夢路
彼は、花畑を、走っていた。
荒い呼吸が繰り返される度に、両肩が上がり、汗が背筋を流れる。
村に降りた彼女が、戻ってこない。
しばらく走り続けていた彼の双眸に、花畑の終わりが映った。
そして、探していた、彼女の姿も。
愛しい、大切な人。
彼女の姿を瞳に映した彼の表情は、心配そうなものから、花がほころんだような笑顔になった。
しかし、そのとろけるような笑みは、突然上げた雄叫びと共に一瞬で変化することとなる。
驚愕、恐れ、絶望、そして・・・憎しみへと。
そして、彼は。
自分の愛しくてやまなかった彼女を。亡き者にした人間を、血走った眼で睨み付け。
絶叫した。
「うあああああああああぁあぁあぁぁぁあぁあぁ!!!」
大地を揺るがすと思われるかの如く腹の底から出した絶叫で、自らの目覚めを強制的に成し、彼は勢いよく上半身を起こした。
片手で顔を覆い、絶望に慄く。
「り……り、あ…………りあ………………!!!」
震える唇で、彼女の名前を紡ぐ。
脳裏に浮かぶのは、地に崩れ落ち、細い背中を刃物で斬られ、傷口から大量の血が流れ出て、大地を赤く染めている姿。
「ぐ、う……ぁ……っ…………」
思い出して、彼女を失った時の苦しみが戻り、心を侵していく。
その時、その場にそぐわない明るい声が、部屋に木霊した。
「呼んだ?」
一瞬で、小刻みに震えていた体が、ピタリ、と静止する。
彼は、理解できなかった。
その声色は、聞き覚えがあるもので。
もう二度と、聴くことができないと思っていた人のもので。
胸に、期待と、不安、戸惑い、疑問が湧きあがる。
彼は、俯いていた顔を、恐る恐る上げて―――……。
その双眸に、栗色の髪の毛を自然に任せて背中に下し、濃い灰色の綺麗な瞳を持った、優しい微笑みを湛えている女性の姿が映った。
彼女は、陽光を背に、玄関と思われる扉を開け、立っていた。
その姿を瞳に映した瞬間、彼の目には彼女の姿しか映らなくなる。
「っ……あ、…………っ」
彼は、声にならないそれを上げて、同時に顔を覆っていた腕を、彼女へ向かって、伸ばした。
伸ばしさえすれば、届くとでもいうように。
でも、距離は縮まらなかった。
しかし、次の瞬間、彼女のほうが近づいてきた。
手の、届くところへ。
そして、彼女は彼の腕にそっと手を添えると、するりとはずし、その細い両手で彼の背中を抱きしめる。
自然に、彼の鼻は、彼女の腰の部分に、あたる。
変わらぬ、その香りに。
身体の、柔らかさに。
声の優しさに。
笑顔の温かさに。
そして、何よりも、失ってしまった筈の、その血潮の通う、ぬくもりに。
彼は、嗚咽と共に、涙を流した。
声が、枯れるまで。
そして、彼の両腕は彼女の背中に回され、服の裾を握りしめる。
彼の両腕は、震えていた。
気が付けば、背中を優しく、ポンポン、とゆっくりとしたリズムで叩かれていた。
ようやく落ち着いた彼は、そっと顔を上げる。
すると、彼女の濃い灰色の瞳と、視線が絡み合った。
彼は、静かに、問うた。
「…………りあ…………?」
「うん。なぁに?」
夢ではなかった。
身体にも触れる。
会話もできる。
でも、……なぜ?
「……っ…………」
訊こうと、思った。
でも、声が出なかった。
聞くのが、怖い。
また、失いそうで。
りあは、笑った。
以前と変わらぬ、優しさを湛える、微笑み。
彼も、微笑んだ。
―――そう、いいんだ。
彼は、依然と抱きしめたままの両腕に、力を入れて、りあを引き寄せる。
―――りあは、生きてる。だから、これでいいんだ。
彼は微笑んでいた。りあの腰に頬を当てたまま。
だから、彼は気づかなかった。
りあが、悲しそうな表情で、彼を見つめていたことに。
再会した二人は、穏やかで平和に、楽しく暮らしていた。
二人で近くの森に入って、木の実などを探してみたり、家の裏に小さな畑を耕して、野菜を育ててみたりと極力離れないように、日々を過ごしていた。
ある日は、森に入った時に熊におどろかされたり、またある日では、川沿いを散歩していると二人で落っこちて全身が濡れてしまい、顔を見合わせて大笑いしたこともあった。
そんな風に、笑いあい、お互いを慈しみながら、時を刻んでいた。
しかし、その穏やかな日々を崩壊させる言葉を、りあが突然言い出した。
「ね、レグ。わたし、丘下の村に行って、買い物してきていい?」
「だめだ!!!」
目を見開き、顔は強張って、腹から怒鳴るような大声を出し、即座に言い放つ。
彼の、漆黒の瞳が、強い意志を宿して、りあを見据える。
初めて見るその表情に、りあは戸惑いのそれを向ける。
「れ、レグ……?」
僅かに震えているその声色で、彼は我に返る。
―――しっかりするんだ。今は、あの時とは、違う……。
頭を振って、己を叱咤する。
おずおずと、りあの細い指先が伸ばされて、彼の頬に触れた。
彼は考えることもなくその手を掴むと、己の唇を、りあの手の平に押し当てる。
その温もりに、りあは頬を染めた。
「も、もう!レグったら……」
彼は、決意した。
あの時の二の舞は、嫌だ。
「一緒に行こう」
その言葉を聞いて、りあは花がほころんだような笑顔を見せる。
「うん、行きましょう!」
楽しそうに、身を翻して、駆け出した。
白いワンピースのスカートの裾が波打ちながら、ふんわりと浮かぶ。
数メートル離れた先で立ち止まったりあは、後ろを振り返って彼を見つめ、元気よく片手を振ってくる。
「早く早くー!」
その言葉を聞いて、彼は歩き出した。
「二度と……失うのは、ごめんだ」
そう、小さく呟きながら。
晴天で、心地よい陽光が大地を照らし、花畑もいつもより一層光輝いて見えた。小鳥の囀りが聞こえ、それもまた、花畑に立っている彼の心を、安定させてくれる。
昨日も、無事に一日を過ごせた。
今日も、必ずそうしてみせる。
りあは、わたしが、護る。
空を見上げながら、そう固く決意して、彼は背後の小さな家に、ゆっくりとした足取りで歩いて戻った。
今日はなにをして、りあと過ごそうかと壁際まで来て逡巡していると、背後でカタン、と音がした。
その途端、彼は笑顔になり、振り返りながら、愛しい彼女の名前を呼ぶ。
「りあ――――――――――……っ!?」
その瞳は、驚愕に見開いていた。
無意識に両手で拳を作り、握りしめる。
身体が、震えた。
恐怖で。
ギリ、と歯ぎしりし、漆黒の双眸は鋭い光を放ちながら、陽光を背に立っている者を睨み付ける。
彼は、叫ぶように、言った。
「なぜ……、お前が、ここにいる……!ヒーロー!!」
その言葉と同時に、背中に光を受けながら、ヒーローが静かに、家の中へと一歩足を踏み入れたのだった。




