1 不平不満なんて考えたことがない
急に書きたくなったので急に始まった。
目の前に立たされているこの人の命より私は軽い。立場も、性別も、身長も、体重も、国籍も、なにもかも私の方が軽い。そしてその軽い私が、まさにその命を奪うんだ、滑稽ですらない話だ。両手両足を縛られて猿ぐつわで口をふさがれて、眼で「殺さないで」と必死に私へ懇願しているこの人を、私の意志と全く関係なく殺す。
「ごめんなさい、最期に言いたいことも聴くことができないなんて」
私はそっとおでこに口づけをし、細長く折った新聞紙で首を絞め、命を奪う。脳へ血液が行かなくなり、心臓が動きを止めて脳が完全に停止したことを確認するまで30分かけて、確認してからも用心のためさらに15分絞めたまま。
私はこの人の命を絶った。
名前は知らない、聞かされることもない、年齢は外見からすると50代半ばくらいだろうか?その考えは邪推だから覚えておくな、余計な事はどうでもいいだろうと言われてもう何十人目だろうか?人を殺すことが自分のお腹を満たす理由の1つになるだなんて漫画みたい。でも、実際自分が体験するなんて思ってなかった、考えたこともなかった。
私はいわゆる「殺し屋」だ。
お腹が減ってたから、たまたま私が倒れた目の前の人が「こちら側」だった、ただそれだけのこと。ただそれだけ、で言うにはちょっと話が飛び過ぎている。おそらく3徹、女にしてはガッツあるなと皮肉を言われた。夏休み明け前、家族で旅行の帰りに崖から落ちて父と母と弟を失った、私だって瀕死だったけど死ななかった。詳しい場所はわからない。頭を打っていたからなのか、家族の顔が思い出せない。とにかくお腹が減っていた。身体があちこち痛い、草でも食べればいいのに、そこにすら至らなかった。ただ食べ物がほしいと思って歩いた。どこかわからないし助けはどこから来るんだろう?
待っていても死ぬだけだと思い、ただあてもなく歩いていた。ああ、そういえば温泉旅行の帰りだったっけ。お土産に温泉饅頭があったはずだった、戻ろうと思って引き返そうとしたんだけど、ここはどこなんだろう?周りを見ても木しかない。道路もない、当然街灯もない、獣道すらない。ただ木がたくさんある、草が生い茂っている。
それ以外に考えられることが本当に全くなかった。事故からどのくらい時間が経ったんだろう?何時間という話じゃない、3徹なんだ、陽を3度見てるはずだ。眠ることも考えていないし、疲れているはずだけど歩みは止めていない。塩分と水分を摂取していなくて、暑いはずなのに温度を気にしていなかった、夜は涼しいはずだけど、わからなかった。ただ、お腹が減りすぎてたまたま倒れた所に人がいる訳はなかった。でも、たまたまそこに人がいた。たまたまその人が私を見つけて食事をくれた。本当にたまたま、その人が、人を殺めた帰りだったんだ。
完全犯罪なんてない、悪事は間違いなく見つかる、と教えられていた。でも「私以外」に見つかっていない。それはつまり犯罪ではないんだという「ありえない話」が目の前の人に話されている。その時の私はまだ空腹に全力で抗っていたせいなのか、その言葉はそのまま頭に入っている。単純な脳だ、極度の空腹は言葉をスポンジのように吸うんだと体感した。きっとこの人も打ち明けたかったんだろう、今ならわからなくもない話だ。だって、私が今、誰かに打ち明けたいのだから。でもそれをすると犯罪になってしまう。言わない限り、見つからない限り犯罪ではないのだから。
私が言わない限り、あの人が言わない限りこれは犯罪ではなく何も起きていない。
もちろんこの土地の所有者にご迷惑をおかけすることになると思う、それが露呈されるのが何十年後か何百年後か、それとも秒で、分で、時間で見つかるかもしれない。ただ、今見つかっていなければ、私の足跡を残さなければ、犯罪ではないんだ。
土埃を掃うことなく、ポケットから携帯無線を取り出し「終わったよ」と一言。
「了解、足跡を残すなよ」
「わかってるよ、でも無理だわ」
「凜の足跡が残ってなければ問題ない、後は任せろ」
「はいはい、任せますよモグラさん」
モグラさんに今の名前をもらった日、私は川嶋裕子という名前を捨てて湯島凛という名前と戸籍をもらった。免許証も健康保険証も持っていない優良な戸籍だった。年齢は上がってしまったけれど、気にしたら負けだ。戸籍を売るなんて実際にあるんだ、と思った。誕生日も当然だけど違う。父も母も弟も、顔を思い出せない。もういいのかな、忘れてしまうくらいならそれほど大切ではなかったんだろう。私は自分が思っているより薄情だった、それとも名前が変わったから薄情になったんだろうか。何十人も人を殺めている私には、数年前なんてもうどうでもいい事なのかもしれない。そういえばモグラさんの名前を聞いたことないな、ただモグラさんとしか教えられてない。聞いても教えてくれなさそうだけど後で聞いてみよう。




