魔物
雲一つない青空の下、雑草が生えていた所に行き来しやすいように裸地にされた道を、馬が蹄の音を響かせながらゆっくりと歩いている。焦げ茶色の、背が高い馬の口には轡がされ、藁が積んである車を引いていた。手綱を握りしめている御者は中年の男性だが、天から降り注ぐ陽光が暖く体中がポカポカしている為に眠いのか、自身を叱咤するように時折首を振っては目元を擦り、前を見据える……という動作を繰り返していた。
馬が歩いている道の周囲には鬱蒼として見える森林がある。数メートルしか離れていないその暗がりから、御者に鋭い視線を向けるモノがいた。
グルルルル、と獣に酷似したような唸り声を上げる口には五センチはあるだろうか、鋭い先を持った牙が、上下に2本ずつ生えている。獲物の肉を引き裂き齧り付く為にあるそれは、今、その人間の御者に向けられている。
暗がりから、一歩、また一歩と慎重に、鋭い爪が生えている前足を踏み出す。光が反射して、鈍い光を放つ。
イヌ科のような長めの口、血走った眼、頭の上から首、背中にとかけて長い、たてがみのような毛で覆われている姿が、歩を進める度に天から降り注ぐ陽光で露わになっていく。
赤褐色の、体躯。
それは、獲物に向かって、足をばねに、勢いよく空に向かって跳びはねた。
朝方、ヒーローが散歩に出かける際の、扉の軋む音でサリタンは目が覚めた。
むっくりと起き上って、肩を上げ下げしたり伸ばしたり、上半身を捻って身体の痛みを確かめる。
誕生日の夜、奇襲したつもりがなぜか返り討ちを食らって医者にかかり、安静を言い渡されたあの日から、ようやく二週間経った。
痛みがほとんどないことを確認したあと、未だ寝息を静かに立てて眠っている両親の間を通り抜けて、寝室を後にした。
扉を開けて室内を覗きヒーローの不在を再確認してから中に侵入し、前回と同様竹刀を手に取る。ずっしりとした重さが手に伝わり、力を入れて握りしめ、素振りを開始する。
振り下ろすと同時に空気を裂く音が、静まり返った部屋によく響いた。
熱中してしていた為か、気配に気づかなかった。
突然背後で扉を引く音が聞こえ、驚愕し素早く後ろを振り返ると、ヒーローが立っていた。
サリタンの口元が軽く引きつり、背中を嫌な汗が流れる。
ばれた。
しかし、ヒーローは気にも留めてないように扉を閉め、本が一冊置いてあるテーブルまで歩くと床に腰をおろし、それを手に取る。
数秒後、紙を捲ったような音が響いた。
―――まぁ、無視されたようで腹は立つが、それならそれで良い。
サリタンは、気にせずに素振りを再開することに決め、改めて竹刀を素早く振り上げ、下ろしていく。
ヒーローは本を捲りながら、度々、サリタンの後姿を静かに見つめた。
そんなある日、暖かな午後皆とリビングの椅子に座り、お茶を飲みながらゆったりとした時間を過ごしていると、ヒーローが突然立ち上がった。
「? 親父?」
バッシュが呟くように言うがそれには答えず、真っ直ぐに寝室へ入ってゆき、数分の後に布で巻かれてある細長い何かを手に携えて出てきた。
それを一目見た瞬間、バッシュは目を見開き、口元を引き結ぶ。
ヒーローは止まることなく歩いてゆき、玄関の前に立つと口を開いた。
「外には出るなよ」
そう言い残し、姿を消す。
開かれた扉が、閉じる音が木霊する。
しばらく家の中が静まり返っていたが、それを破ったのはリーサだった。
「ね、ねぇあなた」
リーサは戸惑いの表情を見せながら右隣りに座っている夫に視線をやる。
「お義父様……どこへ……?」
バッシュは苦笑した後、そっとリーサの頭の上に手の平を乗せ、ゆっくりと撫でる。
「大丈夫だよ。すぐに戻ってくるさ」
それから数十分後、バッシュの言う通りヒーローは戻ってきた。
出ていった時と変わりはないように見える。
「おかえりなさいお義父さま」
にっこりとほほ笑んで迎える嫁に、ヒーローも硬い表情を和らげる。
「ただいま」
家に上がり、椅子に座っているバッシュの側を一歩通ったところでぴたりと足を止め、振り返って息子を見る。そして、顎を上げた。
来い、と言っているかのように。
バッシュは立ち上がって、ヒーローの後をついてゆく。
リーサは夕食の下ごしらえをする為忙しそうに動き回っていた。鉄のぶつかりあう音が、時々部屋に響く。
サリタンはリーサを横目で見、視線を移して、二人が部屋の中へ消えたのを見届けた後で、音が立たないように気を付けつつ椅子を引き、床に足を付ける。
一直線にヒーローの部屋へ行き、静かに、慎重に扉をゆっくり引いて、僅かな隙間を作ると耳をそばだてる。
「……は、最近色々な所で襲われるという話だ」
「でも、親父……魔王は……」
ピク、とサリタンの耳が動く。
―――今、魔王といったか。
どちらかが溜め息を漏らした音が聞こえた。
「ああ、やつは……わしが倒したが……まぁ、それだけですべての魔物が消えたわけではないからな……。沈静化してたやつらが、やってるそうだ」
「そうなのか……それで、どうするんだ?」
「どうもしないさ……今はまだ、な」
「だったら、いつかは……、」
静かに扉を閉めたサリタンは、身を翻して向かいの部屋へ歩いてゆく。
敷居をくぐると、素早く扉の影へ身を隠し、リビングからは姿が見えないようにする。
暗がりの中、サリタンの口角が僅かに上がった。