髭
暗闇の中で、天から降り注ぐ雨。それらが屋根に当たって音を響かせると同時に、弾け飛んでいく。
やがて雷鳴が轟き、瞬く間に辺りを照らしては消える稲妻が、空を切り裂く。
ふ、と意識が浮上し、伏せていた瞼を上げて、上半身を起こす。
稲妻が走る際に生まれる光が、窓から部屋へ侵入し、暗闇の中にその姿を映し出す。
そして理解した己の状況。
左右を大人達に阻まれている。
いや、護られている、ともいうのだろう。
自分には、必要ないが。
サリタンは、慎重に両手両足を使いながら、大人たちの腕や顔などを跨いで、床を這ってゆく。
行きつく先は、一つ。
音を立てないように気を付けながら扉を横に引いて、寝室から出る前に一度だけ背後に寝ている二人を確認する。視線を前に戻して、道しるべのように時々照らす光と、自分の記憶を頼りに、何かにぶつからないように気を付けながら、前へ進んでゆく。
そうして、もう一つの扉の前に着く。
ゆっくりと慎重に、横へ滑らしてゆき、部屋の中を覗こうと身を乗り出し―――。
その双眸に、年の割には筋肉がついてガッチリしている、鍛えられた二本の足が映った。
その瞬間、勝負をする前から敗北を悟った。血の気が引くと同時に嫌な汗が、額に玉を浮かばせる。
筋肉がついていて、殴ったらこちらが負傷しそうな下肢からゆっくりと視線を上に走らせると。
鋭い双眸が見下ろしていた。
瞬間、どこかで落雷した音が轟く。
この、自然が赴くまま発する効果音と、暗闇の中で鈍い光を放って見下ろしてくる鋭い双眸。
サリタンは、声を出さずにいることで精一杯だった。
いや、むしろ悲鳴をあげなかった自分を褒めたい。
ヒーロの体が動き出した。
サリタンは身構える。
そっと両腕が伸びてきて、サリタンの腋下と肩を掴み、身体が宙へ浮く。
その浮遊感で、やはり自分は脆弱なのだと思い知る。
「サーちゃん?起きちゃったのかい?」
優しく声を掛けられるが、答えはしない。
何も知らない無垢な赤ん坊を、演技しなければならない。
苦痛なことだが、ヒーローを貶めるためには、自分が魔王であると気づかれてはならないのだ。致し方ない。
けれど。
だからこそ、できることもある。
サリタンはそっと柔い腕を伸ばして、ヒーローの顎を隠すように生えている、もさもさした立派なお髭を掴み、力強く一気に引っ張った!
「おわあああああああぁあぁあぁあ!!!」
落雷の音に負けないくらいの叫び声が轟いた。
そして、暗闇に支配されていた筈の向かいの夫婦部屋を筆頭に、点々と、外でも明かりが灯されていったのだった。
朝を、約一名以外無事に迎えたヒーロー家では、笑い声が響いていた。
声を上げて腹を抱え込み笑っているのはバッシュである。
「親父、もう、それ、最高! あははははは!」
リビングの椅子に腰を掛け、息も絶え絶えにヒーヒー言いながら上半身を震わす息子を睨み付けてから、丸い広場を残して顎から永久追放され今はゴミ箱と身を投じている髭へ想いを馳せつつ、溜め息を漏らす。
「本当にすみません、お義父様……」
バッシュの隣りで肩を落とし、ショックを隠し切れないリーサが元気がない声色でそう呟くように言うと、腹を抱えて大笑いしていたバッシュがピタリと止まり、両手をリーサの両肩を掴んでじっと見つめる。すると、リーサもそっと顔を上げて、バッシュと視線が絡み合う。
「いいんだよ、リーサ。心配ないから。よくある事だよ」
そうやさしく宥めながら、そっと抱きしめる。
「お前が言うな」
ズバッと切り捨てたあと、ヒーローは視線を嫁にやった。
「まぁ、せがれに先に取られたが……気にしなくていいぞリーサ。サリタンも悪気はないのだし。なぁ?」
そう言いながらバッシュの右隣に座らせているサリタンを見て微笑みかけるヒーロー。
サリタンはヒーローの言葉の意味を知ってか知らないでか、にこぉと満面の笑顔。
―――くくく、馬鹿め……魔王とも知らず笑いかけおって……。
と内心思いながら悪魔の微笑みを向けるサリタンであった。
そしてそんなサリタンの様子をじっと見ていたバッシュは視線をヒーローに移す。
「なぁ親父、その髭全部剃れば?」
「うん?んーしかしのう」
「いいと思いますわお義父様」
「ふーむ」
考える仕草をした後おもむろに立ち上がって、寝室へ消えていく。その間にお茶の用意をして、テーブルの上に程よい温度に温められたカップが乗せられる。
リーサはお茶を飲みながら、サリタンには少しずつスプーンで野菜ジュースを口に運んでゆく。
人間は嫌いだが、食べ物は美味しいと認めざるを得ないな、とこの頃よく思うサリタンである。
それから数分して、髭を綺麗に剃り若返ったヒーローが戻ってきた。
「おー親父やっぱないほうがいいじゃん? サリタンに感謝しないと、な」
ニヤッと笑ってサリタンを見るバッシュ。
その瞬間、サリタンの額にピク、と小さくだが血管が浮き出たことは、誰も知らない。
ヒーローは若返ったと聞いて嬉しそうに、外出していったのだった。
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