二歩後退
彼は、立っていた。
色鮮やかな花畑の中で、ほっそりとした後姿を愛おしげな視線で見つめていた。
少し離れたところに立っている、彼の視線を一心に受け止めている女性。風が吹く度に、着ている白いワンピースのスカートの裾が波打ちながら、ふんわりと翻る。同時に、自然に任せて背中に流したままの栗色の髪がさらりと揺れた。
彼が、彼女に声を掛けた。
彼女は、そっと振り向いて、優しい微笑みを向けてくれる。彼は、幸せだった。
その瞬間が、何よりも。
彼は、微笑んでそっと彼女の名前を呼んだ。
「りあ―――……」
「え?」
いつの間にか、何かを求めるように空へ伸ばしていた右手を、誰かの温かい手が包んでいた。
サリタンは己の手を包み込んでいる腕を見て、その先を視線で辿る。
「サリタン?」
声の主は、母親の、リーサだったようだ。
「今のは……」
「え?どうしたの?りあって、なんのこと?」
「……」
「サリタン?」
戸惑った表情を向けられるが、サリタンは答えない。
その代わりに起き上ろうと身体に力を入れた。
しかしその瞬間、全身に痛みが走る。
「くっ……」
「無理しちゃだめよサリタン、寝ていなさい」
優しく窘めるように言われ、逆らうのも億劫で、サリタンは再度床に仰向けに寝て、天井を見つめた。
意味もなく、木で出来てある天井の模様を、目で追いかける。
「サリタン、ちょっと待っててね? いいわね?」
そっと掛かる声に、頷くことで答える。リーサは安心したのかゆっくり立ち上がって、部屋から出ていった。
足音が遠ざかるのを耳と気配で感じながら、サリタンは先刻の夢を、懐かしく、想い。
同時に、胸が張り裂けそうだった。
消えたリーサは、バッシュを伴ってやってきた。ついでに何かが乗った、お盆も両手で持っている。
サリタンの顔を覗き込んだバッシュは、安心したのか、力を抜いたようにふっ、と笑顔になった。
「あんまり、心配させるなよ」
そう言って、前髪をくしゃりと撫でる。
お陰でサリタンの前髪は、ぼさぼさになってしまった。
「さぁ、とりあえず、胃に優しいものを作ったから、食べましょうね」
それを合図にしたかの様に、バッシュがサリタンの両肩を優しく掴んで、上半身を起こし支えてくれる。リーサが、口元におかゆを掬ったスプーンを差出してきて、サリタンは逆らわずに口に含む。
そうして食事をしている中で、バッシュが背中から声を掛けてきた。
「サリタン。騎士の人らが言ってたんだけど、狼に襲われたんだってね?」
咀嚼をピタリと止める。心なしか目の前にいるリーサも顔が強張っている様に見えた。
噛むのをやめたサリタンを気にする風もなく、バッシュは続ける。
「それで、穴に落ちたんだってね。見つけた時、穴に落ちてたからこそ助かっていたようだったって、報告を受けたんだよ」
サリタンは、そっとバッシュを見上げた。
意外と近距離にあった、バッシュの目と自分のそれが合う。
「ね、一人で何しに行ったの?」
にこやかに問われる一方で、サリタンの両肩を掴んでいる手に力がこもり、痛みが走る。わざと、眉を顰めて見せると、
「あ、ごめんっ」
そう言って、両手の力が抜かれて、添えているだけとなる。だが、表情は変えないままでバッシュは再度同じ質問を繰り返した。
視線をリーサに移してみれば、こちらも真剣な表情で見つめてきている。
ヒーローを殺すための足がかりとして魔物を部下にする為、森に探しに行きました。
とは、言えない。
サリタンは……スルーすることにした。
「おじいちゃんは?」
ヒーローの話題にすり替えるという、苦渋の選択をする。
「え? おじいちゃん? 子供達に素振り教えてると思うわ。でも今日は少し早く帰ってくるって言ってたから、もうすぐ戻ると思うけど」
「サリタン?」
上から、冷たい声色が降ってきた。
内心舌打ちしながら、もう一度顔を上げて声の主を見る。
「話を替えないように、ね?」
―――やはりこいつはだめか。
「さ、何しに行ったか言いなさい」
サリタンは諦めて、口を開いた。
と、その時。
ギー、と扉が軋む音が聞こえ、ついでヒーローの声が耳に届く。
「バッシュ! リーサ?」
―――ここでも救世主、か……。
「はい!」
リーサが勢いよく返事をすると、ヒーローがひょっこり姿を現した。そして妙な雰囲気なのを察知したのか、表情が硬くなる。
「二人とも、何をしているんだ? 見たところ、器はあるがご飯を食べさせているわけでもあるまい。安静にしろと医者に言われたろう。寝かせなさい」
そう、厳しい声を出すヒーローは、威圧感を漂わせていた。
この気を、懐かしいと思う自分がいた。
前世で、殺りあった時も、こういう気迫があった。
ピリピリと、痺れるような。 緊張感が、部屋の中を支配する。
―――本気で怒ってるんだな。
気が付けば、右肩に触れていたバッシュの手が背中にあって、仕草だけで寝ることを促しているのが解る。サリタンは視線をバッシュに向けたあと、目を逸らして横になることに専念した。
その姿を認めると、ヒーローは続けて言う。
「お前たちは出ていきなさい。今度はわしが傍にいるよ」
寝室へ入ってきて、バッシュと交代するように真横に腰を下すヒーロー。それを見届けてから、両親は部屋から出た後、少しの隙間を残して扉を閉めた。
急に静まり返る部屋の中、サリタンとヒーローの視線が絡み合って、お互いをじっと見つめる。
すると、ヒーローが手を差し伸べてきて、サリタンの額に触れ、ゆっくりと撫で始める。
「お前が何をしに行ったのかわしには分からんが、無事に戻ってきてくれてよかったと思っておるよ。……しばらくは家から出なさんな。リーサにもよく言い含めておくからのう。……軽い軟禁じゃ」
うとうとしていたサリタンの耳に、ありえない言葉が最後に聞こえて沈みそうになっていた意識を呼び戻し、驚愕に目を見開いてヒーローを見つめた。
そんなサリタンを見ながら、ヒーローはいたずらっ子のような顔で、ニヤニヤ笑っている。
―――くっ、……こ、こいつ……。
本当は何もかも知っている上で、手の平で転がされているのではないかと思うサリタンだった。