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夏がやってきた。
もはや迎えることはできないだろうと覚悟していた季節がやってきた。春の花が終わり、庭にはまだ小さな柿の木の葉が青く茂り、風に吹かれて木漏れ日を揺らしている。気の早いことに、すでに一匹の蝉が鳴いていた。アブラゼミだろうか、クマゼミだろうか、うっとうしく感じていた蝉の声を楽しく感じるというのは良い心の変化なのだろうか。
今年は朝顔を植えましょうね、と彼女は笑顔を浮かべていたのに、庭はさびしく雑草が生い茂っている。わざわざ買ってきたのだと見せてくれた白いプランターも、朝顔の種も私の見えるところにはないようだ。透き通る鮮やかな青色が好きだったのに、最期に見れないのが残念で仕方がない。
はあ、とため息をついたところで彼女が枕元にやってきた。
膝を突いて座った彼女は、庭に向けていた私の顔を上に向けなおして、なにやら楽しげな表情だった。
ほら、見てください。弟が初物を送ってくれたんです。ダンボール一箱分も。きれいな紅色ですね。
そういって彼女が私の視界に入れたのはまだ少し青いりんごだった。ヘタの鮮やかな紅からの黄緑へのグラデーションと艶がすばらしい、おいしいだろうなと思わせるりんご。
ああ、それはおいしそうだなぁ。
うまく回らない呂律でつぶやく。長い間、何も口に入れていないのに、りんごの甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がった気がして、思わず唾が沸いた。
……剥いて、差し上げましょうか。
彼女は覚悟を決めたような、さびしげな顔で小さく言った。
ああ……。
そうだな、もう、食べれないから、すりつぶして、くれないか。
はい、そうでしたね。
彼女は、持ってきたりんごを丁寧に皮を剥いて、摩りおろしていった。しゃりしゃりとりんごがすれていく音が響く中、その音と同じくらい静かな彼女の独り言がぽつぽつと私の中に染み入った。彼女は一人で、私と過ごしたもう遠い日々の思い出や愚痴をこぼした。相槌も満足に打てずに、私はただただ聞き入った。病気の痛みじゃない、切なさが胸を締め付ける。
りんごを擦り終え、彼女は私の上体を起こして支えつつ、スプーンの先にちょっとだけ乗せたりんごの果汁を私の口に運んだ。
おいしいですか。
そうだな。
私はなんの味も感じることはできなかった。舌をぬらした、という感触だけが広がり、それがあまりにも虚しくて、私は涙をこらえ切れなかった。
もはや体の感覚がおぼろげに薄れ、それなのにあちこちの芯が痛む最悪の中、私の意識は混沌の海を溺れたように浮き沈みを繰り返し始めた。咳をするごとに、闘病中あっという間に薄くなった胸が跳ね上がり、小さな痙攣が頻繁に起こる。
これが、死期というものか。
死期がやってくるのは私が思っていたよりも早かった。病院のベッドの上で考えていた、死ぬ前に家に帰れたらやりたいことのほとんどを叶えることができなかった。残りわずかなのだと悟るのも早く、あとどれほどの時間が許されているのだろうと私は思った。狂う寸前まで私を追い詰めていた恐怖は、私を蝕みつくしたのか、悟りの前で消えうせ、代わりに仏のような静かな心地がやってきた。痛みと苦痛とぼやける意識の中で、これは恍惚に似た何かなのだと感じた。
ゆっくりとやってくる死は、始まりに恐怖の暗闇を呼び、終わりに恍惚の光を誘った。この穏やかな光に包まれて死ぬのだと言うのならば、始まりの恐怖などいまや恐れるに足らないのも同然かもしれないとまで思った。
何度目かの覚醒で視界に入ったのは、回診医の難しい顔だった。険しい顔でパクパクと金魚のように口を開閉させて私の肩を叩いている様子だった。しかし、その衝撃もまた私には伝わらず、彼が口を開け閉めしているのは私に話しかけているからなのだとわかりはしても、何を言っているのか、耳はまったく聞こえない。
彼が残念そうに体を起こして居住まいを正すと、涙に顔を濡らした彼女の顔が迫ってきた。彼女の声は聞こえないが、それでもなんと呼びかけているのかはわかった。
あなた、あなた、だいじょうぶですか、しっかりして。
私の夢は、涼しい風が吹く晴れの日の太陽が空高くある時間に、思い出を切り取った写真を部屋中に広げて、愛しい人たちと語らいながら、笑顔を眺めて、涙ではなく微笑みを見て目を閉じたいだった。
けれども今、風は凪ぎ、太陽は灰色の雲の後ろに隠れ、思い出を切り取った写真をおさめたアルバムは未だ棚の奥で埃を被ったままついに広げられることはなく、愛しい人は涙に暮れている。語らうための力はなく、もはや彼女の声を聞くことも、言葉を伝えることもできない。交通事故なんかでは、衝撃までの一瞬に走馬灯が脳裏をよぎると聞くが、私のようにゆっくりと訪れる死を待つときは後悔ばかりが浮かんでは消えていく。最期に言葉を交わしながら逝きたいという夢が叶わないなら、せめて人生の輝かしい思い出のひとつふたつを大切に抱きしめていたかったのだが、それすらも叶わないのだろうか。
ふと狭まっていく視界の隅に、鮮やかな色彩が映った。畳の上に転がった、一玉の紅いりんご。
ああ。
その鮮やかな色彩が、穏やかな思い出の数々を呼んだ。私の、父と母、友人たち、大切だった人、子供たち、海や空や教会や神社や紫陽花や手紙やカメラのレンズや、彼女の笑顔。カメラから覗いた、当時は鮮やかだった彼女の笑顔は、写真に切り取った途端に色を失くして舞い落ちた。二人で過ごした過去の色は、私の思い出の中に仕舞っておこうと決めたのだった。
今、鮮やかに蘇った過去の彩りが、私に向かって微笑む。私を覗き込む彼女の、泣き濡れた顔はもう見えない。微笑みかける過去の色の彼女に向かって、私は手を伸ばして目を閉じた・・・・・・。
・・・・・・。




