怒りの果てに
フウノの両親がどうなったかを調べに出ていったヒーローは、日が暮れてから戻ってきた。
丁度その時、リーサは夕食の準備で忙しいため、儚げな印象を持つ、黒髪に灰色の瞳の少年フウノの世話はサリタンに回ってきていた。
けれど、サリタンは極力彼を無視した。
己の瞳に、彼の姿を映したくない。
あの灰色の瞳。
彼女を、思い出させる。
背後から、おどおどしながらも、機嫌を窺うようにサリタンに話しかけてくるフウノの存在に嫌気が差してきた、そんな時に。
ヒーローが帰ってきたのだ。
玄関の扉が開閉する音を聞きつけ、フウノはいち早く反応を示した。サリタンのことなど忘れた様に素早く立ち上がって部屋から出ていき、帰宅直後でまだリビングに立っているままのヒーローの元へ走る。
フウノは両手でヒーローのズボンの裾をしっかり掴んで、顔を見上げてその姿を瞳に捉えた。ヒーローとフウノの視線が絡み合う。
ヒーローは目線をフウノに合わせるために床に腰を下ろして胡坐をかいた。それに伴いフウノの小さな手は、ズボンの裾から胸のそれへと、掴む位置が移動する。
ヒーローの片手が少年の小さな手を包み込み、優しくだが力を入れて、己の裾を掴んでいる小さな指を一本一本丁寧にはずした。
「そんなに心配せんでもええ。君のご両親は生きておるよ。ただ、治るのに暫く時間が必要なそうじゃ。ご両親がいない間、うちで面倒見ると伝えてきた。……突然ですまんな」
最後の一言は、台所で動き回っているリーサに向けられた。
リーサは微笑んで答える。
「いいえお義父様。サリタンと同じくらいの子ですし、子供が二人に増えたようで、嬉しいですわ」
その言葉を聞いて、ヒーローの表情が和んだ。ついで、その視線が再度フウノに戻る。
「名前は?」
「フウノ、といいます」
「フウノ君か。慣れないじゃろうが、よろしくな。サリタンと仲良くしてやってくれ」
「は、はいっ」
にこっ、と微笑むフウノを見て、ヒーロは頷くとゆっくり立ち上がり己の寝室へ向かう。と、部屋に入る寸前で立ち止まり振り返った。
その視線の先には、向かいの部屋に背中をまるめて座っている、孫の姿がある。
―――元気がないのう……。
視線を前方に戻し、ヒーローは扉を引いて部屋の中へと姿を消した。
ヒーローの言葉を聞いていたサリタンは愕然としていた。
今聞こえた言葉は、空耳であってほしかった。
あの子供が暫く一緒に過ごすだなんて。
「……最悪だ……」
少年、フウノが住み着いてから、早五ヵ月経った。
ヒーローからサリタンを託されたフウノは、ことあるごとに近寄ってきた。サリタンはそれを回避するために動くことで精一杯、ほかのことに神経を使う余裕などなかった。
お陰でしばらく、鍛錬を行えていない。
フウノ自身も親から引き離されて寂しいのか腰ぎんちゃくのように引っ付いて来ようとするのだ。
そんな状況で、集中できるはずもない。
話しかけられる度冷たくしてもまた、笑顔で接してくる少年。
サリタンの行き場のない怒りは、この状況を作り出したヒーローへ向けられるようになった。
メラメラと燃え上る怒り。
我慢が、限界に達していた。
そしてある日の早朝。
ヒーローが毎度のごとく、散歩するために起床する時間を狙って、サリタンは先に起きた。隣りではフウノと両親が寝息を立てて熟睡していた。
フウノの寝顔が視界の端に入り、サリタンは苦々しく思う。
起こさぬように気を遣いつつ立ち上がって、寝室をでると玄関の扉を開け、外へでた。
まだ薄暗い中、家の壁の端まで歩いていくと身を隠し、玄関の方を覗き込む。
まだ来ていない。
姿勢を正して、空を見上げ、耳を澄ます。
数分そうしていると、やがて、家の扉が開閉する音が聞こえた。続いて、ざっざっざ、と歩いていく足音を耳が拾う。
身を乗り出して見ると、ヒーローの後姿が目に映った。
サリタンは静かに尾行を開始した。
ヒーローがいつもの道を通る背中を追いながら、離れた後ろをついていく。時々、太い木に身を隠してもらいながら。サリタンには気が付いていないのか、さくさく進んでゆく。
―――いや、やつは侮れない。気が付いていても知らない振りをしている可能性がないわけでもない、か……?
森に入ってそろそろ三十分経つだろうか。ヒーローは寄り道することなく、真っ直ぐ歩いて行っている。魔物も、今日は居ないようだった。
―――そろそろ、か。
ふいに、風が吹いて木々が音を奏で、サリタンの髪を揺らす。ヒーローも足を止めて空を仰いでいる。
サリタンは、隠れていた木から静かに一歩一歩足を踏み出して、道の真ん中に出て数メートル離れた真正面に立っている、ヒーローを見据えた。
そして、サリタンはおもむろに、今まで身を潜めていた方向へ、しっかりと足音を立てて駆け出した。
その音に敏感に反応したヒーローは背後を振り向いて、数秒見据えた後、サリタンが入り込んだ方向へ足を踏み出した。
―――また、なにを企んでおるやら。飽きんのう。
そう思いながらヒーローはサリタンが姿を消した方へ歩いていく。
実は途中から気づいてはいた。が、またなにをするのかと様子を窺っていたのだ。
歩きながらも、周囲の警戒は怠らない。
―――まぁ、今日は魔物の気配もないから、あやつも大丈夫だとは思うが……。
そうして歩いて数分後。
ヒーローは足を止めた。
―――成る程。
その双眸には、崖が映っていた。
だが、それほど高くはなく、落ちたとしても命を落とすまでは至らないだろう。
打ち所が悪くなければ、で、あるが。
ふと、背後に気配を感じた。
よく知った、気配。
―――落とす気か?
特に焦ることもなくゆったりと構える。
そして、気配が動いたのを敏感に察知したヒーロー。
無意識に体を捻りサリタンの飛び出してきた両手を躱す。
しかし、同時にサリタンの細い腕を掴もうとヒーローの逞しい片腕が伸びる。
そして。
突如、予想外の突風が吹き荒れた。
台風を思い起こさせる強風で煽られ、あと数ミリで捕まえれるはずだったサリタンの手首が遠ざかり、その小さい体が木の葉と共に宙を舞う。
一瞬で状況を理解したヒーローは無意識に焦りと危険を感じ、叫んでいた。
「サリターーーーーーン!!」
ヒーローが必死に上げたその声を、崖下の岩肌に頭から叩きつけられ意識を手放す瞬間、確かに耳が拾った。