忘却ポイントカードと商店街の幸福な一日
坂井俊夫は、通勤電車の中でため息をついた。
窓の外には、どこにでもあるような駅前の風景と、どこにでもいるような人々の背中が流れていく。スーツの襟は少し擦り切れ、スマホの画面には未読メールの数字が赤く光っていた。
会社では、二週間前のミスのことを、課長がまだ根に持っている。
家に帰れば、妻は口数が少なくなり、夕食の品数も目に見えて減った。テーブルの端には、離婚相談の無料パンフレットが裏返しで置かれたままだ。
眠ろうとすると、学生時代の失敗や、ちょっとしたいじめの記憶まで、順番を守って並び替えを始める。思い出したくない場面ほど、勝手に再生されるのだ。
そんなある土曜日。
坂井は、久しぶりに給料日直後の財布を握りしめて、近所の商店街へ向かった。スーパーでは安売りだが、人混みとレジ待ちの長さにうんざりしていたので、たまには個人商店を回ってみるかという気まぐれだった。
商店街の入り口には、「リニューアルオープン! ようこそ幸福商店街へ」という大きな垂れ幕が揺れていた。
その下で、黄色いジャンパーを着た若いスタッフが、箱を抱えて立っている。
「お客様、よろしければ新サービスのご案内です」
呼び止められて、坂井は反射的に立ち止まった。
黄色いジャンパーの胸元には、「忘却サービス株式会社」と刺繍されている。
「忘却サービス、ですか?」
「はい! こちらが新しい『忘却ポイントカード』になります」
スタッフは、笑顔とともにカードを差し出した。
カードは銀色で、表面には小さな星の模様がちりばめられている。「幸福商店街共通 忘却ポイントカード」と書かれ、裏面にはバーコードと、数字の枠が並んでいた。
「……普通のポイントカードと、何が違うんです?」
「たまったポイントを使うと、嫌な記憶が一つ消えるんですよ」
坂井は、一瞬、冗談だと思った。
目の前のスタッフの顔を見たが、その表情は真剣で、生真面目な会社説明会のようだった。
「嫌な記憶、が?」
「はい。お客様の脳内に蓄積されたストレスイベントを、当社のシステムが安全に一件分、圧縮・削除いたします。一回のお買い物で一点、百点たまるごとに一件分の忘却が可能です。本日から商店街全店舗でご利用いただけます」
「そんなことが、できるんですか」
「技術的なことは、こちらのパンフレットをどうぞ」
渡されたパンフレットには、小さな字で説明がびっしりと並んでいた。
脳波解析とか、ストレスホルモンとか、専門的な用語が並んでいて、読むだけで頭が痛くなりそうだった。
だが、「嫌な記憶が消える」という言葉だけは、妙にすんなり頭に入ってきた。
「初回登録特典として、すでに三十ポイントがチャージされています。ぜひ、お試しください。もちろん無料です」
無料という言葉に弱いのは、人間の共通点らしい。
坂井は、とりあえずカードを受け取って、財布に差し込んだ。
商店街の中は、いつもより賑やかだった。
八百屋では、店主が威勢よく白菜を積み上げ、肉屋では揚げたてのコロッケの匂いが漂っている。薬局には「当店も忘却ポイント対象店!」というポスターが貼られていた。
坂井は、晩ご飯用の肉と、洗剤と、ついでに自分用のビールを一本買った。レジでカードを渡すと、店員は慣れた手つきでピッと読み取り機に通す。
「はい、合計で十五ポイント加算されました」
家に帰ると、カードの裏面の数字表示が「45」となっている。
パンフレットによれば、「三十ポイント以上で一回の忘却サービスが受けられます」と書いてあった。
「……ためしに、やってみるか」
洗濯機を回しながら、坂井はカードを手に、パンフレット記載のコールセンターに電話をかけた。
自動音声が流れ、「忘却ポイントサービスご利用ありがとうございます。忘却を希望される方は1番を押してください」と機械的な声が告げる。
数字の1を押すと、今度は柔らかい声に変わった。
『ご利用ありがとうございます。オペレーターのカナです。忘却されたい記憶について、簡単に教えていただけますか』
「ええと……ほんとに、消えるんですかね」
『お客様の主観的ストレスを軽減する効果が、モニターの方々で平均八十二パーセント確認されております』
「パーセントって言われても……」
『たとえば、学生時代のいじめ、失敗、恥ずかしい黒歴史など。比較的浅い記憶からの処理をおすすめしております』
黒歴史、という単語が胸に刺さった。
坂井は、小学五年のときのことを思い出した。
クラスメイトの前で、好きな子に手紙を読まれて笑われた日。
声変わりもまだで、妙に甲高い声で、泣くこともできず、ただ顔を真っ赤にしていた自分。
「……じゃあ、その、小学校のころの、嫌な思い出を」
『かしこまりました。これから、カードを胸に当てていただけますか? 約十秒ほどで処理が完了します』
言われるまま、カードをシャツのポケットに差し込む。
耳元で、微かな電子音がした。
胸のあたりが、少しだけ温かくなった気がする。
十数秒後、オペレーターの声がした。
『はい、処理が完了しました。いかがでしょうか』
「……あれ」
坂井は、さっきまで鮮明に思い出していた教室の情景を、もう一度なぞろうとした。
だが、顔がうまく浮かばない。
教室はなんとなく覚えている。黒板の位置、担任の名前。
しかし、手紙を読まれた瞬間の、あのどうしようもない恥ずかしさが、指の間から砂がこぼれるように、つかめなくなっていた。
「なんだったかな……」
覚えているはずの「嫌な痛み」が、輪郭をなくしている。
すると、不思議なくらい胸が軽くなった。
思い出そうとしても、空振りするだけで、そこには何もない。
『気分はいかがでしょう』
「……ちょっと、楽になった気がします」
『ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております』
通話が切れたあとも、坂井はしばらく、胸の軽さを確かめていた。
なにか大事なものを落としたような気もしたが、それを「大事」だと判断する感情自体が、どこかへ行ってしまったようにも思えた。
翌日、商店街はさらに賑わっていた。
八百屋の店主は、見知らぬ客と笑いながら世間話をしている。
魚屋の奥さんは、「このカードのおかげで、客同士のケンカが減ったのよ」と嬉しそうに話していた。
「前は、順番抜かしだの、値段がどうだのって、よく揉めてたんです。でもみんな、気に入らないことがあると、ちょっと買い物をして、ポイントを貯めて、嫌なことを消しちゃうから」
「そんなもんですかね」
「奥さん同士の根深いのまでは、さすがに消せないみたいだけどねえ。でも、顔を合わせる回数が減っただけでも、ありがたいわ」
坂井は、ついつい余計なものまで買ってしまった。
カードのポイント表示は、いつのまにか「128」になっていた。
その夜、坂井はまたコールセンターに電話をした。
今度は、大学時代の就職活動での大失敗を消した。
面接で緊張して何も言えず、「特にありません」と繰り返していた自分を、もう思い出せなくなった。
別の日には、会社で初めて大きな失敗をしたときの記憶も削除した。
上司に怒鳴られたあのときの胃の痛みは、もはや笑い話にもならず、きれいさっぱり消えた。
ポイントは、買い物をすればすぐにたまる。
商店街の店は、どこもポイントアップセールを始めた。
夕方になると、「本日二倍デー」「子育て応援三倍デー」ののぼりが並び、スピーカーから陽気な音楽が流れる。
いつからか、町全体の雰囲気が変わっていった。
電車の中で舌打ちする人は減り、スーパーのレジでも、順番を譲り合う光景が増えた。
ニュースでは、「幸福商店街モデル」が好意的に紹介され、「ストレス社会への新しい処方箋」として、全国的な展開も検討されていると報じていた。
職場でも、忘却ポイントカードを持つ人が増えた。
課長でさえ、「昨日、うちの女房とのケンカを一本消してきたよ」と笑っていた。
そのせいか、以前よりも怒鳴る回数が減り、代わりに妙に穏やかな説教をするようになった。
坂井の家でも、変化があった。
妻がある日、カードを握って帰ってきた。
「ねえ、このカード、ほんとにすごいわね」
「使ったのか」
「うん。あなたと最初に喧嘩したときのこと、消してみたの。あのとき、何で怒ってたのか、もう思い出せないのよ」
「……そうか」
妻は、少しだけ柔らかい顔になったように見えた。
夕食の品数も、少しずつ増えていった。
しかし、不思議な違和感も、同時にたまっていった。
ふとした瞬間、何かを思い出そうとして、頭の中で手探りをしても、手ごたえがない。
夢のなかで見たような輪郭だけが残り、その中身がごっそり抜け落ちている。
ある日、坂井は、帰り道でふと立ち止まった。
足が、勝手に、商店街の一番奥の店へ向かっていたからだ。
そこには、「忘却ステーション」と書かれた、小さな店舗があった。
今まで気にしていなかったが、カードを配っていた若いスタッフではなく、年配の男性がカウンターに座っている。
「いらっしゃいませ。ようこそ忘却ステーションへ」
店主とおぼしき男は、白いシャツにベストを着て、落ち着いた笑顔を浮かべていた。
「ここ、いつからありましたっけ」
「最初からでございますよ。カードの発行や、特別な手続きは、すべてここで承っております」
店内の壁には、びっしりとカードが並んでいた。
どれも似たような銀色だが、よく見ると、一枚一枚微妙に傷の位置が違う。
店主は、その中の一枚を取り出した。
「坂井俊夫様ですね。ポイント残高は……現在、四百八十です」
「そんなに、たまってましたか」
「はい。あと二十ポイントで、満点になります。おめでとうございます」
「めでたいんですかね」
「ええ、とても。満点になったお客様には、特別な景品をご用意しております」
「どんな景品です?」
「それは、満点になってからのお楽しみです。ただ、一つだけ申し上げられるのは、『本当の意味で、すべての悩みから解放される』ということですね」
店主は、にこやかに言った。
その笑顔は、どこか、葬儀屋の丁寧な笑顔にも似ていた。
それから数日間、坂井は意識的に商店街で買い物をした。
いつもならスーパーで済ませるものも、あえて個人商店を回った。
パン屋で余計に焼き立てパンを買い、書店で読まない雑誌を一冊追加し、クリーニング屋で早仕上げを頼んだ。
ポイントは、順調に増えていく。
そのあいだにも、坂井は何度か忘却サービスを利用した。
離婚の話し合いをした夜の記憶、病院で言われた不安な言葉、親とぶつかったときの怒鳴り声。
気づけば、人生をかたち作っていた「痛み」のいくつかが、輪郭を失っていた。
同僚からも、よく言われるようになった。
「坂井、お前、最近丸くなったよな」
「そうですか」
「前は、ぐちぐち気にするタイプだったけど、最近は流してるっていうか。まあ、いいことなんだろうけどな」
自分でも、そう思う。
嫌なことは、深く考えなくなった。
腹が立つ前に、「どうせ消せるし」と思うようになった。
そのぶん、慎重さや、用心深さが削れていることには、あまり気づかなかった。
そして、ある土曜日。
坂井は、商店街の福引きイベントで、余計な買い物を重ね、ついにカードのポイント表示が「500」に達した。
「おめでとうございます。満点です」
レジの女性が、目を輝かせて言った。
「この画面をもって、忘却ステーションで景品と交換できます。今日中がおすすめですよ」
坂井は、カードを握りしめて、あの小さな店へ向かった。
忘却ステーションの扉を開けると、店主はいつもの笑顔で迎えた。
「お待ちしておりました、坂井様。ついに、満点ですね。おめでとうございます」
「景品を、受け取りに来ました」
「はい、もちろんでございます。では、こちらへ」
店主はカウンターの横にある小さな扉を開けた。
そこには、狭い階段が下へとのびている。
「地下に、特別な景品交換室がございます。足元にお気をつけて」
階段を降りると、そこには意外なほど広い部屋があった。
壁は白く、床も白い。
真ん中に、リクライニングチェアのような椅子が一つ置かれている。
天井からは、細いケーブルが複数垂れ下がっていた。
「こちらにお掛けください」
「……なんだか、病院みたいですね」
「健康診断のようなものだとお考えください。少しのあいだ、目を閉じていただくだけで結構です」
「景品って、ここで受け取るんですか?」
「ええ。坂井様の場合、『完全忘却コース』になります」
「完全……?」
「これまでの嫌な記憶、後悔、心の傷。それらをすべて一括して処分いたします。もう、なにもかも気にする必要はなくなります」
店主は、椅子の横にあるパネルを操作した。
ケーブルの先端が、そっと坂井のこめかみに触れる。
「少しだけ、くすぐったいかもしれませんが、痛みはありませんので」
「……こんなことで、本当にそうなるんですか」
「これまでの簡単な忘却処理とは、段階が違いますからね。『景品』ですから、特別仕様になっております」
「特別って、どう特別なんです」
店主は、少しだけ首を傾げた。
「言葉で説明するより、体験していただく方が早いでしょう。大丈夫、お客様は誰よりも、それを望んでここまでポイントを貯めてこられたのですから」
坂井は、言い返す言葉を探した。
だが、胸の中には、目立った不安も、恐怖も湧いてこない。
もしも不安があったとしても、それを消す手段を、自分は知っている。
何かが間違っているという直感さえ、すでにどこかで削られているのかもしれない。
椅子にもたれ、目を閉じる。
店主の声が、すぐそばで聞こえた。
「それでは――おめでとうございます。忘却完了です」
次の瞬間。
坂井の体は、ふっと軽くなった。
目を開けようとしたが、まぶたの感覚がない。
手を動かそうとしたが、手の位置がわからない。
代わりに、世界全体が、遠ざかっていく感覚だけがあった。
まるで、自分が薄いガラス片になって、空中に溶けていくような。
記憶が、逆再生のように流れ始めた。
会社のデスク、通勤電車、妻の背中、子どもの笑い声――あったはずの光景が、紙芝居のような速さでめくられていく。
しかし、そのすべてには、すでに何度も空白が刻まれていた。
消された記憶の跡地は、白い穴となって、残りの記憶を脆く支えている。
そこに、最後の一撃が加えられる。
名前を呼ぶ声が、どこか遠くで響いた気がした。
誰が呼んだのか、自分の名前がなんだったのか、それを確かめる前に、その音も薄れていく。
最後に残ったのは、ごく小さな感情だった。
それは、「こんなはずじゃなかった」という、弱々しい抵抗のようなものだったかもしれない。
だが、それもすぐに、他のものと一緒に、静かに沈んでいった。
椅子に座っていたはずの場所には、もう誰もいなかった。
ただ、カードだけが、ぽつんと座面の上に残されている。
店主は、それを手に取った。
カードの表示は、「500/500」から、「0/500」にリセットされている。
裏面の所有者名は、空欄になっていた。
「はい、一名様、忘却完了っと」
店主は、小さくメモを取った。
壁の一部が開き、そこには「景品リスト」と書かれた画面が並んでいる。
画面には、薄い文字で、いくつもの名前が表示されていた。
その一番下の行に、「坂井俊夫」という文字列が一瞬だけ現れ、すぐに消えた。
代わりに、「処理済み」のマークが点灯する。
地上の商店街では、その頃、いつも通りの夕暮れが広がっていた。
八百屋の店主は、「忘却ポイント五倍デー」のアナウンスをし、惣菜屋では揚げ物の匂いが漂う。
通りを歩く人々の顔は、どこか晴れやかで、笑い声も絶えない。
坂井の家では、夕食の時間になっていた。
妻は、テーブルを一人分だけ整える。
「今日は、なんだか静かね」
ふと、口をついて出た言葉に、自分で首をかしげた。
いつもと、何かが違うような気がする。
だが、それが何かを、うまく言葉にできない。
子ども部屋から、ゲームの音が聞こえてくる。
妻はドアをノックした。
「ごはんよ、一人で先に食べちゃいなさい」
「はーい」
返事が返ってくる。
妻は、テーブルに座り、自分の分だけ箸を取った。
「……誰か、いたような気がするんだけど」
しかし、具体的な顔も、名前も、思い浮かばない。
代わりに、冷蔵庫に貼られた幸福商店街のチラシが目に入る。
「ポイント、そろそろ貯まったかしら」
財布から、自分の忘却ポイントカードを取り出した。
表示は「270」になっている。
あと二百三十ポイントで、満点だ。
「こんどの連休は、ちょっと奮発して買い物しようかな」
妻は、そうつぶやきながら、一人分のご飯を口に運んだ。
翌朝、会社でも、小さな変化があった。
坂井のデスクだった場所には、新人の名前が書かれた名札が立っていた。
「この席、ずっと空いてましたっけ?」
新人の青年が尋ねると、課長は少し考え込んだ。
「いや、前に誰か座っていたような……まあ、いい。どうせ、空き席だから気にするな」
課長は、そう言ってから、自分の忘却ポイントカードを取り出して眺めた。
「このカードのおかげで、最近物忘れが増えたのかもしれん。嫌なことだけじゃなくてなあ」
そう言って笑う。
青年も釣られて笑ったが、その笑いの中には、かすかな不安の影が混ざっていた。
だが、それをはっきりと意識する前に、電話が鳴り、仕事が始まる。
商店街の忘却ステーションでは、店主が新しいカードを机に並べていた。
今日もまた、入り口では黄色いジャンパーのスタッフが、通りゆく人にカードを配っている。
「お客様、よろしければ新サービスのご案内です。嫌な記憶が消える、忘却ポイントカードはいかがですか」
通りがかりの主婦が立ち止まる。
「嫌な記憶、ねえ……たくさんあるわよ」
「たくさんある方ほど、お得です」
スタッフは、にこやかにカードを手渡す。
商店街の入り口の垂れ幕には、新しい文句が追加されていた。
「満点景品キャンペーン実施中! すべての悩み、ゼロにします」
そのすぐ下の小さな文字は、誰も読まなかった。
そこには、「※景品の内容については、お客様の了承を得たものとみなします」とだけ書かれていた。
店主は、地下の景品リストに目を通した。
名前の列は、日に日に伸びている。
だが、誰一人として、自分の名前がそこに載っていると気づくことはない。
「……さて、次のお客様をお迎えしますか」
店主は、レジスターの横に立てられた小さなメモを見た。
そこには、「地方都市モデル成功。全国チェーン計画進行中」と書かれている。
忘却サービス株式会社の本社ビルでは、今日もまた会議が開かれていた。
モニターには、「ストレス指数の減少率」と、「人口自然減少率」のグラフが並んでいる。
どちらも、なだらかに、しかし着実に右下がりの曲線を描いていた。
誰かが言った。
「世の中、少しは穏やかになってきましたね」
別の誰かが答えた。
「ええ。みなさん、嫌なことがあっても、すぐに忘れてしまう。争いも、恨みも、記録されない。とても平和ですよ」
「そのうち、忘れられる人がいなくなったらどうします?」
「そのときは、そのときです。新しいサービスを考えましょう。『記憶を売るポイントカード』とか、『他人の記憶をまとめ買いできるカード』とか」
会議室に、乾いた笑い声が広がる。
誰も、その笑いの中に、何か決定的なものを失っているという感覚を持たなかった。
幸福商店街では、今日もまた、新しい一日が始まる。
人々は、買い物袋をさげて歩きながら、誰かの名前を思い出せないもどかしさを、一瞬だけ胸の奥で感じる。
しかし、その違和感は、次の角を曲がるころには、もう薄れている。
なぜなら、嫌なことは、すぐに忘れられるからだ。
そして、嫌なことだと判断するかどうかを決める「自分」もまた、いつか景品として静かに回収されるのだから。




