め息を漏らすことで負けを認めた。
そして一歩足を踏み出したサリタンに、拳を作った左腕を伸ばす。無意識にサリタンは右手の平を差し出し、渡されたものを受け取ると一瞬目を見開いたが、すぐ握り直すと歩き出し、フウノを追うために家を後にした。
バタン、という音と共に扉が閉まりリビングが静けさに満たされる。
「……はぁ」
そこへ、溜め息が聞こえてバッシュは隣りに立っているリーサに視線をやりながら、問いかける。
「どうしたの?」
「はぁ……。だって、あの子ったら……女の子なのに……まるで男の子みたいだと、思わない? ……可愛いお洋服も着てくれないし……はぁ…………」
肩を落としてそう呟くリーサにバッシュは苦笑し、ヒーローは何も言えず黙って天井を見上げた。
―――そりゃー中身は男だった時の記憶が強いからのう……。
―――これは、使わないと思うが……。
フウノの後をゆっくり尾行しながら、先刻ヒーローに握らされた小型のナイフを見つめる。
それを右ポケットに入れると、数メートル前を歩いているフウノの背中に視線を戻した。
午前中通った時と変わらず、穏やかに時が流れている。
暫く歩いているとフウノが自宅へ着いたので、サリタンはその場で足を止めた。
フウノは何故か、慎重に、ゆっくりと扉を開けている。
眉を顰めつつその様子を見守っていると、フウノは開けていた扉を閉めたと思ったら、身を翻して森の方へと駆けて行った。
―――どこいくんだ。
怪訝な表情のまま、サリタンはフウノの後を追うために走り出した。
森に入ると、草木を掻き分けながらゆったりと足を進めていくフウノだったが、時々聞こえる葉擦れの音や動物の鳴き声と思われる音に敏感に反応し、飛び上がるようにびくっと体を震わせている。
いや、実際飛び上がっていたかもしれない。
その様子がなぜか面白く感じ、気づかぬうちにサリタンは口角を上げて笑っていた。
暫く進んでいくと水音が聞こえ出し、フウノはその音がする方へと歩みを進めるため、自然に川辺に向かっていることが分かった。
同時に、以前川辺で魔物を見たことも思い出す。
―――まぁ、探しに来た時いなかったし……な。しかし、あの時とは比べようにならない程歩くのが速くなったもんだ。
そうしてまた黙々と歩いていくと、川の流れる音が強く聞こえるようになり、川辺に辿り着いた。
サリタンは木の陰に身を隠し、フウノの動向を静かに見守る。
フウノは周囲に視線を走らせてきょろきょろと辺りの様子を窺っていると思ったら、上流の方に歩いていく。
サリタンは気づかれないと思われる距離を保って尾行を続けていると、フウノは川辺で腰を屈め、何かを探るように腕を動かしていた。
気づかれぬように間を詰めながら歩いていると、目の端にのっそりとした何かが映る。
―――あれは……!
目に映った魔物は、ゆっくりとした動作で獲物に歩み寄るように、フウノへ近づいていく。その視線は真っ直ぐフウノへ向けられており、逸らすことがないことから、完全に狙っていると窺い知れた。
思わず舌打ちをしそうになるが、悟られてはならないので自制し、ゆっくりと距離を詰めていく。魔物は獲物のことで全神経を集中しているのか、サリタンには気づかない。
ゆっくり歩いて、魔物の背後へ回り込みながらフウノの様子も窺っていると、リュックをおろして何かをした後、背負いなおしていた。
そして、立ち上がったフウノと魔物が対峙する瞬間を、とうとう迎える。
フウノは体を硬直させ直立不動になっていた。
魔物が、一歩、また一歩とフウノへ向かって歩き、サリタンも同時に一歩一歩忍び寄りながら、ポケットに入れてあるナイフを取り出し、構える。
サリタンは魔物の所作を見据え、腕を振り上げようとした瞬間に遅れをとらないために地を蹴り上げ、砂を飛び散らせながら全力で走り出した。
魔物が、振り上げた腕をフウノに向かって振り下ろそうとした瞬間、サリタンはナイフを足に突き刺し手早く抜いた後、魔物の足の間に滑り込んでフウノを背に庇う様にして立ち止まって対峙し、予想外の鋭い痛みに叫び声をあげた魔物は、突然沸いたサリタンを血走った眼で睨み付けた。
殺気を身に纏っている魔物はさすがに迫力があった。これでは、魔物に対して免疫のないフウノでは太刀打ちできないのも解るというものだ。
しかし、レグであった時、魔物とは支配し、従わせるモノだった。
サリタンは握ったナイフを構えながら『気』を体中に漲らせた。
それは、魔王の気。
魔物達が敬愛し、従う相手の。
サリタンから魔王の気を敏感に感知した魔物は、獲物を狙って細くしていた双眸を見開き、突然現れた人間の子供を見つめる。
その表情は、人間でいえば驚愕とも捉えられるものだった。
サリタンは魔王の気配を漂わせながら、静かに口を開く。
「退け」
そうして、数秒の後。
魔物は、ただ、嗤ったのだった。




