婚約破棄されて船から捨てられた私は、忘却の記憶を運ぶ夜霧の渡し守になりました~王太子殿下、あなたが忘れた「あの夜」も、ちゃんと積荷に載っておりますわ~
「お前との婚約を破棄する。記憶泥棒の魔女など、公爵家に相応しくない」
夜霧の船の甲板。社交界の花園ど真ん中で、王太子ジェラルドの言葉が響いた。
そして、突き飛ばされる感覚。
私――ヴィオレッタ・レン・アルディスの身体は、いともあっさりと手すりを越え、〈泡沫の海〉の暗い霧へと落ちていった。
(あら。公爵令嬢を海に捨てるだなんて、随分と高くつく粗大ゴミ回収ですこと)
落下しながら、私は妙に冷静だった。喚くこともなく、ただ手すりの上で泣きじゃくる男爵令嬢ミレイユを見上げる。
「ヴィオレッタ様が……私の幸せな記憶を盗んだんです……!」
涙、涙、また涙。まあ、お上手なこと。
だが、これだけは言わせていただきたい。
記憶は、盗めない。
そう。私は前世で――現代日本で遺品整理業をしていた。人の想いを整理して、必要な人に届ける仕事に、確かな誇りを持っていた。過労で倒れ、誰にも看取られずに死んで、この世界に転生した女だ。
だからこそ骨身に染みている。記憶とは、盗むものではない。ただ、運ぶことしかできないもの。
(それに、ミレイユさん。あなたの『幸せな記憶』の正体――私、鑑定済みですのよ?)
海面が迫る。冷たい霧が頬を撫でる。
さようなら、公爵令嬢の身分。さようなら、理不尽な世界。
――そう思った、その時だった。
海の底から、太古の声が響いた。
「久しいな、渡し守」
藤色の瞳を開くと、私はもう、水の中にいなかった。
◆
「今代の担い手は、随分と乱暴に海へ来たものだ」
〈泡沫の海〉の底。青白い燐光に満ちた空間で、巨大な影が私を見下ろしていた。
古龍。海の主。世間で『冷酷無比の海の災厄』と恐れられる存在――ネブロス。
(生きて……いますわね、私)
落ちたはずの海で、私は溺れていなかった。それどころか呼吸すらできる。
「あなたが……私を助けてくださったの?」
「助けたのではない。迎えたのだ」
古龍の姿が揺らぎ、光が収束する。現れたのは、月光を溶かしたような長い銀髪の青年だった。深海色の瞳が、じっと私を見つめる。
「お前のギフト――〈記憶鑑定〉と〈記憶運搬〉。この国で数百年に一度しか生まれぬ、正統な〈夜霧の渡し守〉の証だ」
「……渡し守。私が、魔女ではなく」
「魔女などではない。お前は運ぶ者だ。人が忘れたい記憶を、必要な港へとな」
胸の奥が、じわりと温かくなる。
前世で、私がしてきたことと同じだ。人の想いを整理し、届ける。
青年は、ふと目を逸らした。なぜか耳が赤い。
「……その、なんだ。歴代の渡し守は皆、すぐに去っていった。人の一生など、我にとっては瞬きのようなもの。だから、あまり……期待はしておらぬ」
(あら。この方、もしかして寂しがり屋ですの?)
三千年を生きた海の主が、そっぽを向いて拗ねている。
意外と、可愛らしい方なのかもしれない。
「ネブロス様。ひとつ確認を――私を海に捨てた方々に、きっちり『返品』してもよろしいかしら?」
私は水中で、優雅にスカートの裾を摘まんで礼をした。
古龍の青年が、ぱちりと瞬いた。
「……様など要らぬ。ネブロスでよい。ふっ……面白い担い手だ」
そして、初めて笑った。
◆
冒険者ギルド、星霧級登録所。
私が藤色の瞳を見せた瞬間、受付の職員は椅子から転げ落ちた。
「せ、星霧級……本物の渡し守様……っ!?」
数百年ぶりの登録らしい。書類を持つ手が震えている。
(まあ、そんなに希少なら、公爵家はもっと大切に扱えばよろしかったのに)
公爵令嬢ヴィオレッタ・レン・アルディスは、正式に身分を捨てた。
代わりに手にしたのは、夜霧の船と、一枚の登録証。そして――
「セラフィナ……!」
登録所の外で、白髪を几帳面に結い上げた老女が待っていた。幼い頃から私に寄り添い続けた、唯一の理解者。
「お嬢様。ご無事で……本当に……」
「セラフィナ。あなたが無事を信じてくださったのね」
「当然でございます。お嬢様が記憶を盗むなど、天地がひっくり返ってもあり得ませぬ」
セラフィナは、そっと分厚い書類の束を差し出した。
「独自に調べておりました。ミレイユ・ソルベ様の、不審な動向を」
(さすが、私の家令補佐)
書類を受け取りながら、私は静かに決意した。
前世で、私はいつも『依頼人の都合』に振り回されてきた。無理な納期、理不尽な要求、感謝もされずに使い潰される日々。そうして誰にも看取られず、倒れた。
この世界でも、私は理不尽に捨てられた。
でも――もう二度と。
「もう、誰かのために黙って耐えるのはやめますわ」
セラフィナが、目頭を押さえた。
「あなた様が、あなた様のために生きる日を、ずっと待っておりました」
船の縁で、ネブロスが人化した姿でそっぽを向いている。
「……早く来い、渡し守。港が待っている」
照れ隠しに揺れる声。海が、少しだけざわめいた。
「まあ」セラフィナが口元を綻ばせる。「可愛らしい旦那様候補ですこと」
「セラフィナ!?」
「お嬢様、お行儀が」
夜霧の船が、静かに霧の海へと滑り出した。
◆
渡し守の仕事は、次々に舞い込んだ。
最初の依頼人は、若い商人だった。
「忘れたい失恋があるんだ。この記憶を、海へ捨ててほしい」
私は〈記憶鑑定〉のギフトで、彼が差し出した記憶に触れる。
藤色の瞳に、記憶の色が映る。
(あら……)
「お客様。ひとつ、鑑定結果を申し上げても? あなたが忘れたいと仰るこの記憶――失恋のお相手も、実はあなたを想っていらしたのよ。同じ夜の、同じ月を見上げていらしたわ」
商人が、息を呑んだ。
「積荷に載せる前に、確認いたしますわ。本当に、捨ててよろしいの?」
彼は、船を降りていった。海へではなく、彼女のもとへ。
二人目は、片腕を失った退役兵だった。
「戦の記憶を、全部消してくれ。夜も眠れんのだ」
私は首を横に振った。
「消すことは、いたしません。私は運ぶだけの渡し守。ですが――整理は、承れますわ」
記憶の中から、たったひとつを掬い上げる。
「戦友の方が、生きて笑っていた記憶。これだけ、手元にお残しになって。他の重い荷は、私がお預かりします」
退役兵は、声を上げて泣いた。
甲板で、ネブロスがぽつりと言った。
「お前は、記憶を捨てさせぬのだな」
「ええ。前世でも、そうでしたの。遺品はゴミではありませんでしょう? 想いを、必要な人に届けるのが私の流儀ですわ」
「……前世、か」
古龍は、深海色の瞳を細めた。
そこへ、霧を裂いて一羽の伝令鳥が舞い降りた。脚に結ばれた封蝋は――王家の紋章。
「王家からの、極秘依頼……?」
セラフィナが書状を開き、そして眉をひそめた。
「お嬢様。これは……王太子ジェラルド殿下の、『消えた三年前の夜の記憶』の捜索依頼にございます」
私は、藤色の瞳を静かに伏せた。
(三年前の夜……)
積荷台帳が、かすかに疼いた気がした。
◆
三年前の、あの夜。
政敵に毒を盛られかけた王太子ジェラルドを、私は救った。まだ婚約者だった頃の話だ。
そして――誰にも言わなかったが、私は知っている。あの夜から、彼の瞳が変わったことを。私を見る目に、恋の色が灯ったことを。
なのに彼は、私を海へ突き落とした。
「記憶泥棒の魔女」と罵って。
私は積荷台帳を開いた。星霧級渡し守のギフトは、この海に捨てられたすべての記憶を記録する。
そして――見つけた。
「ネブロス。やはり、ありましたわ」
台帳の一頁に、封じられた記憶があった。抜き取られ、この夜霧の海へ捨てられた記憶。
「この夜霧の海へ捨てられた記憶――ジェラルド殿下の、『ヴィオレッタへの想い』そのものですわ」
「これを掏り取り、捨てさせた者がいる。空白になった殿下の心を、塗り替えるために」
ネブロスの深海色の瞳が、剣呑に光った。
「掏り師の匂いがする。違法な〈記憶掏り師〉ギルドだ」
私は、ミレイユの『幸福な記憶』を鑑定した時のことを思い出していた。
あれは――他人から掏り取った、盗品の記憶だった。
「わかりましたわ。すべて。『記憶泥棒の魔女』――その濡れ衣は、真犯人が被害者に着せた、鏡写しの罪でしたのね」
本物の記憶泥棒は、涙ながらに私を糾弾した、あの薄幸の令嬢。
「ミレイユ・ソルベ」
私は台帳を閉じ、静かに立ち上がった。
「あなたが盗んだ荷、しっかりとこの船に積まれておりますわ。――返品の準備を、いたしましょうか」
セラフィナが調べ上げた資料と、私の積荷台帳。証拠は、揃った。
「ネブロス。国王陛下臨席の、次の社交界へ。船を出しますわ」
古龍は、ふっと笑った。
「乱暴に海へ来た担い手が、今度は乱暴に陸へ乗り込むか」
「あら、優雅に、ですわ。――『配達』は、丁寧が信条ですの」
◆
国王臨席の、大広間。
シャンデリアの光の下、貴族たちがざわめく。突然現れた星霧級渡し守――かつて海に捨てられたはずの、ヴィオレッタ・レン・アルディス。
「な……なぜ生きて……」
王太子ジェラルドが、青ざめた。その隣で、ミレイユの顔が引きつる。
私は喚かない。ただ、淡々と積荷台帳を開いた。
「王太子殿下。王家からのご依頼、承りましたわ。『消えた三年前の夜の記憶』の捜索――無事、見つかりましてよ」
広間が静まり返る。
「あなたが忘れた“あの夜”も、ちゃんと積荷に載っておりますわ。――返品、承りましょうか?」
私はギフトを発動させた。封じられた記憶が、光となってジェラルドへと届く。
三年前の夜。毒から救われた記憶。芽生えた恋心。そのすべてが。
ジェラルドが、崩れ落ちた。
「僕は……君を、愛していたのに……その気持ちごと、捨てさせられていたのか……!」
そして私は、国王へ向き直る。
「殿下の記憶を違法に掏り取ったのは、〈記憶掏り師〉ギルド。依頼したのは――そちらの、ミレイユ・ソルベ様ですわ」
セラフィナが進み出て、証拠資料を献上する。
「掏り師ギルドとの取引記録、目撃証言、そして鑑定済みの『盗品の記憶』の数々。すべて、こちらに」
「そんなの……そんなの、認めないわ!」
ミレイユの、可憐な仮面が剥がれ落ちた。
「私はただ、幸せになりたかっただけ! 誰も愛してくれないなら、盗んで何が悪いのよ!」
「盗んだ幸福は、あなたのものにはなりませんわ」
私は、静かに告げた。
「記憶は、盗めない。運ぶことしか、できませんの。――借り物の幸せを纏っても、あなたの心は、ずっと空っぽのままでしたでしょう?」
ミレイユが、言葉を失った。
国王の裁定が下る。ミレイユ・ソルベ、記憶を悪用した罪により――国外追放。
衛兵に引き立てられていく彼女の背に、私はもう、目を向けなかった。
◆
「ヴィオレッタ……!」
ジェラルドが、私に縋りついた。金髪碧眼の貴公子が、涙を流している。
「すまなかった。僕は君を愛していた。今も、愛している。だから――もう一度、僕の妃に……!」
広間中の視線が、私に集まる。
かつての婚約者。王太子妃の座。取り戻された恋。
物語なら、ここで頷くのかもしれない。
でも――私は、静かに微笑んだ。
「殿下。失くしてから気づく想いなんて、泡沫ですわ」
「ヴィオレッタ……」
「私の船は、もう次の港へ向かいますの。あなたの記憶は、確かにお返ししました。これで、私の仕事は完了ですわ。――ご依頼、ありがとうございました」
私は、優雅に礼をした。公爵令嬢としてではなく、一人の渡し守として。
踵を返す。振り返らない。
前世でも、この世界でも、私は誰かの都合に振り回されてきた。
でも今は違う。私は、私のために生きる。
大広間の扉の向こうで、セラフィナが目頭を押さえて待っていた。
「見事なお振る舞いにございました、お嬢様」
「あら、渡し守、ですわ」
二人で、笑った。
◆
夜霧の船の甲板。
霧の海を、船はゆっくりと進んでいく。次の依頼人の灯りが、遠く霧の中で瞬いていた。
人化したネブロスが、深海色の瞳で海を見つめている。
「なあ、渡し守」
「なにかしら」
「……お前の記憶も、いつか誰かに運んでもらう日が来るのか?」
三千年、歴代の渡し守を見送り続けてきた古龍。その声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
私は、少し考えて――そして笑った。
「その時は、あなたに運んでもらいますわ」
ネブロスが、はっと顔を上げる。
「ちゃんと、大事な積荷として。ね?」
瞬間。
古龍の顔が、耳の先まで真っ赤になった。
「なっ……なにを、急に……!」
「あら、照れていらっしゃるの?」
「照れてなどおらぬ! これは……そう、海が荒れて……!」
ぐらり、と船が揺れる。海全体が、大きくうねった。
「まあ。海を揺らすほど照れていらっしゃるのね」
「揺らしておらぬと言っている!」
私は、声を上げて笑った。
前世で、誰にも看取られず、たった一人で倒れた私。
人の想いを運び続けて、誰にも自分の想いを届けられなかった私。
でも今は、隣に相棒がいる。私を大切にしてくれる、涙もろい古龍が。
「ネブロス。私、この世界に来てよかったですわ」
「……そうか」
古龍は、そっぽを向いた。けれど、その手は、そっと私の隣に寄せられていた。
海の向こうで、次の依頼人の灯りが瞬く。
忘れたい記憶を抱えた、誰かが待っている。
「さあ、参りましょう。次の港へ。――返品も、配達も。丁寧が信条ですのよ」
夜霧の船が、静かに霧を裂いて進んでいく。
積荷は――届けたい想いと、ようやく手にした、私自身の幸せ。
そして船は、まだ見ぬ誰かの記憶を乗せて、泡沫の海を渡っていった。




