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まだ来ぬ君に宛てた手紙(時を越えた想い)

作者: Kazu.Nagasawa

『まだ来ぬ君に宛てた手紙(時を越えた想い)』



第一章 山古志にて

●一 湧き水と座面

 越後山古志に通じる道に、小さな湧き水を(たた)える石の座面がある。なんでも、この湧き水は、夏冷たく冬は雪の中から湯気を出すほど温かく、疲れを癒す水として言い伝えられていた。

 その座面には、旅人の他、木こりや野良仕事の百姓に混じって、侍までもが腰を掛ける。何故と問われて解ることは、陽射しと木陰の具合が四季折々に加減され、辺りの木立と土盛りが計ったように出来ているところだ。ここに来て腰を下ろし、景色を観ないなどと考えるまでもない。

 とは言うものの、誰が座面を置いたのか或いは自然の石をこれに仕立てたのかは分からない。ただ、湧き水を飲んで休む場所としての配慮は絶妙である。

 山里に、春を知らせる雪解けの音がしていた。

 そんなある日、長岡藩の侍で未だ二十歳に成ったばかりの青木俊蔵あおきとしぞうが、湧き水の横を通りかかった。すると、座面に腰を掛けていた百姓らは、ゆっくりと席を空け丁寧にお辞儀をした。座る位置を換えただけの気の置けない作法であった。

「まあまあ! 気を遣わずともよいです。この先の彦爺ひこじいのところに、熊胆(くまのい)を貰いに行く途中ですから!」

 俊蔵の心は和んだ。

「どうぞこちらへ!」

 世話役のゲンジが席を立ち、さらに間を空けた。先を急ぐ用向きではあるが、俊蔵の足取りは重かった。

「あのー! 彦爺(ひこじい)はまだ戻りませんですが。さっき寄ってきたんです」

「うむー、そうですか! そうしたら、どうしょうかなー」

「行っても、お待ちになられるんじゃねえですか!」

 ゲンジの話に急ぐことはないと、俊蔵はどっしりと腰を下ろした。彼の深いため息に合わせ、ゲンジの隣のオカヨが笑顔で話し掛けた。

「そしたら! 庄や様のところに寄られたらいかがでしょう。うちらもこれから行くもんで、ご一緒にどうですかね!?」

「あー、そうか! じゃあ、水を飲んでから行きましょう!」

 俊蔵は、知り合いの様に振舞われたが見覚えは定かではない。とは言え、百姓らは彼の泥足を見て、足袋と草鞋(わらじ)の履き替えを手伝った。甲羅のように割れてぼろぼろと落ちた足袋の泥を、オカヨはさらに揉み落とそうとしたが、落としきれない。

「もう落ちんですんで、持って行ってちゃんと洗いますから!」

「ああ! 裸足のままのほうが気持ちがいい」

(こけ)むす石積みの間に差し込まれた竹から、勢いよく流れ出る水が何故かうまい。俊蔵は顔を洗い、両手を杓子代わりにごくごくと喉を鳴らした。

「うーわ!! 気持ちいー」

 ふたたび腰を下ろし手拭いで顔を拭いた。

 座面に座っていると意外に温かく、その温さが尻を重たくしているところに、雲雀(ひばり)のさえずりが耳に響く。俊蔵は春の日ののどかさを感じながら、オカヨが足袋と草鞋(わらじ)をしまい終えるのを見ていた。

 頃合いを見て、ゲンジがおもむろに膝に手を当て、腰を上げながら先に庄やの家に行くと言ったので、俊蔵も歩き出した。しかし、背中の荷物をゲンジが代わっても、彼の歩きは徐々に遅れた。


●二 庄やの家

「もう、その先です!」

 山の斜面を流れる小川に沿って四半刻(30分)ほど坂を上ると、庄やの家があった。

「庄や様! 庄や様! ゲンジです! 青木様をお連れしました!」

「ん! どうして私の名を?」

 ゲンジは、俊蔵の荷物を持ったまま彼を先に通した。

「あっ、すいませんでした! 彦爺(ひこじい)から聞いておりまして。もし先に戻れんかったら、庄や様のとこにお連れするように言われておりましたもので!」

「ああ、なるほど、そうか! 山に入るといつ戻れるか分からんからな!」

「はい! それに今は、道がすべったり、ぬかるんだりして」

 庄やは、石敷きの玄関から直線に伸びた廊下の奥から、喜び勇んで顔を出した。この家は床も柱もすべてが太い。二百年もの間、豪雪に耐える重厚な造りであった。

「まあーまあー、よくお出でになられました。城下から山一つと言っても、あの上りは大変でしたでしょう!」

「あー、そうでした! 私の家はちょうど村松むらまつにあります。昼前に着くつもりが、こんなにかかってしまいました」

 庄やは、ゲンジから俊蔵の荷物を受け取り、水桶を出した。

「村松の青木様は、よく存じ上げております。お父上と、お顔も似ておられますな!」

 俊蔵の実家は、ここ山越に向かう山道の上り口の村松郷にある。日帰りのつもりで日の出とともに出発したのだが、予定の昼は過ぎていた。

 庄やが差し出した手拭いを受け取り、桶の水で体を拭きながら最後に裸足の足元を水に浸していると、庄やが替えの足袋を差し出した。

「大変でございましたな。お疲れになりましたでしょう! よろしかったら中飯ちゅうはんをご用意いたしますが、どうですか?!」

「おー、それはかたじけない! 握り飯を持ってきたので、何でも構わないから汁物(しるもの)があったら助かります!」

「はい! それでは、直ぐに支度させますんで、この奥でながばって(横になって)休んでいてください」

 俊蔵は、広々とした客間に案内され、腰のものを床の間の太刀掛に据え、替え袴に履き替えた。腰を下ろすと、縁側越しに庭先の傾斜畑が目に入る。日差しを楽しむように菜の花に蝶々が戯れていた。その奥には、雪割りの蕗のとうの顔がある。

 ここ山越は、雪深い越後の中でも指折りの豪雪地である。長岡や小千谷(おじや)の町と山一つ隔てただけの場所ではあるが、毎年の積雪は一間半(いっけんはん)をゆうに超え、冬はまさに陸の孤島と化す。そのため雪解けは遅く、その水は無垢というほど清く、そして豊かである。

「山深さを感じる景色か! ときが過ぎるのがゆっくりでいいなー」

 そう呟いて、俊蔵は横になった。

 しばらくして、庭を向いていた体を上に向けると、途中で欄間の下に掛けられた長さ二間ほどの大槍に目が行った。槍先にはなめし革の収めがあり、刃元に動物の毛と思われる飾りが施してあった。

「戦国ものだな!? 何だか命を殺めたようで威圧してくる」

 その槍の威圧と合わせたように、襖と欄間の間の横桟(よこさん)は幅一尺を超え、積雪の重みに耐えるように(かまち)のあそびを多くみていた。

 しばらくして、魚の焼ける匂いが漂ってきたので、俊蔵は持参の握り飯を盆の上に広げた。

「お待たせいたしました。お口に合うかどうか分かりませんが!」

「いやー、美味そうだな!」

「山菜と筍の味噌汁と、ヤマメの焼き物です!」

「これは! ごちそうだな!」

「こんな物しかありませんが、喜んでいただければ、うちらも嬉しいです!」

「さっそく頂くか!………うめえ! 香りが、なんとも言えんな!」

「では、あとでかたし(片付け)に来ますんで、そのままになさっていてください! 彦(ひこ、彦爺)も、そろそろ戻って来ると思います!」

 庄やは、そう言って襖を閉め、静かに部屋を離れた。

 日差しに混じって、春の風が緩やかに山間の草の匂いを運んでくる。城下と一味違う趣に食事を楽しみながら、俊蔵は子供の頃を思い出していた。


●三 生い立ちから

 俊蔵の実家のある村松は、太田川という幅二十間ほどの川で集落が別れている。ちょうどその川が、山から平野に流れ出る要に位置する村里は、越後平野と藩の山間部とを結ぶ基点の場所となっていた。集落は、その両岸から二つの橋で行き来をし、さらに家々は、近くの山から流れ出る幾つかの小川から生活用水を引き込み、そこに木橋を掛けて水路を跨いだ。

 彼は、子供の頃から野山や川で朝から晩まで遊び、侍の嫡男ちゃくなんであることなど関係なく、村の子供たちと一緒に暮らしていた。

 しかし、さすがに元服の前の年になると、父親の三右衛門から厳しく諭されて、学問と剣術に勤しむようになったのである。すると、驚くように才覚を現し、みるみるうちに藩校一の席に位置するようになったのである。特に剣術と漢方に関しては、彼が幼い頃から自然の中で育ったこともあり、類まれなる敏しょう性と草木の知識に恵まれ、わずか十八歳にして藩医のもとで薬の調達を任せられるようになったのである。

 久々に足を運んだ春の山古志には、幼心の淡い想い出があった。

 その日の俊蔵は、雪解けを機に熊が活動し始めるころを見計らい、藩医西野の指示によって熊胆(くまのい)を求め山古志村に足を運んだのである。山古志には何度か来ていたが、春先のこの時季は初めてであった。

 山道は、ところどころに雪解けの水が横切り、路面の石が顔を出す部分と泥濘(ぬかるみ)とが落ち葉に覆われ足元が悪い。ほとんどが上り坂の道には石敷きの舗装のようなものはあるが、逆にこれに足を滑らせて到着に時間を要したのである。だが、急いで来たものの、あいにく猟師の彦爺(ひこじい)は山から戻っておらず、庄やの家でその帰りを待つこととなった。

 春の訪れは雪国にとって待ちに待ったものである。庄やの心づくしの労いと春の雪解けの気持ちの良さが重なり、彼はうとうととしだした。


●四 オミヤとの再会

 目を閉じると、庭の方から鳥たちが近づいて来るのが分かった。野鳥は敏感で、人が起きていると庭には降りてこないはずだと思いながら、彼はまた、うつらうつらと役目を気にして、その日までの時刻(とき)の移りを思い返していた。

 そんな俊蔵に、誰かが羽織を掛けてくれた。どこからともなく、水で(かさを増した小川の音が聞こえている。鳥たちは、何かに驚き羽ばたく音を残して居なくなり、しばらくするとまた戻ってくる。

 そうこうしているうちに、急に冷たい風が(ほほ)を撫で、彼に時刻ときを知らせた。山里の日暮れは早く、少し陰っただけで辺りは直ぐに暗くなる。ふと気付くと、鳥たちも巣に帰ったらしく、そのさえずりは虫の声に変わっていた。

 突然、廊下の段差につまずく音がした。

「青木様! たんだ今、彦爺(ひこじい)が戻ったと知らせがございました! 急いでこちらに向かっておりますそうで!」

「そうですか! それは良かった」

「でも、お帰りに間に合いますでしょうか? もしこんな古家で宜しければ、お泊りになられたらいかがでしょう!?」

「うむ、そうだなー!? 慣れた道ではあるが……」

「暗い山道はあぶねえですから、大事を取りなさっては?!」

「うむ、心づかいは、かたじけない! ただ、明日にはご藩医の西野様にお届けせんとならんし!」

 この俊蔵と庄やの話に、いきなり女の鋭い声が割り込んだ。

「父さま、いま彦爺(ひこじい)が着きなさったです!」

 俊蔵は、その声がすぐにオミヤのものだと分かったが、急を伝える言い方に勘違いもあると思い、次の声に耳を立てた。

「わかった! 早くここへ通して!」

この庄やの呼ぶ声は、廊下を伝って聞こえたはずと思ったのに、誰も上がってこない。玄関の方から何人かの男の声に交じって、また若い女の声が聞こえた。

「やっぱり、オミヤちゃん! 大橋様のところにいた?」

 そこにオミヤがいきなり顔を出した。俊蔵は思わず話し掛けた。

「……勝覚寺しょうがくじに読み書きを習いに、大橋様の家に預けられていた、あのオミヤちゃんか!?」

だが、オミヤはそれに気付かなかった。

「いやー、懐かしい! 元気そうでよかった」

 オミヤは一方的に話しかける俊蔵を無視した。それもそのはず、山から戻った彦爺(ひこじい)は、脚と顔に怪我を負い、それを懸命に手当てしていたのである。

「父さま! 彦爺(ひこじい)は大怪我して、すぐに血止めしますから、乗っている戸板ごと運んで来ます!」

「そうか! いやー、それは一大事」

 俊蔵は、不意を突かれ……

「ええ! そうだったのか。大変なことに。あ〜、分かった! 私も手伝う。誰かにお湯を沸かして、さらしと焼酎を持って来るように言ってくれんか!」

「そう言われなされても、ここらに焼酎は無いです。猟で使う気付けのアルコホールがあります! それを使われますか?!」

「おまえさん! やっぱり、オミヤちゃん?」

 ふたたび俊蔵が聞いた。

「貴方様は、どなた様でしたですかねぇ?」

「としぞうです。村松の! 一緒に川で遊んだ、としぞう!」

「えっ! そう〜、でも、何でお侍様の格好しているんですか?」

「いや、うちはもともと武士の家なんだが。けど、俺がほかの子と遊びたくて黙っていたんだ!」

 オミヤはそんな俊蔵に憤った。

「もう! 口は動かさんでいいです。彦爺ひこじいを、ちゃんと寝かせられるように手伝って下され!」

「すまん! ああ、分かった」

 彦爺(ひこじい)の顔には熊の歯型が残り、右脚の脚絆(きゃはん)の上から、ちぎり取られたような三本の爪痕があった。床に下ろす際に戸板を傾けると、板に溜まった血が床に滴り落ちた。

「布団に寝かせる前に裸にして! 男んしゅうで着物を脱がして、早く! 骨が折れていたり、打身とかを見るんで、さあ早く!」

 オミヤの指示に、周りの男たちが機敏に応じた。だが、俊蔵は戸板に手を添えているだけであった。

「誰か、ロウソクを持って来てくだされ!」

そう言われても、俊蔵には勝手がわからない。

「あ〜おれは、お湯を持って来る! さらしをお湯に漬けて、気付け薬で拭くから!」

 オミヤは、俊蔵の話をまたも無視して家の奥に向かって叫んだ。


●五 戸惑いの中で

「父さま! 着物脱がしたら血止めの薬草玉を頼みます!」

「ああ、分かった! 骨の添え木はあとでいいか!」

「そうですね! 血が止まってからの方がいいと思います!」

 庄やは、奥の神棚から神事用の燭台にロウソクを乗せ、袱紗(ふくさ)に入った薬草玉を持って来た。その動きが目に入っても、俊蔵の手は血まみれの戸板を掴んで離さなかった。

 それから、夜通し彦爺(ひこじい)の看病が続いたのである。朝の訪れに気付いたのは、昨日の鳥たちの鳴き声に気付いてからであった。何とか手は尽くしたものの、さすがに出血が多く容態は一進一退が続いていた。

「このままでは、どうなるか分らないし、うちらだけで今日も徹夜していたら無理がある。俺が何とかするすから城下まで運んでいかないか!」

 俊蔵は、城下への搬送を具申したのだが、その途中で容態がどうなるかは分からない。それにも係らず搬送を意見した背景には、藩医の下で働く気位と自分の実力への不安があったからである。

 一方オミヤは、今後の手当ての処方を迷っていた。しかし彼女はこう言ったのである。

「はい! 分かりました。ここにいても助からんときは助かりません。それでは、言われたようにいたしますが、青木様! 子どもの頃とおんなじ話し方に戻られて、私も落ち着きました!」

 俊蔵はオミヤのこの一言に、一気に肩の荷が下りた気がしたのであった。

「ええ、覚えていたのか!? もう忘れたかと思った」

「いいえ! 看病の途中で、もしかして俊蔵さんかと思いました。でも、こんなにご立派になられて! あれから、何年ぶりですかねぇ!?」

 オミヤのその言葉に、俊蔵の中のオミヤとのある思い出が刺さるように思い出された。


●六 初恋の相手(回想)

 もともとこの長岡の山間部には、雪深さによる日照の関係か渡来土着の影響なのかは判らないが、肌が透き通るように白く、髪が茶色で手脚の長い異人のような者が稀に生まれ育つのである。そして、その何百人に一人がオミヤなのであった。

 オミヤは、その者の特徴である賢さと体格に恵まれ、幼い頃から庄やの家に奉公に出されていたのである。また更に、青木俊蔵の家のある村松郷の大橋家に、十三の歳までしつけ、読み書きの見習いに出されていたのであった。

 オミヤは、その期待に違わぬ器量良しで、村松でも周りの注目を集め、同じ村の俊蔵とは自然に互いの存在を知るようになっていたのである。


◇勝覚寺(学び処)

 それは、オミヤ十二歳の夏の事であった。

 村では勝覚寺という山寺で、身分に関係なく子供に読み書きを教えていた。

「和尚さま、明日、私たちは読み書きをせずに、川に魚を取りに行くと言われましたが、わたくしは泳げません。ですので見ていてもいいですか?」

「オミヤ! おまえが泳げんとは不思議じゃのう! 他は何でも男まさりなのに。だが、そのうち泳ぎも上手くなるはず。心配ないわ!」

 じつは、オミヤは山古志の生家にいた頃、サワガニ取りに行って、凍るような水の中に落ちてから、泳ぎはおろか川に近付くこともはばかられたのであった。


◇太田川の川遊びで

 オミヤの周りには、何人かの女友だちが遊んでいた。

「オミヤちゃん! 泳げないの? 足着くとこまで来てみれば。気持ちいいよ!」

「うちらが見ていてやるから、大丈夫だよ!」

 魚取りに夢中になっていた男の子たちは、少し上流で稚鯉(ちごい)やハヤを取るのに大声を上げていた。その下流の砂の丸みをおびた浅瀬に、女の子らが遊んでいたのだった。水は地下から砂地を通して湧く清水が、夏の日差しで丁度いいぬるさになっていた。

 オミヤはおそるおそる水に近づいた。

「うん! わかったから、怖かったら直ぐに誰か助けを呼んでもいい?! いま行くからね」

 オミヤの入る川の水は気持ちよく、しばらくは仲間と楽しく話しをしていたのだが、突然、水かさが増し始め、子供等は一人また一人と川から上がり始めた。先に上がったオマツが叫んだ。

「オミヤちゃん! あぶないからねー、はやく上がれってば! はやく、はやく!」

 しかし、山育ちのオミヤは、上流の夕立の雨が水かさを増すのだという考えはなく、周りの動きに気づかずにぼんやり川に浸っていたのである。

「何すればいい? いま上がれって言ったの?!」

 オミヤが気付くと、すでに水は膝上まできていて、彼女の足運びは重くふら付いていた。

「誰か、助けを呼んでー!」

 オミヤはそう言い放った瞬間、石に足を取られ水の流れに飲み込まれてしまったのである。子供らは、助けを求めて大人を探した。そこに偶然にも俊蔵が通りかかったのであった。

「俊蔵さん! 俊蔵さん! オミヤちゃんが流された」

「大橋様のところのか?! 分かった。いま行く!」

 俊蔵は、村をつなぐ橋の上から川岸を走って、子供らが指差す方に走った。すぐさま溺れるオミヤを見付け川に飛び込んだのである。

「力を抜けって! だめだ、抱きついたらオレも溺れる!」

 オミヤと俊蔵はそのまま流され、村外れの川幅が広がった浅瀬まで流されて行った。そして俊蔵はオミヤを抱きかかえながら岸に上がると、オミヤは気を失って息をしていなかったのである。

「ああー! オミヤちゃん。オミヤちゃん!・・・・」

 オミヤの顔は血の気が引き、青白く見えた。何度も名前を呼び続けたが手足は冷たく体に力は無い。俊蔵はその後の記憶が頭に焼き付いていたのである。

「あっー-、死ぬな! オミヤ。和尚様がこうしろって!!」

 咄嗟に俊蔵はオミヤの鼻を摘んで、唇を重ねて息を吹き込んだ。すると、何度か繰り返すうちにオミヤは水を吐き出し、顔色が青から雪の白へと戻ったのであった。

 その後オミヤは、村から駆け付けた大人たちに背負われ、無事に大橋家に戻ったのだが、誰が助けに川に飛び込んだのか、口うつしされたかなどは全く覚えがなかった。ただ、水の中で溺れる自分に、力を抜けと言われたその声だけが耳に残っていたのである。そして俊蔵も、オミヤを助けたときのことを誰にも語らなかったのであった。


●七 二人の距離

 彦爺(ひこじい)の手当ては、ひととおりの事をやり切っていた。

 一息ついたころ、俊蔵はオミヤの今の暮らしぶりが気になった。飾り気のないその姿に、色白で茶色の髪が特徴的で、顔は以前にもまして美しかった。そして、オミヤが行った応急の止血については、誰かの手ほどきによるものと思えたからである。

「オミヤちゃん! あっ、いやオミヤさん。この医術はどこで学ばれたのですか?」

「あっ、これですか! 見よう見まねです。村の長老様やいろんな方々からの聞きかじりです!」

 オミヤは、俊蔵のこの質問にあらかじめ答えを用意していたのである。この、いろんな方々の中には、俊蔵への遠慮が含まれていたのであった。

「そうですか! いや、手慣れたものだと感心いたしました」

 オミヤは逆に、ここで俊蔵に再会してから、彼の身分と役回りに配慮しなかったことを後悔していた。

「もう、無我夢中で! ほんとうに失礼いたしました。俊蔵さまと一緒に遊んでいただいていた頃は、あなた様は何でも、人よりお出来になられたことを覚えております!」

「いや、オミヤさんだって泳ぎ以外は、何でも男まさりだったでしょう!」

「えっ!? 泳ぎは村松では一度しかやっておりませんけど」

 俊蔵は、口にしたことを繕うすべもなく、恥ずかしげにオミヤとの目線を切った。するとオミヤはそれを見て、俊蔵が子供の頃に溺れた自分を助けてくれたと感じ取ったのである。しかし、この二人のちぐはぐな話は、思わぬ方向に転じようとしていたのであった。

 庄やの声が、夜明け前の深閑とした屋敷に響いた。

「さあ、出立のご準備を!……オミヤ! 道中で必要な物を背籠の中に。男衆は木の切り出しの荷車に彦爺(ひこじい)を載せて行く!」

「はい、父さま!」

「では! 私は何を?」

「それでは! 青木さまは一足お先にお立ちいただいて、御城下で彦爺(ひこじい)の手当をしていただけるお医者様を用立てていただけませんか。あっ、それから熊胆(くまのい)を忘れんで下さいませ!」

「はい! わかりました」

 俊蔵は直ぐに支度を済ませ、口に干し柿を頬張りながら庄やの家を後にした。


●八 作五郎と

 下りの坂道には朝霧がかかり、山に反射した朝日に輝いていた。キジバトの鳴き声がどこからか聞こえ、彼の耳に好天の兆しを伝えた。

 庄やの屋敷からしばらくは、霧の流れに乗って坂を下りたが疲れは膝に来た。途中で湧き水の石の座面に荷物を置き、顔の眠気を冷たい水で飛ばそうとしていた。竹筒に水を詰め、最後の干し柿を口にほおばるとまた眠気が差してきた。気持ちを切らさぬようにと、座面に置いた荷物を振り回すように背負ったところに作五郎が現れた。

「お待ちくだされ! しばらく、しばらく。俊蔵様!」

「おー、作五郎! 霧で見えなかった」

「いや、心配いたしました。昨夜、お戻りになられませんでしたもので!」

「すまない! 詳しくは歩きながら話す。先を急がねば!」

「はい! 握り飯はお食べになられますか?」

「おう! 食べる」

 作五郎は青木家の奉公人で、昨夜から戻って来ない俊蔵を心配して、夜明け前に村松郷を出て迎えに来たのであった。俊蔵は、昨日からの状況を歩きながら彼に話した。

「それは、大変でございましたな! どうりで、上り坂でも誰も見ませんし、もう心配で、心配で!」

「いやー、すまぬ! 作五郎」

「では、このまま御城下に行かれますか?」

「ああ! 私はそうするつもりだ。わるいがお前は馬を仕立てて、私の後を追ってくれ! 私に追い付いたらその後は、私がその馬に乗るのだ!」

 俊蔵の機転は冴えていたが、少なからずオミヤの医術の見事さを意識していたことは言うまでもない。

「ああーなるほど! それは名案ですなー。このまま私と二人で城下に行ってしまえば、お父上や母上様がまた心配されます。とは言え、家に戻って馬がいなければ遅れてしまう……この私が仔細を説明してから、馬を仕立てて後を追う。そうか、さすが俊蔵様だ!」

「もう、あまり褒めるな! 彦爺(ひこじい)の命が助かってからだ。それに、私より急な事態にしっかり動ける者がおった!」

「ええ! それはいったいどなた様でございますか?」

「オミャっ、いや誰でもよい! 先を急ぐぞ」

 作五郎は俊蔵の話を聞くにつれ、俊蔵に焦りのようなものを感じていたのだった。

 二人は、その後一度も休まず山古志からの下り坂を降り切った。春先の山の夜明けは吐息が白くなるほど寒く、朝日を浴びるとその白さが際立った。山影から平野の田んぼの緑が村松郷の斜面の家並に重なったとき、すでに太陽は山の上に顔を出していた。



第二章 真逆の指示

●一 高野と若林

 ちょうど、俊蔵と作五郎が村松郷にかかる橋を渡りかけたとき、藩医の西野が俊蔵の安否を心配して山越に向かわせた、高野と若林の姿が目に入った。

「青木、おーい、青木! どうしたのじゃ?!」

 高野の声が聞こえた。安堵の気持ちを伝える明るい問いかけだった。それに、若林が続いた。

「心配したぞ! 西野様のところに今朝、急に呼ばれてお前がまだ戻らぬと」

「すみません! ご心配をおかけして」

「見たところ、無事のようだな!?」

 高野の無事を確かめる言葉を打ち消すように、俊蔵が叫んだ。

「はい、わたくしは大丈夫ですが猟師の彦爺(ひこじい)が熊に襲われたようで!」

 俊蔵のこの一言で、両者のやり取りは控えられた。高野と若林は橋を渡らずにそのまま俊蔵を待っていた。

「お二人は、西野様のご指示で?」

「そうだ! おれと、若林が呼び出された。で、彦爺殿(ひこじいどの)の怪我の具合は?」

「はい! 脚と顔に(かみ)キズと爪のキズがあり、血がかなり出て! それでやっと息をしている様子です」

 高野が気まずそうに俊蔵を(いさ)めた。

「そうか、それは大変だな! おまえは子供の頃から知っているから呼び捨てにするが、あの方は殿(との)と西野様の命の恩人なのだぞ!」

 俊蔵は、この高野の一言で、城下までの搬送を示唆した判断を後悔した。しかし、すでに彦爺(ひこじい)は庄やとオミヤたちと坂を下っている頃だと思ったのである。

「えっ! そんなことは一切知りませんでした」

「まあよいわ! われらが迎えに行く。おまえは西野様に仔細を話して、どうされるかお考えを頂いてくれ!(若林)」

「はい! わたくしは、いま馬を仕立てさせて城下に向かおうと思っておりました。お二人の背にあるものは医術の道具箱ではありませんか?」

「おう、察しのとおりだ!」

「では、その馬にて山古志に向かわれませんか? 作五郎! 馬の滑り止めに茣蓙(ござ)を何枚か積んでくれ」

「なるほど! われらの荷物も馬に積むということか」

 俊蔵の話に若林は理解を示したが、高野は気が進まないようだった。

「はい、そのとおりでございます! 山古志への道は雪解けでぬかるみ、昨日は難儀いたしました。じつは、彦爺(ひこじい)を、あっ、いや! 彦爺殿(ひこじいどの)をお連れすべく、すでに何人かで城下に向かっております」

「ええ!? それはまた。だれか医者でも一緒というのか?(若林)」

「いえ! 医者はおりませんが」

 高野と若林は顔色を変えた。このとき俊蔵は、オミヤのことを言い出せなかったのである。高野は、不満をあらわにした。

「では、一刻も早く彦爺殿(ひこじいどの)を手当てしないと、大事に至るということではないか!」

「そのとおりでございます!」

 一瞬の沈黙に、雪解けの川の流れが耳について離れない。すると、遠くから聞こえた声に沈黙が破られた。


●二 父の一言

「おーい! どうしたんじゃ。なにを橋の上で話をしておる。なにかあったのか?」

 俊蔵の父の青木三右衛門が、高台の屋敷の戸口から話し掛けた。距離にして四十軒ほどはある。その声に高野が応じた。

「あーあ、青木様、ご無沙汰しております!」

「おう、おう、高野殿に若林殿も! ちょうど、母屋から出たら見えたものでなー」

 静かな山間の村は、川音に交じって人の気配や話し声がすると、木霊のように響くのである。

「父上! 彦爺(ひこじい)が熊に襲われて大ケガをされましたー」

「いや、やはり何かあったかと気をもんでおった! で、要るものは?」

「はい! 馬三頭、茣蓙(ござ)十枚、それに、縄と空き俵を!」

「うむー、なにに使うかはわからんが、もしものことを考えて馬は四頭とも鞍をつけて準備しておいた。他のものは、米倉に全部ある!」

 この、三右衛門の話しの流れを断ち切らないようにと、作五郎が事を進めた。

「あー、では旦那様! わたくしの方で準備いたしますゆえ、俊蔵様は早くご城下へ行ってください!」

 作五郎には、昨夜から三右衛門が寝ずに準備をしていたことが分っていた。高野と若林は話の中でそれに気づき、敬意をはらってそれ以上口を挟むのを止めたのである。

「では高野様! 若林様! どうか彦爺殿(ひこじい殿)のことを、宜しくお願いいたします。お気をつけて!」

 俊蔵は、高野と若林との別れ際に深々とお辞儀をした。この彼のしごく丁寧な願いぶりに、高野と若林は苦笑して、城下に向かう彼の背中を見送った。一方の俊蔵は、彦爺(ひこじい)の容態に加え、その後のオミヤのことが気になっていたのである。

 一方、作五郎は高野と若林を母屋に案内し、二人は馬に乗って山古志へと向かったのだった。


●三 藩医の指示

 俊蔵は、後で父が彼を追いかけてくると考えていた。馬の上から城の方に目を凝らすと、水田の中から急ぐ俊蔵の姿に驚いて、作業を止めて見ている百姓らと目が合った。城下が近づくにつれ、昨日からの出来事にいつになく迷う自分の想いが気になりだした。

 城内と商家の境にある藩の医術処に行くと、直ぐに城に来るようにと指示が出ていた。俊蔵は大ごとになっていることを察知して、また馬に乗って大手門に向かい城に入った。

「おー、青木! 心配したぞ」

 藩医西野も俊蔵の無事に安心したが、彼の話に顔色が変わった。

「誠に申し訳ございません! 彦爺(ひこじい)殿が熊に襲われ手当てをしておりました」

「そうか! どういう具合だ。命にかかわるのか?」

「はい! 顔と右脚に傷を負い、脹脛(ふくらはぎ)の一部はちぎりとられ、かなりの血が出ております」

「そうか! ではお前は、人と物と馬を用立ててくれ。必要なものはすべて持って行く。私はこれから殿(との)と主だった方に説明してまいる!」

 この西野の指示に、俊蔵は血の気が引く思いがした。自分の判断と西野の指示とが完全に違っていたからである。彼は責めを覚悟して(ひざまず)いた。

「まことに申し訳ございません! 何人かの者ですでに山越から城下に向かっているのですが」

 これを聞き、西野の態度が一変した。

「なんだと! 青木。出血の者をみだりに動かしてはそれこそ命とりだ。そう言うことも踏まえて、高野と若林を山越に向かわせたのだぞ!」

 西野は、自らの指示の甘さを悔やんだ。

「まことに申し訳ございませんでした!」

 土下座する俊蔵に、西野の判断は早かった。

「もうよい! 切り替えろ。準備を怠るな!」

「はい、直ぐに!」

 俊蔵は、この指示に従い第一陣として医師四人と足軽、馬番らを仕立て、自分を含め総勢十一人で山越に向かったのである。それから遅れること二刻、西野と藩主の牧野が二十人を従えて山古志に向かったのであった。


●四 伯父一衛門

 俊蔵たちは、ちょうど太田川が右に蛇行する田んぼの中にある集落に着いた。

「一旦ここで休憩いたします! これから山道に入ると雪解けで道がぬかるみ、馬が足を取られます。滑り止めや食い物をここで準備いたします」

 俊蔵の指示で止まった場所は、村松郷の手前の摂田屋(せったや)という村で、父の三右衛門の兄の一衛門の屋敷がある。彼は、城下に向かう途中で、父の機転で必要なものをそろえ、一衛門の家で待っていると思ったからである。その読みは見事に的中した。

「父上!」

「おう、やはり来たか! 先に城からお前が寄るかもしれないと知らせがあった。西野の指示だと言っていたぞ」

「そうでしたか! これから山に入ります。馬に水、それと滑り止め、騎乗で食えるものをお願いしようと思っておりました」

 二人が話していると、そこに必要品の手配を終えた一衛門が加わった。

「おう、俊蔵! 大変だったなー。さー、みなさん屋敷の中へ!」

 一衛門の屋敷は摂田屋の城下寄りにあり、青木家の本家に当たる大屋敷である。青木家は、代々続く長岡藩の酒や味噌などの調達番であり、第一陣を休ませる場所としては余裕であった。

「俊蔵! 三右衛門から聞いたぞ! それで思い当たるものは準備した。必要なものがあれば言ってくれ!」

「伯父上! 急な用立てにもかかわらず、ありがとうございます」

「なんじゃ! お前らしくもない。ほかに何かいるのか?」

 俊蔵の、いつにない遠慮がちな言い方に一衛門が問うと、彼は予想外の物を口にした。

「あのー、訳は申し上げられませんが、伯母上の着物一式と仕事着の袴をお借りできませんでしょうか」

「むむ! いつもながら変わったことを言うな。何に使うかわからんが、すぐに言っておく。お前のことだから考えがあるのだろう!」

 そのとき俊蔵は、オミヤの身なりを意識していた。彦爺(ひこじい)の容態の如何にかかわらず、いずれ藩医の西野に会わせたいと考えていたのであった。

 三右衛門が馬に乗るのを見て、俊蔵は合図をした。そして一衛門は、その俊蔵のぎこちなさに不自然さを感じ取って見ていた。

「では、みなさん出発いたします! 伯父上、お世話になりました。お借りしたものは、後日お返しに参ります!」

「ああ、いつでも良い! みなさま、どうかご無事で、お気をつけて!」

「では、兄上! 後日また」

 三右衛門も同じく、息子のいつに無いぎこちなさに、兄、一衛門に念を押すような挨拶を口にしたのであった。

 こうして一行は、一衛門の家をあとにして一旦村松郷に向かったのである。


●五 彦爺(ひこじい)との縁

 道中、俊蔵は父の三右衛門に気になっていることを聞いた。

「父上! 急を要するときに聞くべきものではありませんが、どうして彦爺(ひこじい)は、わが殿と西野様から特別に思われているのでしょうか?」

「おう、そうか! お前は知らなかったのか。いや西野と近しい間柄だから聞いていたと思っていた! そうだなー、あれはお前がまだ元服前。ちょうど十二歳のときだ。殿が山古志に鷹狩りに行かれて、馬から落ちて怪我をされてな! お前も知ってのとおり、山道は滑りやすい。その時に手当をしたのが、彦爺(ひこじい)なのだ!」

「そうでしたか! でも、その話は、初めてでございます」

 三右衛門は、これまでの複雑な経緯に加え、そのとき俊蔵が何を思って質問したのか分からなかったので、話の核心に触れなかったのだった。

「そうか! たしかに殿とののお怪我の話と西野の判断のことなので、知っている者は少ないかもしれないな」

「もしや、あのときですか!?」

 俊蔵は記憶をたどった。その記憶を、父の言葉がさらに確実にした。

「ああ! あの時おまえは、城から呼ばれたと言ったら、急に駄々をこねて大変だったぞ!」


【回想・俊蔵(十二歳)】

「父上! もうイワナ釣りの支度が出来ております。わたし一人では行ってはなりませぬか?! わたしは、もう大人です。いいではありませんか!」

「だめだ、絶対に行ってはならん! 道に迷うし、熊に遭うぞ。山を舐めてはならん! あー、父はこれから城に行って、藩医の西野殿と一緒に山古志に行くのだ。イワナの居場所を聞いてくるので家で待っておれ!」

「いやです! ちゃんと約束したではないですか」

「もう、大人なら駄々をこねるな! 大事な方が山で怪我をされて、一刻も早く助けに行かねばならんのじゃ。土産を買ってくるから、おとなしく母と待っておれ!」

「いやです! では、わたくしも一緒にまいります! 山古志にはイワナが沢山います。父上もそう言われたではないですか!」

「あー、わかった! この役目が終わったら、休みを頂きお前と行く。それでどうじゃ!」

「えっ! それは本当ですか? わかりました。では、家でお待ちしております」

【回想終了】


「あー、そうでございました! 思い出しました。父上!」

 俊蔵は、村松郷まで父と並んで馬に乗り、昔を思い出していた。それは、怪我を負った彦爺(ひこじい)と初めて会った思い出にもつながることだったのである。

「わたくしが、彦爺ひこじぃのところに初めて行ったときの話ですね! あれが殿(との)のお怪我のときの話ですか?!」

「ああ、そうだ!」

「それで、家に戻られてから、わたくしと一緒にまた山古志に行かれたのかー! そうでしたか」

「ふむ! 懐かしい話だ。まさかお前とこうして馬に乗って、並んで話すとはなー!」

「そうですね! 彦爺(ひこじい)と初めて会ったのに、一緒にイワナ釣りに行ったり、サワガニを取たりいたしました」

「そうだったな! あのときは、殿(との)のお礼に庄やのところや村の人に挨拶に行った。そしたら、逆に持てなされてな! それからの縁じゃ」

「ほんと、そうでした! わたくしも覚えております。懐かしいです!」

 三右衛門は、その後の話に立ち入られないように俊蔵に別の話を切り出した。

「あっ、うっかりして忘れておった! ところで、そろそろお前も嫁を取らんか?! 大橋様から縁談の話が来ておる」

「いや! せっかくのお話ですが、わたくしはまだ修行の身。江戸や京都でもっと医術の腕を磨いてからにしとうございます」

「あーそうか。なるほどわかった! こんな大事な時にすまなかったな」

「いえ! 大橋様にはよろしくお伝えください」

 三右衛門は俊蔵の断り方に、ほかに意中の者がいると思い、詳しいことを話さなかったのだった。

 日は高くなり、春先にしては馬上の者の背中に照り付けていて、何人かが頭に傘をかぶっていた。



第三章 初文まで

●一 難所越え

 一行は、村松の橋のたもとで三右衛門と別れ、山道に向かった。

雪解け水が谷に向かって道を横切るぬかるみには、馬の蹄の跡が残っていた。すでに何枚かの茣蓙(ござ)が敷かれ、一行は、その踏み跡に沿ってゆっくり泥と落ち葉が積もった坂道を進んだ。所々に馬から下りて歩いたと思える二人分の足跡があり、先に山越に向かった高野と若林のものだと分かった。

「みなさん! 馬が足を滑らせます。姿勢を低くするか降りて歩くかはお任せします。降りても転ばぬようにしてくださーい!」

 俊蔵がそう言った矢先、一頭の馬が転びかけた。さいわい転ばずに済んだが、道は左が太田川の切通しで、崖に落ちれば助からないと全員が息をのんだ。

「では、ここでいったん休憩します。馬がかなり疲れておりますので!」

 難所の急坂を前に俊蔵がそう言ったが、一行の中には元気よく言葉に応じる者は無く、上りの道の険しさに疲れを滲ます者ばかりであった。

 目に飛び込んだ急坂は、右から左、そして右へと二回の折り返しがあることが落石跡で知ることができた。上り口からは緩やかに上がるが、どう見ても最初の折り返しまでの間に転ぶと、下まで落ちる角度だと分かる。そして、目安の距離が立看板に書いてあり、その折り返しまで五十間あるというのだ。

意気消沈の様子を見るに見かね、足軽の五平が先に馬を引いて歩き始めたが足元は悪い。

 五平は、壁のような急坂に差し掛かり振り返った。

「青木様! 坂の上に馬らしき影が見えませんか?」

 この五平の声に促され、俊蔵は目を凝らした。

「どのあたりに?」

 一行の上役の高橋がこれに応じた。

「あー、見える! 坂の折り返しの、ちょうど一番うえの木のあたり。いま馬がこっちを向いたぞ!」

「高橋様! わたしが呼んでみます」

 そう言って、五平はゆっくり高めの澄んだ声で「おーい! おーい!」と叫ぶ。すると、少し遅れて「おーい! おーい!」と木霊が帰ってきた。まるで、ほかに誰かが呼んでいるように聞こえた。

「いまのは、木霊(こだま)でございます」

 俊蔵の話に周りは笑った。

 しばらくして、「おーーい!」と一回だけ低い声がした。明らかに別人であると気付かせるように声に特徴を加えていた。

「青木! 誰かいるぞ。五平! 滑らぬようゆっくりでいいから、馬を連れて先に行ってくれ!」

 高橋は、ほかの者に士気を促し、一行は上り始めた。

「はい! いま裸足になります。このほうが転びにくいので。田んぼと一緒の感じでございます!」

 五平は草鞋(わらじ)を脱いで巾着にしまい、腰ひもで裾まくりをして馬を引いて坂を上った。道は真ん中がぬかるんで、崖に近い端に固さが残ることが判っていたのである。そして五平は、間違えれば命が無いというような場所を、馬とともに一気に上り切った。

「たかはしさまー! ここに、たかの、さまーがー! けがをー、されってー! よこにーなって、お、ら、れ、まーす!」

 五平の澄んだ声に一行は直ぐに上り始めた。そして、まもなく鎖骨を折って動けなくなった高野を見るのである。

「おい高野、どうした! しっかりしろ」

 高橋は高野を抱き起した。二人は藩医西野の門弟で、同い年の親友である。

「痛い! やめろ、高橋! 痛い。鎖骨が折れておる」

「あー、すまぬ! では、息はできるか?」

「ああ! ゆっくりならできる。話すと痛い」

「よし! では、わしが問うたら少しでいいから首を動かして返事をしろ」

 高野は小さく首を縦に振った。そして、高橋の問いによってその状況がつかめたのであった。俊蔵は、高野が馬に不慣れであると知らなかった。

「すみません! わたくしが馬を使って行くようにと言ったばっかりに、高野様が怪我をされて」

「いいや、青木! この程度では医者は務まらんぞ。人の生き死にをこの手で受け止めねばならん! さいわい、高野は命に差し支えあるまい。添え木と肩に腕止めの(さらし)を巻く。手伝え!」

「はい、直ぐに!」

 こうして一行は、鎖骨を折った高野を連れて、最初の折り返しからさらに上の折り返しに向かい、最後の緩やかな上りを向かえて一息ついた。

「みんな! ここまで来れば大丈夫。休みを入れる」

「はい、高橋様! この先の坂を下ると湧き水があります。もう少しです!」

 俊蔵の一言が先を急がせた。

「ああ、分かった! 休憩は各々にまかせる。早く水を飲みたいものは先に行って良い!」

 高橋の指示に、五平と馬番の太助を残し、他の者は歩き出した。二人は鎖骨を折った高野の馬を引いていたのである。


●二 現状を見て

 急坂の後の坂を上り、その後の下りになってしばらく行くと、棚田と畑の間に湧き水が見えるはずである。そう言うつもりで、俊蔵は先頭に立った。すると、その目に飛び込んだのは疲れ切った若林の姿だった。若林は、すぐに俊蔵を見付けて立とうとしたが、腰が砕け、ふたたび座面に腰を下ろし、声を振り絞った。

「あー、すまない! 山道をなめておった。もう歩くに歩けぬ! 申し訳ないがここで休んでいた」

 全身が泥にまみれた若林の姿に、何度も馬から落ちて転がったことが分かった。

「若林! おれも舐めていた。これは、ゆうに一日仕立てで来る道のりだ! 青木に案内してもらわなかったらまともには着けなかった」

「高橋! おれはだいじょうぶだ。高野は連れてきてくれたか? 鎖骨を折っていたはずだ」

「ああ! もうじきここに来る。ちゃんと肩を固定した。安心しろ!」

 若林も高橋と高野の同い年で、医者になる前に藩校で一緒に学んでいた間柄であった。そして間も無く、俊蔵をはじめとする第一陣と高野、若林が湧き水で泥を落とし、息を整えていたのである。

 現状を見て俊蔵がおもむろに話し始めた。

「高橋様! ご相談いたしたいのですが」

「ああ! おれも今、この状況でどうするか決めねばならぬと思っていたとこだ。意見を申せ!」

「はい!」

 この話の後、俊蔵はこの湧き水の地で、初めてオミヤのことを口にしたのであった。

 時刻(とき)はすでに、日の傾き加減で昼を回っていたことが分っていた。強い日差しは普通の道では路面を乾かすことに繋がるが、山道では日が昇るにつれて雪解けの水が増し、道の泥濘(ぬかるみ)が歩きを妨げる。この時刻で、怪我を負った彦爺(ひこじい)の一行と落ち合わないということは、すでに引き返したか、あるいは彦爺(ひこじい)の身に何かあったか。そう言ったのである。

「青木! それで、体制はどうする?」

 俊蔵は、高橋の問いかけにこう答えた。


●三 初文(はつふみ)

「高橋様! 生意気な言い方でお叱りを受けると思いますが、ここで休みましょう。私も昨日からのことでいささか疲れました」

「たしかに! お役目とはいえ医者がこのありさまではな」

「いえ! このままでは、私が足手まといになるかもしれませんので!」

 俊蔵もまた、自分の体力の限界を感じていたのである。

「ああ! それは高野と若林を見れば言うまでもない。おぬしは昨日から寝ずの山道! わしもこれほど難儀するとは思わなかった」

「はい! それで、彦爺(ひこじい)殿には医術がわかる者が付いております。その者が仮の手当てとして、血止めの措置などをやりました」

「ほー! それは良かった。で、名は何と申す?」

「あ、はい! オミヤと申します。私と幼なじみの者でございます!」

「むー、んー! 女医か? わしも以前、西野様から聞いたことがある」

 俊蔵は高橋の話に耳を疑ったが、オミヤのことに気を取られまいと体制の話に戻した。

「そうでございましたか! それで、体制は殿の御身を考え、難所の急坂を案内できる者を一旦返したいと考えます。坂道には茣蓙(ござ)や敷き(わら)などを集められるだけ集めて滑り止めにいたします」

「たしかに、それは必要だな! それで、五平とあと二人だが、おぬしは村松に戻り一旦休んではどうだ。この状況を殿(との)や西野様にお伝えすれば、予定は明日に伸びるかもしれぬ。我らもその方が助かるというもの。これから、庄やの家で手当てをしても夕方になるであろう!」

「あー、でも! これは私がまいた種。彦爺(ひこじい)殿の無事を見とうございます」

 じつは俊蔵は、疲れ切った体で坂を下るより、このまま庄やの家に行きたいと思っていたのである。一方高橋は、五平の生まれが俊蔵と同じ村松であり、暗くなるのを見込んで他に無事に坂道を戻れる者がいないと思ったのであった。

「まあ、そう言うな。青木! あの着物はわしがちゃんと届けておく。オミヤさんとやらにな!」

「えっ、はあー!」

 高橋に、オミヤに用立てた着物のことまで言われ、俊蔵はなにも言い出せなくなった。それで止むなく、伯父の一衛門のところから借りてきた竹の行李(こうり)に、走り書きの手紙を入れたのである。

 『仔細問わず、この着物と袴にて身支度をなされよ』と、記しただけの初文であった。



第四章 下りへ

●一 転んで気付くこと

 体制を見直し、湧き水の場所から高橋等と別れて戻ることとなった俊蔵は、竹筒に水を詰め、座面に腰を掛けて足元の泥を落とした。五平と、馬番の太助の三人で上り切ったばかりの坂道を下るための策を考えていたのである。しかし、彼の心は切り替えられなかった。

「太助! すまぬが、余った茣蓙(ござ)を我らの馬に乗せ換えてくれ。下りで使うつもりじゃ」

「はい、すぐに! 馬に水を飲ませてから、下りの準備をいたします」

「ああ、頼んだぞ!」

 太助は、腕利きの馬番である。俊蔵が子供の頃に馬の扱いを習った間柄であった。

 三人は、山の日暮れの早さを考え、高橋等を残してすぐに湧き水の地を後にした。歩き出すと彦爺(ひこじい)の家に通じる上りの脇道と、難所の急坂に向かう緩やかな上りが二股に分かれていた。俊蔵は彦爺(ひこじい)の家の屋根が見えることを知っていたが、わき目もくれず坂を下って行った。

 三人とも、馬を引いて雪解けの坂道を下りるのは初めてである。しばらく緩やかな下りだったが、その難しさは直ぐに判った。

 難所の急坂を前に、先頭を行く太助が途中で足を滑らせ、馬の前で転んだのである。馬は一旦止まり掛けたが、太助を踏むまいと軽く飛び越え、勢い余ってそのまま先の木立に突き進んだ。太助が後ろの二人を気にして、振り返った瞬間の出来事であった。

「あぶねーかった! すいません。大丈夫です。ちゃんと足元を見ていねーとこうなります」

 後ろの二人は、おのずと慎重にならざるを得ない。馬は三頭とも太助が面倒を見ていたこともあって、怯えることもなく落ち着いて見えた。しかし、間違いなく地面は雪解けの水で泥濘(ぬかるみ)が増えていたのである。

「もう、肝を冷やしたぞ! おまえが怪我をしたら馬の面倒を見る者がいない。いや、そうではなくて怪我をしてはならないお役目だ!」

「青木様! そのとおりです。三人で無事に下り切りましょう。それも、まだ明るいうちにです!」

「いやー、五平さんの言うとおりだ! いま馬のところに行きますんで」

 太助は、木立の中まで馬の足取りを真似て下りて行った。その歩き方を見ていた俊蔵が頷いた。

「なぁ、五平! 太助は馬と同じ下りかたをしていたではないか。おまえもやってはくれぬか?」

「ええ!? 俊蔵様。木立の中には危なくて行けません」

「そうではない! 小走りに勢いよく下る。そして、ゆっくり平らなとこで止まるのだ。馬は体が重いので木立まで行った。人なら手前で止まる。どうじゃ、やってはくれんか?」

「はい! では、この馬はどうされますんで?」

「下の太助に、木立のところに呼び寄せるようにさせて、転ばぬように止める。これも馬番だから出来るというもの!」

 太助は、俊蔵の話に手を振って応えた。

「あー、なるほど! 俊蔵様、よく聞こえました。あとは、五平さんが無事にここんところで止まれれば出来ますなー」

「おい、太助! おまえは転んでも、わしは転ばぬ。先に馬を行かせるから頼んだぞ!」

 こうして三人は、坂の途中で勢いを緩める手ごろな場所を探しつつ、難所の急坂に差し掛かったのである。


●二 難所を前に

 急坂を前に、三人は俊蔵の言った下り方を試そうと考えたが、どうみても勢いを緩められるだけの場所が見付からない。五平は、足軽の自分が先に行くものと考えていた。

「どういたしましょう? 俊蔵様!」

 一方、太助も馬番として何とか馬を使って先を急ぐことを考えた。

「ここに馬を置いていくにしても、下ってからの二里を考えたら馬の方がはるかに早い。けど、行ってくれるか?……」

 俊蔵は、二人に明るく答えた。

「判らん! どうしたらよいか判らん。こんな時はだな…」

「ええ!? 何かお考えでも?」

「五平! あれば直ぐにお前に頼む。こういう時は、焦らず、騒がず、欲張らずじゃ!」

 太助は、俊蔵の思わぬ言葉に、確認の意味を含めて馬番の役目をはたそうとした。

「これでは、馬がちゃんと言うことを聞くか分かりませんや! とりあえず、連れて来ますんで」

 そう言って太助が下り口まで馬を引いてきたが、馬も解っているようで坂に近づこうとしない。

「やはり、無理か?!」

「へえ! 怖がる馬を行かせても、足を痛めたらどうしょうもありません! それに、日暮れまでに着きませんと」

「ああ! 分かっておる」

「やはり、この坂もそうですが、怪我人を運ぶのはかえって命取りに!」

「ああ! それも、分かっておる。五平の言うとおりだ」

 俊蔵は坂の上で腕を組み、胸のつかえを吐き出した。五平と太助に昨日のオミヤとの話を切り出したのである。それは、たしかに淡い恋心ではあったが、人の命を預かる医者として恥じる以外のなにものでもない。そう言ったのである。

 五平と太助は、俊蔵の意外な話に一瞬顔をしかめたが、急に緊張が解けたのか、こんな話をしたのだった。

「そのことは、俊蔵様の胸にしまっておいて下さい! ご一緒すると聞いて、太助と二人で馬に乗る稽古をしておりました。足軽も馬番も、めったに馬には乗りませんので」

「あー、五平さん! なにもこんなところで言わんでも。たしかに世話はしますが。このように危ないところでは、乗りはしませんや!」

「いやー、二人ともそんなふうには見えなかったぞ!」

「それで、どうなさいます? やるだけのことはやってみますか!?」

 五平の覚悟の一言に、三人はその後、同じように腕を組んで黙り込んだのだった。

「うむ! やるだけのことか……」

 俊蔵に、オミヤとのことが再び思い出された。


●三 後悔

 その頃、庄やの家では彦爺(ひこじい)の意識が戻っていた。とは言っても、薄目を空けて吐息のように小さな声で一言、二言が精々である。傷の血は止まったが、怪我を負った右脚の腫れは明らかに切除の程が感じられるものであった。

「父さま! わたしが余計な気を使ったばっかりに」

「オミヤ! もう悔やんではならん。しっかりするのだ!」

 じつは、俊蔵が城下に向けて出た後、庄やとオミヤたちは、材木用の荷車に怪我を負った彦爺(ひこじい)を乗せて、途中まで行って引き返して来たのだった。

 世話役のゲンジが、その引き返しの判断を下したのである。

「オミヤ! おれ等は、湧き水の先の坂の怖さを知っている。綱で車をゆっくり下ろして、下り切るまでにはまる一日だ。前に材木を運んで、みんな分かっている!」

「それは、分かっておりまする。父さまから何人も怪我をされたと聞いております。わたくしが、俊蔵様に運ぶとお答えしたのが間違っておりました」

「だから、おれも、ちゃんと言わなかった! いや、言えなかった。お殿様のときにやれて、彦爺(ひこじい)のときに出来ませんとは! 俊蔵様は、あの下りをご存じかと思っていたんだ」

「ええ! あの時に運んだ人は、お殿様?! その話は知りませんでした」

 オミヤの驚く顔を見て、庄やが割って入った。

「ああ! おまえが村松の大橋様のところに行く前のことだ。彦爺(ひこじい)とおまえが、怪我をされたお殿様を助けたんじゃ!」

「ええ、あのお方が!? 聞いておりません」

「あのとき、おまえの賢さを見られて、お殿様から見習いに出すようにという話になった。だが、いろいろあって、詳しくは言えなかった。もう、そのことは後でゆっくり話す!」

 庄やには、未だオミヤに内緒にしていたことがあったが、彦爺(ひこじい)の手当てに集中させたかったのである。ゲンジもまた、それを察していた。

「そうだよ! 早くしねえと」

「オミヤちゃん! ぐずぐずしていたら脚を失くすだけではすまんよ」

 ゲンジとオカヨに促され、オミヤは必要なものを次々に指示した。その顔つきには、後悔の想いは残っておらず、別人のように集中しきっていた。


●四 切り替えの妙

「ゲンジさん。畳を重ねて!! そこで切るから」

「分かった! 十枚重ねにして戸板で囲う。暴れても落ちないようにな。後は?」

「上に布を掛けたら、床の間の槍を研いでください! 片側だけでいい。それをアルコホールに浸して!」

「ああ! いま研ぐから。槍の受け台は囲碁盤を使えって庄や様が言った。盤の足に紐をつけて支点にするってよう!」

「分かりました! では、盤に熱湯かけてアルコホールで拭いて。あと、紐は伸びん物を使って。槍の先にも布を巻いて、紐をぐるぐる巻いて!」

 この指示は、畳を手術台代わりに重ね置きし、大槍で彦爺(ひこじい)の脚を一気に切り落とすものであった。そのために囲碁盤に脚を乗せ、槍先を支点に梃子(てこ)の要領で瞬時に切除する。これに時間をかけると激痛でショック死することを経験的に解っていたのである。

 庄やが、さらに傷口を焼く話をした。

「血止めはやはり焼くしかないか!? 炭ツボと長火箸(ながひばし)は用意した。あと油紙も」

「はい! 焼きます。その後は、アルコホールと薬草玉の液に浸した布で覆ってサラシで巻きます。血が止まらんかったら、もっと焼きますんで炭を多めに!」

「ああ、分かった! 槍の準備が出来たら、畳の上に移す。頼んだぞ!」

「はい! あっ、父さま。駄々こねて、ほんに、すみませんでした」

 庄やは、オミヤの顔を見て俊蔵の意に沿えなかったことへの想いを感じ取った。

「ああ! 久しぶりに怒り顔を見れたで。おまえも女らしくなったの!」

 そのとき突然、悲鳴が聞こえた。

「キャー!! 庄や様! 庄や様! 大変ですわー。こっちに!」

「どうした、オカヨ!?」 

 突然の騒ぎに、庄やは庭先に向かった。

「おー! 近寄るな。ゆっくり下がれ! ゆっくりだ」

 悲鳴を聞き付け集まった男たちが、庄やの声に従った。


●五 息絶えた山のぬし

 なんとそこには、熊が傾斜畑から荒い息をしながら落ちていたのであった。その足跡から、茂みに戻ろうとしたらしいが、斜面に足を取られて滑ったようで、尻には泥がへばり付いていた。

「仕方ねえ! 槍を持ってこい。あとは、近寄るな!」

 庄やは、熊と彦爺(ひこじい)との因縁を察知した。じつは、その熊は『山のぬし』と呼ばれる雄で、山越の闘牛用の牛も被害にあうような大熊である。しかし、罠にも掛からず、犬を使った山狩りでも見つからず、彦爺(ひこじい)の落とし穴に去年はじめて掛かり、その竹槍が後ろ足に残っていた。

「とう様! こっちの方が」

 そう言ってオミヤが差し出したのが、炭で熱せられえた火箸であった。オミヤが咄嗟に熊にめがけて火箸を投げると、熊は鼻を近づけ火箸を踏み付けた。その先には芋が差してあったのである。

「オミヤ、下がれ!!」

 熊は火箸の熱さに驚き逃げようとしたが、またしても泥に足を取られ転げ落ちた。その場所は、庄やのまさに目の前。

(ひこ)の敵め!!」

「父さま!」

 仰向けになった熊の胸を大槍が刃元まで突きささり、暴れる熊に槍が持って行かれそうになった。さらに庄やは槍を抜き、首筋の急所を狙って槍筋を振り下ろすと、熊の首から血が噴き出した。それが、庭の菜の花を赤く染めた。オミヤは命の絶える瞬間に目をつむり、後ろを向いた。

「下がれと言うのに!」

 熊はよろよろと庭先を動き回り、横ばいになってゆっくりと倒れた。よく見ると、前足には刀で切られたような傷があり、毛の間から血が滲んでいた。

「父さま! また、余計なことをして」

「オミヤ! こいつは手負いじゃ。ここに人を襲いに来た」

「ええ! では、この足の傷は誰かを襲ったときのですか?」

「ああ! 血が止まっていないから、そんなに経ってはいない。誰かがやられたに違いない」

 そう言いながら庄やは、熊の心臓めがけて止めを突いた。

 その後、ゲンジとオカヨは近くの村の男たちに事情を話し、十人ほどが集まって熊の足を丸太に吊るし、納屋の軒下に運ぼうとしていた。

 すると、そこに泥にまみれた高橋が倒れ掛かってきた。彼は庄やの家に向かう途中の経緯より、熊に意識が行っていた。

「いったい誰が、こいつを!?」

「たんだいま! 庄や様がしとめたんです。どうされましたんで?」

 ゲンジの話しに、高橋は手をついて泣きだした。


●六 襲われた高橋たち

「あー――! こいつに襲われた」

 聞けば、庄やの家に向かう途中で高橋等は、この熊に襲われたという。道で鉢合わせになり追い払おうとしたが、熊が襲ってきて馬が暴れ、何人かが怪我を負ったというのであった。

「庄や様! 庄や様! 大変だ。やっぱり襲われていたでー。怪我人が出たって!」

 ゲンジの声に、庄やは・・・

「あの時と同じじゃって! 何人も怪我人が出た。覚悟せんと」

 高橋は、熊と遭遇した時の対応を間違えたと言った。もちろん、一緒にいた者も頭では理解していても、慌てていたため威嚇するような行動をとったと言うのである。

「すまぬが、誰か助けを向かわせてくれ。一人は鎖骨を折っておる。馬から落ちたり、転んだりした者もいる」

「それでは、みな様はあの急坂を上って!? もしかして、青木様のお話を聞いておられるのですか?」

 庄やの問いかけに、高橋は経緯を説明した。

 熊は納屋の大柱に丸太ごと吊るされていて、運ばれた軌跡に沿って血が滴っている。吊るし切りで皮を剥ぎ、解体した部位を運ぶための台車が運び込まれていた。

「それは、大変失礼申し上げました。高橋様のお連れの方は歩けますんですか?」

「いやー! 怪我は大したことは無いのだが、もう、疲れて歩けぬのじゃ!」

「ゲンジ! 聞いた通りだ。(ひこ)を運んだ車と、さっき持って来た二台で、迎えに行ってくれ」

「はい! 人もいますんで、すぐに行ってまいります」

 こうして、ゲンジは村の男たちを連れて、一行を迎えに行ったのである。


●七 彦爺(ひこじい)が残したもの

 熊の襲来と高橋等の対応に時間をとられ、庄やは焦っていた。彦爺(ひこじい)の命が熊の執念によって奪い取られると思ったのである。大槍の研ぎ直しと消毒、それに新たな怪我人の対応は脚の切除を予想以上に遅らせることとなった。

「父さま! もしものことがあればと言われて、先日、爺様(じいさま)の言うことを書き留めたものがあります」

「なんだと! (ひこ)が猟に出る前にか?」

「はい! はじめてそんなこと言われて、虫の知らせですかって聞いたら、そうだって」

「どれ!?」 

 庄やは、熱にうなされる彦爺(ひこじい)を前に、オミヤから紐止めの秘薬帳と、庄やに宛てた手紙を受け取った。

 庄やは、その手紙を読み進むと大きくため息をつき、オミヤに差し返した。そこには、オミヤの字で『自分のために他の者を危険に晒すべからず 曰く、わしはただの猟師』と書かれていた。

 その沈黙を打ち消すように、着替えを済ませた高橋が入って来た。

「オミヤ殿! 彦爺殿(ひこじいどの)のご容態は?」

 高橋は、オミヤのことを知っていたのである。



第五章 難所ふたたび

●一 やるだけのこと

 時を同じくして、急坂を前にした俊蔵、五平、太助の三人は未だ腕組みをしていた。・・・

「青木様!」

「なんだ? なにか考えでも浮んだのか?!」

「いえ! すいませんでした。つい、お名前を呼んでしまって!」

「ああ、どうでもよい! おまえが青木様という方が馴染まぬわ」

 五平は、三人で坂を下りながら俊蔵の呼び方を気にしていたのだった。

坂の斜面は、上からのぞくと木漏れ日で(まだら)に見える。山側から右片流れでいくつもの水の筋が見えた。すべて傾斜に倣ってその水跡は右下に向かっているのだが、その上に水が運んだ落ち葉が泥土を隠している。木の生え方も斜めで、坂の角度は見た目では分かりにくい。午前中の状態とは明らかに別物と思えた。

俊蔵が繰り返すため息に、太助がほくそ笑んだ。

「そうか! 村松で青木様と言えばお父上のことか。周りに誰がいなさるかで呼び方を変えんといかんのか!」

「まあ、おれも子供の頃の気楽な呼び方がよいと思うことがある」

「いや、それは俊蔵様だからでしょう! あっ、また。すいません」

 五平の呼び方に、三人の緊張が解けた。

 そんなやり取りを聞いて、太助がなるほどと思うことを口にした。

「もう、馬番のわたくしはですな! 馬の名前より乗るお方の顔と名前を覚えるのが大変で」

「ほう! それで、ぜんぶ覚えたのか?」

「ええ! 覚えましたが、ご存じのとおり同じ名字のお方が一緒のときに困ってしまいます。例えば、青木様のお父上とお二人の!」

「ああ、そうじゃな。わかる! おれも声だけ聴いたのでは間違える。伯父上たちもお互いに似ていると言われて笑ってはおるが、城で呼ばれて三人とも振り返っておった」

「はい! でも、お三方はいつも真ん中が一衛門様。左が二左衛門様。そして右が三右衛門様と決まっております」

「いや、ほんとうか? それは聞いたことがないぞ!」

「そんな、めっそうもない! こんなときにいい加減なことなど申しません」

 俊蔵は、親戚筋ということで青木家を中心とする公務の席に臨席することは無かったのであった。

「そうだな! では、そろそろ行くか」

 俊蔵の脳裏に、父と伯父の顔が浮かんでいた。

「いや! 俊蔵様。どうなさるおつもりで?」

 俊蔵は、水の入った竹筒と冬場に使うカンジキを持っていた。

「太助! 野宿は出来るか? お前と馬をここに置いていく」

「まあ、一晩くらいなら、こいつら三頭と一緒に焚火でもしております。ちょうど滑り止めに藁束(わらたば)を積んでおりますんで!」

 太助は、自分の馬の藁束(わらたば)を降ろしはじめた。

「五平、太助! 持って来た茣蓙(ござ)を坂に敷いてくれ。一枚も残すな。終わるまで、おれは寝る!」

 俊蔵は、わずかな時間を自分の休息に充てようと、藁束(わらたば)の上に横ばいになった。五平と太助は、俊蔵に何か策があると思ってすぐに作業に取り掛かったのである。馬に積んできた残りの茣蓙(ござ)は二十枚ほど。急坂の折り返しまでには一割にも満たなかった。


●二 やること

 俊蔵が目を閉じると馬の息づかいが聞こえてくる。彼は、はじめから寝ることなど出来ないと思っていた。鳥たちの鳴き声に交じって川の音が風に運ばれ、春の青臭い新芽の香りが漂っている。疲れた体に気合を入れ直す時間を彼は求めた。

「俊蔵様! できました。ご覧ください」

 しばらくして、五平と太助が坂を背に俊蔵を見ていた。俊蔵はゆっくり背伸びをして立ち上がり、坂の頂上に立った。

「なるほど。考えたな!」

 最後の一枚を残し、茣蓙(ござ)は等間隔に右左と千鳥に敷かれていた。

「俊蔵様! ちょっとカンジキをお借りして、ためしに歩いてみました」

「おう! どうであった?」

「このとおりです!」

 太助が振り向くと尻に泥が付いていた。カンジキを履くと、滑りはしないが泥に埋まって足が抜けなくなり、またも転んだというのである。そして五平も真剣に状況を説明した。

「それで、わたしも試してみたら下りも上りも思った以上に疲れます。泥がカンジキに着いて足が上がりません」

「そうか! で、最後の一枚は野宿で使うのか。山は冷えるからな!」

「あいや。そうも思いましたが! でも、この()は子供が出来たかもしれませんので、こいつに掛けてやります」

 俊蔵は微笑んだ。馬番に徹する太助が、早く坂を下りるようにと言っているように思ったからである。

「五平! 準備は?」

「できております! カンジキも持ちました」

「よし! 太助。明日には必ず戻る。馬の荒縄(あらなわ)を借りてゆく」

 こうして俊蔵と五平は、順調に茣蓙(ござ)の敷かれた途中までたどり着いたのだった。二人の背中には、丸めた何枚かの茣蓙(ござ)がタスキに背負われていた。先に敷いたものを剥がして、ふたたび使おうと考えたのである。俊蔵が下り切ると、五平が振り返って後ろに敷いた茣蓙(ござ)を剥がす。カンジキは各々の片足に付けられていて、滑りを確かめるように交互に足を出して、ゆっくりと同じことを繰り返した。

「うわーー!!」

「あー!」

 ところが、二人がその下り方に慣れを感じた頃、五平が石敷きの斜面で足を滑らせたのである。泥濘(ぬかるみ)から、いきなり石の上に足を置き滑って仰向けに転んだ。石敷きは滑りがよく、徐々に加速されて凧が回るかのように落ちていった。

「死ぬな! 五平。絶対に死ぬな!」

 さいわい途中の落ち葉だまりで止まったのだが、俊蔵は息をのんでそれを見ていた。五平の身体は頭から落ち葉に突っ込んで、上半身が埋もれたまま動かない。すると、急に風が強まり木立がざわざわと音を立てた。まるで、助けに行かぬことを責めるように俊蔵には聞こえ、目は瞬きを繰り返していた。そして・・・

「うおー、待てだと?! 彦爺(ひこじい)か? いまの声は」

 そのとき、俊蔵の耳にはたしかに彦爺(ひこじい)の声がした。これを偶然と言うべきなのかは分からない。そして、俊蔵の命を奪ってまで自分が命を長らえるつもりは無いというように、庄やの家で彦爺(ひこじい)は息を引き取ったのであった。

 しかし、彦爺(ひこじい)が残したものを知る由は、その時は無かったのである。


●三 敷いては剥ぐ

 俊蔵はようやく気を取り直し、背中の茣蓙(ござ)を一枚ずつ坂に隙間なく敷き詰めていった。しかし、五平が落ちた場所までは届く距離ではない。四枚ほど敷いて背中の茣蓙(ござ)が尽きたころ、五平の声がした。

「俊蔵様! 死ななかったみたいです。茣蓙(ござ)のおかげで手も足も、首も動きます」

「ああ、もうよい! 茣蓙(ござ)はそのために背負っているのではない」

 そう言いつつも、俊蔵は敷いた茣蓙(ござ)を一枚ずつ拾い直したのである。

「でも、こういう時はすぐに動いてはならぬと言われました。俊蔵様にです!」

「そうだな! わしも転べばそうする」

 そう言って俊蔵は、足元の茣蓙(ござ)の先に、拾い上げた茣蓙(ござ)を一枚づつ足していったのである。まさに、敷いては剥ぎ、剥いでは敷くを繰り返し、慎重を期して下りた。

 ようやく二人が石敷きの斜面を下り切ったころには、木漏れ日に夕日の赤が混じるようになっていた。山の日暮れは早く、足元は一気に暗くなった。

「すいませんでした! わたしが転んだばっかりに」

「まあ、よい! 茣蓙(ござ)のおかげで怪我もせずに済んだ。それに、背中が温かい。わしも転ぶかもしれんしな!」

 二人は、難所の急坂を月の光が照らしていることに気付かなかった。それほど集中していたのである。そして、急坂の最初の折り返しまで、ようやくたどり着いたのであった。

「俊蔵様! 高野様がおられたとこまでやっと来ましたな」

「ああ! 上りより、下りの方が大変だとは思わなかった」

 鎖骨を折った高野が痛さをこらえて助けを呼んだことを思い出していた。

「あれ!? 下に灯の筋のようなものが見えます」

「ああ! 見えた。ちょうど上り口のあたりか?!」

 暗さが増し、不安になっていた二人に希望をつなぐ光であった。おのずと、足が逸る。

「はい! しかし、ここで気を緩めては」

「そうだな! おまえが言うと、ほんとうに心に染みる」

 そう言って俊蔵が先に下りはじめ、ちょうど灯の元が陣幕の入り口にある大提灯だと分かったとき、俊蔵は声を張り上げた。

「お願い申す! 青木俊三でございます。だれかー!」

 その声は森閑とした山中に響き渡り、暫くして木霊が帰ってきたが返事は無かった。



第六章 陣屋にて

●一 火おこし

 俊蔵と五平は必死で坂を下りた。残りの力を振り絞り、泥にまみれながら背中に茣蓙(ござ)を背負って転びながら急坂を下り切った。徐々に近づく陣屋には必ず誰かが待っているという想いに満ちていた。

 道は急に広がり視界が開けた。空には星が瞬き、月が山の間から顔をのぞかせていた。

 すると、突然五平が背中の茣蓙(ござ)を下ろし膝に手を当てた。やはり、坂で転んだときに怪我を負っていたのである。

五平「もう歩けません! 体が動かねぇ。目が回ります」

俊蔵「よし! 動くな。だれか呼んでくる」

 俊蔵も茣蓙(ござ)をその場に下ろし、ふら付きながら陣屋の幕間までやっとの思いで歩きついた。しかし、人の気配がしないのである。

俊蔵「だれか! だれか! 青木俊蔵です」

 ふたたび呼んだが、木霊が返って来るだけであった。しかし、石積の焚火の痕が残っていて、少し前まで人がいた状況に間違い無かった。俊蔵は落胆し、振り返って五平を見た。五平は四つん()いになりながら、力を振り絞って俊蔵に近づこうとしていた。

「いっ、いませんか?」

「……ああ! すまぬ」

 二人は泥にまみれた顔に、涙の筋を残していた。そんな二人の体に冷たい山の風が追い打ちを掛けてくる。

「まっておれ! 焚火の痕に火種が残っておるかもしれん。提灯の火も使える」

 そうは言ってはみたが、俊蔵には提灯を取り外す力は残っておらず、這いつくばりながら陣屋の中の焚火の痕まで行った。するとそこには、火おこしに使う杉の枯れ葉と綿屑(わたくず)が置いてあった。燃え残りの枝で中を掘り返すと、わずかに(おき)が見え、思いっきり息を吹きかけると灰が舞い、俊蔵は(むせ)た。灰の中の小さな光を頼りに棉屑(わたくず)を添えて火をおこす。すると、見る見るうちに辺りが明るくなっていった。五平も、明るさを求めて這ってきた。


●二 書き置いた手紙

 二人が、杉の葉が燃え切らないうちに周りの枝や薪を火の中に入れると、目の前に炎が立ち上がった。しかし、ほかに薪などが無ければ火は勢いを失う。俊蔵は、火を絶やさないために陣幕を燃やそうと考えて、周りに目を凝らした。

「五平、薪だ! 薪が置いてある」

「はい! 山になっていて分かりませんでした。それに茣蓙(ござ)も横に!」

「では! おれが、薪を取って投げる。おまえはそこで火にくべろ」

 俊蔵は薪の山によろけて倒れ込んだ。そして、手ごろな大きさの薪を五平に投げ渡したのである。五平はうつ伏せになりながら薪を集めて、火を勢いづかせた。

「俊蔵様! 茣蓙(ござ)の横に樽があります。それに紙のようなものが!」

 五平に促され、俊蔵が横を見ると樽に竹が差してあり、二つに割られた先に手紙が挟んであった。

「分かった! よし」

 俊蔵は、体を横に倒して手を伸ばし、竹枝を掴んだ。ゆっくり枝を手前に引くと手紙が手元に落ちた。そして、その一葉の走り書きに僅かに目が動き、彼は震えながら目を閉じた。伯父の仁左衛門の文字であった。


一、この樽に水

一、火おこしの道具あり

一、熾火あえて残す

一、灰中に枝刺しの芋あり

一、着衣湿りたれば菰にて暖を取るべし

一、熊などに備え火を絶やすべからず


 青木家の次男であり、城詰めの役回りで日用品の調達を仕切る伯父の賢さが伝わった。

「五平! 周りに枝が出ているところがあろう。灰から生の枝がじゃ! その先に芋が埋まっておる」

「あー、これか!? あっ、ありました。アツ! アチチ」

 五平は、太枝と見分けがつかないような灰まみれの芋を掘り出した。二つに割ると中が黄色に焼けて湯気が立った。その芋の香りはすぐに俊蔵にも届いていた。

「はやく食え! 遠慮はいらぬ。おれは、この中の水を飲む」

 そう言って、俊蔵は横になりながら樽を傾け、栓の口に手を添えて水を飲もうとした。すると、その目の前に鉄鍋が見えた。思わず手に取り、蓋を開けると赤紫蘇(あかじそ)に包んだ梅干しがあった。

「俊蔵様! 手を伸ばし下さい。熱いですんで」

 五平が枝を掴んで、先に刺してある芋を渡そうとした。

「あー、いい匂いだ! 鍋も置いてあった。これに水を入れて渡すゆえ、引いてくれ!」

 俊蔵は芋を取って、枝先に鉄鍋の柄を掛けた。

「これを火に近づけ、湯を沸かす。中に梅干しが入っておったぞ!」

 二人は、立ち上がることもできずに、転がりながら位置を変えて空腹を満たした。

そして、重ねた薪に徐々に火が付いて大きな火柱が立ち上がるのを見て、茣蓙(ござ)山に身を横たえ(こも)(まと)った。空には満天の星が静かさを増し、焚火の中で薪が割れる音が響いた。長い一日の終わりがようやくおとずれたのだった。


●三 鳥の羽ばたきとともに

 翌朝、鳥が一斉に羽ばたく音に目を覚ました。鳥たちは芋の食べ残しに群がっていたのである。

 俊蔵の眼には、五平はまだコモに包まり眠っているように思えた。しかし、いくら呼んでも返事をしないのでコモをめくると、五平は汗をかき荒く息をしていた。明らかに坂での怪我による影響だと分かった。俊蔵は慌てて着物を脱がし体の異常を確かめると、下腹部に血種が見えた。その膨らみ具合から骨折が疑われたのである。

 気付けば、山の朝日が陣幕を通して眩しさを和らげ、提灯のロウソクの燃え尽きた臭いが風に漂って来た。俊蔵は五平を抱いたまま動くことが出来ず、ただ顔を見ながら話し始めた。

「もうすぐじゃ! 伯父上が残した(ふみ)は、誰かがここへ来ると考えてのこと。だから助けが来る。そうであろう! 芋は枝に刺し灰に埋めてタヌキに食われんようにして、水も茣蓙(ござも)。それに、鍋に塩の吹いた梅干しも。そこまで考えて迎えが来ぬはずがない!」

「としぞう、さま! 痛くて目が覚めました。寒いので薪を!」

 そう言い残して、五平は息を引き取ったのである。陣幕の上に朝日が顔をのぞかせ、二人の背中にぬくもりを与えた。しかしその影は、一つだけ伸びて震えていたのだった。


●四 生きろという声

 俊蔵は、まるで夢の中にいるように感じていた。彼は、この二日の中で身も心も疲れ切り、どの記憶を(さかのぼ)っても現実として受け入れられなかった。時間が過ぎれば容態は悪くなり人は死ぬ。医者はそれをくい止めるにしては非力である。何もしない方が自分も、そして周りの仲間も無事でいられたに違いない。そう思うようになっていた。

 突然、俊蔵の腕から五平の亡骸の重みが消えた。放心状態の彼は近づく人の気配にまったく気付かなかったのである。彼の脱力した姿は、誰が見てもこれ以上何も求めることができないくらい精気を失っていた。

「もうよい! おまえだけでも、こうして生きておれば、それでよい」

 その声は、伯父の二左衛門ではあるが父の声にも聞こえていた。その後、彼はゆっくり息を吐きながら気を失った。実家に運ばれる途中、(うな)されながら五平とオミヤの名前を繰り返し呼んでは、体が痙攣(けいれん)して高熱に見舞われていた。

 時は、1868年の長岡戊辰戦争のちょうど五年前のこと。彼の運命が大きく変わる瞬間であった。



第七章 思い届かず

●一 あの時

 一方、伯父の青木二左衛門は、五平の亡骸と気を失った俊蔵を荷車に乗せ、村松までの坂を引き返したのである。後発の三右衛門と里奉行(さとぶぎょう)大橋市之助の一行とは途中ですれ違った。

 父の三右衛門はそのとき、荷車の上の縄掛けを見て息をのんだ。俊蔵と五平の二人が亡くなったように見えたからである。

「兄上、遅かったのか?!」

「ああ! しかし、俊蔵はなんとか生きておる。五平は……」

 口ごもる二左衛門に、三右衛門は自らの判断を悔やんだ。それは、彦爺(ひこじい)が言い残した言葉によるものであり、長岡藩の運命に係るものであったからである。

 当時の藩の財政は、小藩であるにも関わらず藩主牧野が幕府の要職に就いた影響によって、持ち出しが多く逼迫していた。そして、開国以降の欧米列強の動きや尊王攘夷(そんのうじょうい)など、にわかに軍事強化に流れていたのである。

「三右衛門! 殿(との)は未だ村松か?」

「はあ! 準備が整い次第、向かうと言っておられます」

「そうか! では、大橋様。わたくしが三右衛門に代わって上り坂の作業を!?」

 二左衛門は、五平の死を受けて俊蔵の容態が気になり、父、三右衛門を俊蔵と一緒に村松に引き返させようと考えていた。

「いや! 二左衛門、それはならぬ。気持ちは解るが、俊蔵と五平のことと殿(との)のご命令は別じゃ! 彦爺(ひこじい)の命を全力で守るということに徹せねばならぬ」

 二人のやり取りを聞きながら、三右衛門の心に、昨日、高橋等と山越に向かった俊蔵の後ろ姿が思い出されていた。


●二 三右衛門と急坂

 その後、三右衛門と大橋市之助一行は村松に向かう仁左衛門を見送り、急坂を見上げる陣屋に着いた。

 俊蔵を連れて村松に戻った二左衛門は、もともとは朝一番に到着して急坂の作業の指揮を執る運びであった。その人足の半分にあたる10名ほどが、すでに荷捌きを済ませ茣蓙(ござ)を馬に積んで運んでいた。

「大橋様! 予想以上に段取りが進んでおりますな」

 坂の斜面に作業の手が入っているのが見えた。

「ああ! さすがじゃ」

 三右衛門は、朝一番の作業に加わった奉公人の作五郎を呼び止めた。作五郎は、前日に山越まで俊蔵を迎えに行ったことで、坂の泥濘具合(ぬかるみぐあい)を知っていたので、役目を買って出たのだった。

「作五郎! どうじゃ?」

「はい! 二左衛門様のご指示の通りでございます。すでに折り返しまで杭を打ち終えました!」

 二左衛門の指示は、急坂の谷側の端に等間隔に杭を打ち、それに綱を掛け渡し掴んで安定を図るものであった。

 総勢30名が一斉に作業に取り掛かった。

 さらに、坂の折り返しの二股杉に綱が四重に渡され、その綱に滑車が付けられた。陣屋に山積みされた茣蓙(ござ)は20枚を二つ折りに括られ、馬の背の左右に取り付けられた。俊蔵と五平が薪だと思ったものは、もとは杭柱で、その一部を薪の代わりに割ったものだった。

 滑車に綱が渡された。

「旦那様! 準備出来ました。合図をお願いします!」

「ああ! 分かった」

 馬は急坂の上り口で茣蓙(ござ)を下ろし、滑車の綱を結ばれた。茣蓙束(ござたば)は滑車の綱に括られ、案内用の細縄が渡された。作五郎はそれを手にした。

「旦那様! 張り具合と、結び目を確認します」

 細縄を展張し、茣蓙束(ござたば)の位置を確認して、結び目を増し締めした作五郎は、三衛門に『整いました!』と言った。すると、三右衛門は手を挙げ、ゆっくり大きく叫んだ。

「馬は、はじめは赤子(あかご)の様にゆっくり! 止まれと言ったら、すぐに止めよ。作五郎! おまえが直接、その指示を出すのじゃ」

「へい!」

「では、馬引けーい!!」

 三右衛門の指揮で、見事に滑車による茣蓙束(ござたば)の運搬が行われた。それと併せて、杭柱の運び込みも行われ、急坂全体に茣蓙(ござ)と杭の列が出来上がった。

「三右衛門! あの時に、これをやっておけば殿(との)が無事に……」

「はい! おっしゃる通りでございます。まさか、本当にこうやって、やるとは思いもよりませんでした!」

 この作業完了までには僅かに一刻(二時間)。茣蓙(ござ)は水を含み、泥と馴染んで滑りを止めた。それを見て、里奉行の大橋は藩主牧野を迎えに村松に向かったのである。

 三右衛門は、兄の代わりを担った急坂の作業を無事に終え、陣屋の樽に腰を掛け、昨日、俊蔵と馬に乗りながら話した8年前のことを思い返していた。藩主牧野が鷹狩りに出かけ、怪我を負った際にこの急坂を下りたときのことであった。


●三 オタキが救った命

 ちょうど8年前、オミヤは母親のオタキと二人で難所の急坂に山菜を取りに来ていた。二人は、木立の中を分け入り、斜面に生えたゼンマイや蕗の(ふきのとう)を背籠に山積みにして、戻るところであった。

「かあちゃん、馬の鳴き声が聞こえたよ!」

「そうか!? 誰か坂にいるんかね」

「かあちゃん、誰か叫んだよ!」

 二人は足を止め、辺りを伺った。

「オミヤ! 上から聞こえたっけね、籠を置いて先に見てこい」

「うん!」

 オミヤは慣れた足取りで、獣道(けものみち)を駆け上がった。

 暫くして・・・

「かあちゃーん!! 人が倒れてる。馬が沢山転んでるよ」

 オミヤの声だけがした。

「ああ! 分かった」

「うちね! このまま湧き水のとこに行く。彦爺(ひこじい)が待ってるっけ、助け呼べって言うよ!」

「ああ、分かった! 気を付けてな。かあちゃんも、いま上がる」

 オタキは背籠をその場に置いて、急坂に向かう獣道(けものみち)を上がった。すると、そこには馬が折り重なって倒れていた。さらに坂の上には何人かが這いつくばりながら、一人の男を目指して集まろうとしているのが見えた。しかし、泥にまみれた姿で慌てふためくやり取りに、声をかけることを躊躇った。

 その様子を見ながら、オタキは倒れた馬の中の一頭が立ち上がるのを見て、手綱(たづな)を引いた。

「どーう! どう、どう。こっち来て!」

 馬は、促されて坂の端の落ち葉だまりに動いた。他の馬も立ち上がれるものは、自分で角度を変えて首を持ち上げた。しかし、六頭のうち三頭は立ち上がれず、徐々に力尽きていった。鞍に施された飾りから、明らかに主君のものだと気付いたので、最初に立ち上がった馬を引いて坂を上がると、その後を立ち上がった二頭がそれを追った。

「いま! 助けを呼びに行きました。無理に動かんで。動かさん方がいいです!」

 そうオタキが言い放った先には、藩主を取り囲んだ五人がいた。いずれも泥にまみれ転んで怪我を負っていた。

「かたじけない! 見ての通りだ」

「このお方は?!……わたしは、この先に住むオタキと申します」

「すまぬ! 事情は言えぬ。馬から落ちて頭を打たれた。息が止まっておる」

 オタキは、持っていた竹筒の水で牧野の顔を拭くよう手拭いを差し出すと、受け取った男が水を飲み干した。

「待って下さらんか! お殿様のお顔を拭いて下され」

「おー、すまぬ! 殿(との)と分かっておったのか?」

「はい! 鷹狩りにお出でになられると聞いておりました。心の臓は?」

「あー、いや。未だじゃ!」

「いいです! 代わります」

 オタキは竹筒を男からもぎ取り、他の二人が抱えている牧野の顔を濡らした手拭いで拭いた。

「おい、何をする!」

「これで拭いてくだされ! 早く!!」

 オタキは、藩主の泥だらけの顔を、その男が拭くものだと思っていた。

「もう一人の方! お殿様の首に手を当てて、心の臓が動いているか診てくだされ」

「あー、いやー。わしは医者ではない!」

「では、代わってくだされ!」

 オタキは、牧野の体を膝に乗せた。

「・・・心の臓が動いていません。・・・いえ! 少し動いている?!・・・顔が青いですんで、誰か息を吹き込んで下さらんか!」

「何のことだ? どうすれと言う。我らは医者ではない!」

「もういいです!」

 そう言ってオタキは牧野の鼻をつまみ、口移しで息を吹き込んだ。

「おい、何の真似だ!」

 制止を求めて近づこうとした男は、ものの見事に足を滑らせ、急坂を転げ落ち横倒しの馬に当たった。他の男は、ただオタキの行為を呆然と見ていたのである。

 しばらくして、呼びに行った彦爺(ひこじい)と一緒に百姓等が坂を下りてきた。主君牧野は、大きく息を吸い込んで嘔吐を繰り返し、なんとか息を吹き返したが、その後ふたたび意識を失った。このオタキの行為で九死に一生を得たのである。


●四 問題の判断

 当時、彦爺(ひこじい)は、牧野の鷹狩りの案内を何度か勤め、伴の者にも顔は知れていた。

「おお、彦爺殿(ひこじいどの)! 殿(との)が馬から落ちて気を失ったのじゃ。そこに、この女が突然現れて、無礼な真似をした!」

 一人の男の思わぬ物言いに、オタキは顔を曇らせた。彦爺(ひこじい)は一瞬で嘘を見抜いていた。意識を失った藩主に、見ず知らずのオタキを近づけた失態を、自ら認めたというまさに茶番である。

「ええ!? それは、申し訳ござりませんでした。それで、お怪我の具合は?」

「わしらで何とかして、いま息を吹き返されたところじゃ! 一時はどうなるかと思ったぞ」

 男は、自らの警護の失態をオタキに擦り付けようとしたのである。そして、裁きを下すと言って城下まで連れて行くと言った。

「オタキ! わしも一緒に行く。オミヤは庄や様のところに人を呼びに行った」

「わたしは、ただ!」

 オタキの話を、彦爺(ひこじい)が目くばせで遮った。

「あのー! このまま、みな様はこの坂を下りられると言われますのか?」

「ああ! 殿(との)を馬に乗せて行く。お前たちが手伝ってくれれば下りられるであろうな!」

 百姓等は、男の話に言葉を失った。

 その後、気を失った牧野とともに坂を下りはじめたのだが、直ぐに愚策が露呈した。

「あー―――! 滑って止まらぬ。すまぬ、どいてくれ!」

 最後尾にいたその男が、滑って前の馬にぶつかった。すると馬は驚き、横向きに跳ねて別の馬に当たった。

「おい! 殿(との)の馬を」

 男は、あわてて牧野の馬を指さした。その様子を見て、百姓等は咄嗟に脇の落ち葉だまりに逃げた。

「馬が暴れる。何とかしろ!」

 侍たちは牧野が乗った馬を押さえ付けようとして、かえって馬を驚かせた。馬上の牧野は支えを失い、全員がその馬とともに転げ落ちたのである。

 男は、ことの責任を感じて動きを止めた。藩主牧野は泥にまみれ、他の者が助けを求めている。

「お止め下さい!! 切腹はなりませぬ。お殿様をお救いになること。それがお役目です!」

 彦爺(ひこじい)の一言に、男の脇差(わきざし)が止まった。

 彦爺(ひこじい)は、無言のまま倒れた牧野を背負った。その気迫を見て、百姓等は怪我を負った侍を支えながら、坂を上って行った。そして、オミヤが呼びに行った庄やと総勢50人を超える山古志の人により、無事に庄やの家まで運んだのである。


●五 男とオミヤ

 彦爺(ひこじい)の足腰の強さは並大抵のものではなかったものの、さすがに疲れ果て、湧き水まで牧野を背負ったところで世話役のゲンジに代わりを託した。

「ゲンジ! あとは頼む。オタキとしばらくここで休むから、オミヤは後で迎えに行く」

「はい! 庄や様は、今ごろ家に戻られて、手当の準備をなさっておられます」

 オタキは安堵の涙がこみ上げ、彦爺(ひこじい)に抱えられながら座面にもたれ掛かった。

 その様子を見ていたにもかかわらず、最後尾を付いてきた男が湧き水で泥を落とし始めたのである。

 ゲンジは、背中の牧野を男に託そうと話しかけた。

「お役目を、どうぞ!」

「すまぬ! すまなかった」

 男は、顔色一つ変えずに牧野の身を受け取ろうとした。

「待て! おぬしには、殿(との)を。大切な殿(との)のお命を預かる資格は無いぞ!」

 怪我を負った侍の一人が言った。

「では、どうすれと言うのだ?!」

「決まっておろう! 上役であれば、殿(との)をお救いする指示をちゃんとするのが(すじ)! 下の者の話を聞かぬから過ちを繰り返す。おぬしは、まだ気付かぬのか?!」

「なに!? 無礼であろう」

 男は、相手が怪我を負った者であることを忘れ、胸ぐらを掴んだ。

「やめてくだされ!」

 そこにオミヤがいた。男が手を放し、牧野が座面に頭を打ち付ける寸前に手を入れて支えた。

「なにお! この、こ汚い子供が」

 威嚇のような男の言葉に、オミヤは泣きながら牧野の頭を抱きかかえた。

「もう、止めなされ! これではお殿様がかわいそうで。すでに、ご城下に西野様を呼びに行かせました」

 男は、この彦爺(ひこじい)の一言と、周りの視線にいたたまれずにいた。

 すると突然・・・

「あー、頭が痛い。どこじゃ、どこにいるのだ?」

 オミヤの膝の上で牧野の意識が戻ったのだった。

「お殿様!」

「おお、彦爺(ひこじい)か!?」

「はい! お動きになられない方が」

「ああ! 動きたくとも、動けぬ」

「いま、湧き水のところにて、こうしておられます。ご安心下さりませ!」

「……うー、思い出せぬ。何も」

 この牧野の声が聞こえたらしく、男はとり囲んだ人垣の中を覗き込んだ。それをオミヤが睨み返し、迫力に負けて背を向けた。

 それは、ちょうどオミヤ9歳の春のこと。母オタキと父の彦六(ひころく)が、その男に罪を着せられ裁きを受けた年であった。


●六 密書の罪

 男の名は、加藤徳介(かとうのりすけ)と言った。幕府の新潟町奉行に長岡藩で召し抱えるように言われ、藩主牧野の御側役(おそばやく)になったのだが、技量、人となりは最低であった。佐渡や越後の各方面に顔が利くということで期待されたのだが、自分のためになると思うときだけ意外な才能を発揮する。中でも、人を罠にハメたり裏金をつくり置くことは彼の才能の最たるところであった。

 当時、長岡藩は財政立て直しに窮していた。その石高に見合わず、小藩ではあるが藩主の京都所司代や老中職への着任に伴い、その役回りの都度、家臣が増え持ち出しが多くなった。2百年以上も長岡を治めた綻びは、当時の欧米列強や諸藩の近代化の流れに追いつけるものではなかった。

 そして、その財政難は、皮肉にも加藤徳介(かとうのりすけ)の裏金づくりが露呈した際に明らかとなり、藩政は抜本改革が求められたのである。戊辰戦争で長岡藩を率いた河井継之助(かわいつぐのすけ)が行った慶応の財政改革は、まさにこの問題の大きさを知らしめて上層部の理解を得たものであり、その引き金になった出来事が一通の密書であった。

「俊蔵! もう大丈夫のようだな」

「はい、父上!」

「そうか、よかった。一つ頼みがある」

「はい、何なりと! あれからずっと家におって、体が鈍っております」

 俊蔵は、怪我を負って気を失ってから一月余り自宅にいた。

殿(との)から内々にお願いされたことだ。おまえも耳に入っていると思うが、オタキと彦六(ひころく)のことだ」

「わたくしも、何度か二人に会って話しておりますが、とても罪を犯したものとは思えませんでした」

「ああ! おまえの見立ては合っておる。濡れ衣だ! 二人が牢に入れられた翌日に大橋様のところに密書が届けられた。そして、殿(との)の鷹狩りに行った時のことが明らかになり、オタキと彦六(ひころく)は山古志に戻るはずであった。しかし、その途中で命を狙われた」

「それは、まことですか?」

「ああ! それで大橋様が身の安全を考え、二人を牢番にしたのじゃ。もうあれから8年。城内の牢番として真面目に働いておる」

「いや、初めてのお話! 考えれば一番安全な場所ではありますが、二人に子供はいないのですか?」

 核心をつくこの問いに、三右衛門は驚きオミヤとの縁を感じた。

「……オミヤだ。オミヤがあの加藤に無礼をはたらいたということで罪を問われた。だが、代わりに彦六(ひころく)が牢に入ることになった。殿(との)は、密書の中身をお知りになり、加藤以下の同行の者の詮議を命じられ、彦爺(ひこじい)にも話をお聞きになられたのじゃ」

「しかし、加藤様も他の方々もおとがめは無かったと聞いております」

「そうじゃ! 殿(との)が、ご自分の責任であると言われ、みなに頭を下げられた。加藤はその後、行方をくらまし、新潟(町奉行)にあること無いことが伝えられた」

「もしや、殿(との)は、この度のことで?」

 俊蔵の勘は冴えていた。

「ああ! 命の恩人の彦爺(ひこじい)と五平が亡くなり、お前もじゃが、西野のところの医者が怪我を負って、8年前のことを考え直された。財政も、人の起用も、何もかもじゃ!」

「8年ですか! 親子が離れ離れになって」

「ああ! だが、ときどき西野の計らいで医術処の見習いに来ておった。その時に、親子は会っておったと聞く」

「それは知りませんでした。いや! わたくしはてっきり……」

 俊蔵の驚く顔を見て、三右衛門は確信した。



第八章 (すずり)の水

●一 オミヤ座りて

 一方、オミヤは育ての親である彦爺(ひこじい)を喪い、しばらく庄やの家で床に臥せっていた。俊蔵から届いた竹の行李(こうり)は手を付けずに、俊蔵が横になった客間のすみに置かれていた。

 そこに、村松の青木家から戻ったゲンジが見舞いに来た。

「オミヤ、入るぞ! 俊蔵様から手紙を預かってきた」

「ええ! はい」

 オミヤは正座をし、身なりを整えた。先ほどまで俊蔵のことを思い出していたからである。

「もうすっかり元気になられて、近々、ここに来られると聞いた。庄や様から聞いただろうが、急坂で大変な思いをされなさった! だが、坂はもう茣蓙(ござ)と杭で転ばない。安心しろ」

 オミヤは恥ずかしそうに手紙を受け取った。

「ゲンジさん! わたし、どうしたらいいか。この前は、お殿様と西野様が来られて、お礼を言われ、それで今度は俊蔵様がここに来られる」

「まあ、手紙を読んでみろ! おれには読めないから、早く聞かせろって」

 ゲンジに促され、オミヤは膝に手紙を置いて丁寧に広げた。読み終えて胸に押し当て、小さく震える肩が喜びを表した。ゲンジは何も聞かず、オミヤの涙を見て言葉を詰まらせた。

「……なんて書いてあるか分からねえが、良かったな! 庄や様を呼んでくるから、一緒に聞かせてくれ」

 庄やは、ゲンジが呼ぶまでもなく傾斜畑から声を掛けた。

「ゲンジ! 青木様。いや、俊蔵様に渡してくれたか?」

「はい! 彦爺(ひこじい)の形見だと言っておられました。でも、あれをオミヤが書いたと言ったら……」

「うむ! 書いたと言ったら?」

「……この手紙を!」

 庄やは、亡くなった彦爺(ひこじい)がオミヤに書き留めさせた秘薬帳を、村松の実家にいる俊蔵に渡すようにゲンジに頼んだのである。

「待っておれ! いま行く」

「とう様! これでございます」

 庭先からオミヤの部屋の横にある厨口(くりやぐち)から入って来た庄やに、オミヤは目を赤くして手紙を差し出した。


●二 御前候へし折

 俊蔵のしたためた手紙は、あの伯父、二左衛門のものを模しているようであった。それが逆に解りやすく、気持ちが伝わることを教訓としたかのようである。


一、お預かりし秘薬帳 謹んで書き写しお返しいたしたく候

二、アルコホールの濃さのこと お尋ねいたしたく候

三、薬草玉に含めし海藻 根昆布にて試したく候

四、オミヤ殿の御父上様、母上様の年季明のこと ご相談をいたしたく候

五、諸々、御前候へし折 お聴きいたしたく候


「とう様!」

「良かったなぁ、オミヤ!」

 オミヤと庄やの感極まる姿に、ゲンジが貰い泣きしながら・・・

「あー、うっかりしてー、忘れるとこだった! 梅雨前に年季明けしねーと、坂がぬかるむから、明日にでも来るってよ」

「えー! もうゲンジさんたら」

 オミヤの顔は、泣いているのか笑っているのか見分けがつかない。その顔がかえって彼女の気持ちを素直に表していた。

「それは、それは! さっそく準備を。なー、オミヤ!」

「はい、とう様!」

「……おまえに、そう呼ばれるのもあと少しじゃな!」

 庄やは、寂しそうに庭を見た。そこには、鎮魂を慮って彦爺(ひこじい)の墓が立てられていたのである。山の主と彦爺(ひこじい)の二つの魂の安寧が、一連の騒動に終止符を打てると思ったのだった。

「それじゃあ、おれもうちに帰る! 明日は田んぼの草取りだ。俊蔵様を見ても、みんなに知らん振りするように言っておく。二人でゆっくり話せって」

 オミヤは決まり文句のように、ゲンジの話を遮った。

「もう、違います! 俊蔵様はお役目です。ご挨拶されてくだされ」

「じゃあ! おれん家に足止めするか」

 庄やは、尽きない話に終止符を打った。オミヤに伝えなければならないもう一つの話があったからである。

「ゲンジ! オカヨが待ってる。はやく上がれ(帰れ)って。明日の田んぼは暑いぞ!」

「ああー、そうだった!」

 ゲンジも、庄やが何を言いたかったのか直ぐにひらめいた。

「すいませんでした! 長居してしまって」

 玄関の板戸を閉める音がした。


●三 縁談話

 庄やは、おもむろに話し始めた。

「なあ、オミヤ! 覚えているか? 大橋様の縁談話を」

「あっ、はい! わたくしのようなものにお声が掛かり、相手様がお断りになられたのではと思っておりました」

「そうか! じつはな、そのお相手は俊蔵様だ」

「もう、とう様まで! ゲンジさんと同じことを」

 真に受けないオミヤに、庄やは里奉行の大橋と藩医の西野の関係を伝えた。

「おまえが大橋様のところに預けられたのは、おまえが無実の罪で牢屋に入れられた彦六(ひころく)とオタキに会えるようにするためだ。だから、大橋様と一緒に牢番詰めに行ったじゃろう」

「はい! いつもお連れいただきました」

「大橋様は、おまえを最初は不憫(ふびん)に思われていた。しかし、おまえの読み書き(しつけ)見習いの中で、おまえを養女になされたいとまで言われた。そんな話を西野様にしたら、西野様まで医術処にお呼びになられたいと言われてな!」

 藩主牧野の命を救いながら無実の罪を着せられ、その無実が明かされても親子の間を割かなければならなかったことにより、オミヤの人生も大きく変わったのである。

「では、わたくしは大橋様の養女に?」

「ああ! この縁談は、おまえの才能と人となりが花を咲かせたものだが、そのことは俊蔵様は知らんのじゃ。それで、西野様が俊蔵様をおまえに会わせるために、あのとき熊胆(くまのい)を取りに行くように言われたのじゃ」

 オミヤは、亡くなった彦爺(ひこじい)を看取った前日に、俊蔵の子供の頃の話を聞いたことを思い出した。

「とう様! 彦爺(ひこじい)はこの縁談の話を知っておった。それに、ゲンジさんたちもですか!?」

「ああ! 俊蔵様をお迎えして、にぎやかに楽しくやるつもりでいた。それがじゃ!」

 オミヤは、自分を取り巻く経緯に不安を感じた。彼女は、謙虚であり一途であった。

「でも、とう様! この話で人が亡くなったり怪我をして、わたくしの様なものが俊蔵様と夫婦(めおと)になるなど。父や母が戻って来るだけでも、もったいのうございます。……わたくしだけが幸せになるなど、めっそうもありません!」

 庄やは、オミヤの言い分を予想していたかのように・・・

「では! 明日、俊蔵様におまえの気持ちを手紙にしてお伝えすればよいではないか。それに、どうも俊蔵様は好きな方がおられるような話も耳にした。おまえの事ではないかと思ってはいたが、違うかもしれんしな!」


●四 半紙の文字

 庄やの話を受け、オミヤは手紙を書き始めた。彼女は、村の代書役として様々な手紙をしたためてはいたが、この手紙に関しては筆が乱れた。何度も書き直したが心の有様がその文字と文章に浮き出ていた。

 部屋にこもったままのオミヤに庄やが言葉を掛けた。まさに、その有り様を見ているような一言であった。

「オミヤ! 晩飯は、丸めた紙で炊き上がるじゃろう。そろそろ、日も暮れてきた!」

「……はい! 申し訳ございません。すぐにお支度を」

「オミヤ! ヤマメをもらってある。あの時の食事を作ってくれ」

「……はい!」

 庄やの求めに、オミヤは筆を止めた。あの時とは、俊蔵が熊胆(くまのい)を求めて来たときに作った昼飯の事である。思いを込めるなと言われても、込めてしまう相手への手料理であった。

 食事をしながら庄やは意味深く・・・

「水が良いと、何でも美味くなると聞いたことがある。その湧き水で鯉が飼われていて、金や赤が混ざることがあるじゃろう。食べても味は変わらん。人も一緒だ! そう思わんか?」

「……はい! いえ、よく分かりませぬ。申し訳ござりません!」

「そうか!? おまえなら判ると思った。人より肌が白く、手足が長く、何でも出来て、何でも覚えてじゃ! しかし、特別に扱われるのは嫌ではないか?」

「はい! もったいないお話ばかりで、夢ではないかと。その夢は覚めてしまいます」

「そうか! では、夢であれば覚めるまで楽しめばよいと思って、書いてみてくれ。わしはおまえが可愛い。可愛いおまえが幸せになれれば一番じゃ」

「そんな、とう様まで!」

 その庄やの背中を押す言葉は実らず、とうとう朝を迎えるまでオミヤは悩んでいた。

 朝食を取りながら庄やが尋ねた。

「そう言えば、広間に置いてある竹行李(たけごうり)の中は何であった?」

「それは、未だでございます。お着物と聞いておりますが、もったいなくて!」

「なんと! お目にかかる前に見ることじゃな。失礼にあたらないようにしないと」

 庄やに(いさ)められ、朝食の片づけを済ますとオミヤは行李(こうり)を開けた。中には、和紙の包みの中に丁寧に畳んだ袴があり、その上に二つ折りにした半紙が閉じ紐に挟んであった。オミヤはそれが俊蔵の字であることが直ぐにわかった。『仔細問わず、この着物と袴にて身支度をなされよ』と記した、あの時の初文である。

「お気持ちだけで、十分にございます!」

 そう言い放ち、行李(こうり)の蓋を閉めた。そして、庭の彦爺(ひこじい)の墓に手を合わせ、庄やに俊蔵を迎えに行くと言って家を後にしてのであった。その手には、書道具に紙と箸一善(はしいちぜん)が入った木箱。彼女の足は小走りに近く、家から湧き水のところまでの坂を一気に下り終えた。そして、(すずり)に水を取り、座面に座って墨を擦りながらその時を待っているかのようであった。

 しばらくして日差しが強くなり、墨の加減が気になってオミヤは筆に墨を付け半紙に試し書きをした。その書いたものがこれである。

『御前候へば 千代に八千代に古志の里』

 まさに書く者の気持ちを、そのまま写し出した言葉と文字が残った。しかし、墨は初夏の日差しで濃くなっていて、紙の上に盛り上がるほどになった。オミヤは石の座面に書道具一式を残し、湧き水に手を添え(すずり)に加える水を求めた。その様子から、未だ俊蔵への手紙は書き上がる気配はなかった。


●五 ため息の中で

 試し書きの乾きを促そうと座面に半紙を置き、オミヤは改めて手紙をしたためようとした。何度かため息をつきながら書いた手紙には自ずと気持ちは乗らなかった。


 彦のご処置の折 あなた様のご指示にそえず戻りまするに至り

彦苦しみますれば 脚の壊死がすすみて右切りおとすやう彦申し候

されど彦の命救えずにて これすべてわたくしの不徳によりますこと

中心よりおわび申しあげまする

わたくしオミヤは 川にてあなた様から命をお助けいただき候らえども

子どものときゆえ わかりつかぬほどのあり様にて

御礼もせずにおりますれば ふたたびお目どおりかなえし折には

改めましてお礼申し上げたく、心より御待ち申し上げし候


 こう書き終えて、(すずり)を洗いに湧き水の滴りにさらしていると、風でその滴りが動いた。慌てるオミヤの動きに近くの鳥たちが一斉に飛びたっていく。座面に置いた紙が風で飛ばされたのである。

「オミヤ! 待て、待て。取って来る」

 庄やが、飛ばされた手紙を手に取ってくれた。庄やもまた、俊蔵を出迎えようとオミヤの後を追ったのである。

「とう様。申し訳ございません」

 庄やから手紙を渡されても、オミヤは辺りを見回し落ち着く様子が無い。

「どうしたオミヤ?」

「えっ! いえ、何でもありません」

「そうか! なにか風で飛ばされたのか?」

「あー、半紙が一枚、無くなりました」

「ほう、そうか!」

 庄やは、座面の上に立って辺りを見まわした。初夏の田んぼは稲が育ち、膝上までの長けの緑で敷き詰められていた。しばらく探したが、試し書きの半紙は見付からなかったのである。

 そうこうしていると、庄やの視界に俊蔵の姿が見えた。庄やは、丁寧にお辞儀をしたが、オミヤのお辞儀はぎこちなかった。

「ああー、お疲れさまでございましたな! さあ、お荷物を」

「はい!……オミヤ殿、どうかなされましたか?」

 俊蔵から庄やが受け取った荷物をオミヤが手に取ったのだが、落ち着かない様子を見て俊蔵が気にしたのである。

「いいえ! 何でもござりませぬ。ようこそ、お出で下さりました」

「はい! この度は良い知らせを持ってまいりました」

「それは、それは! では我が家にまいりましょう」

 庄やが先頭に立ち、オミヤは俊蔵の斜め後ろに付いた。その時オミヤは、湧き水の地で俊蔵に手紙を渡すつもりでいたが、庄やが来たことで渡しそびれたのである。それより、半紙のことが気になって仕方がない。村ではオミヤが様々な機会に筆を執っているので、彼女の文字であることは誰もが気付く。試し書きとは言っても、紛れもなく本心が現れたその半紙を拾われれば、庄やの家に届けられた後のことは想像できた。

「とう様! 忘れ物を取りに行ってまいります。お荷物をお願いいたします」

 オミヤは、庄やの家が見えたところで急に戻ると言った。

「では、わたしもご一緒に!」

「ああ! そうですな。それでは先に行って、風呂でも沸かしておきます。お気をつけて」

 俊蔵の同行を後押しする庄やの一言に、オミヤはため息を漏らした。庄やは、二人に気を使ったのだがオミヤにとっては困りごとに変わったのである。しかし、彼女は俊蔵がついてくると言ったので、探し物の正体を手紙だと言って渡すことに切り替えた。

 オミヤは俊蔵に怪しまれまいと、距離を取るために早足で坂を下りた。彼は、ついていくのがやっとで、途中でオミヤを呼び止めたのだった。

「オミヤ殿、待ってください! もう付いていけません。お話があります」

 そう言って俊蔵は、息を荒げながら胸の中から袱紗(ふくさ)に入った手紙を取り出した。

「はい! 申し訳ございません。無くならないうちにと思いまして」

「では、先にこれを! 大橋様からあなたにと言われ、お預かりしたものです」

 オミヤにとって、差出人の里奉行、大橋市之助は大の恩人である。彼女の父母が無実の罪で捉えられた際に、読み書き(しつけ)見習いに9歳の彼女を預かってくれたのであった。

 オミヤは、ふたたびため息をついた。自分を取り巻く出来事に戸惑うばかりである。そんな彼女を見て俊蔵が話し始めた。

「わたしは、もうあなたに隠し事をしないと決めました。あの日、山越から急坂を下る際に五平を亡くし、わたしも死にぞこないました。死ぬ前に会えたことで、これでいいと思ったのですが、夢で苦しむあなたを見て死んではならぬ。そう思ったら、目が覚め村松の家に居りました」

 そう言って俊蔵は先に歩き始めた。今度は、オミヤが少し後ろに付いて歩いていた。

 いつしか二人は、子供の頃からの生い立ちや再会してからの想いを口にしていたのである。景色は、ゆっくりと流れた。


●六 忘れ物

 湧き水が見えたとき、俊蔵がオミヤに尋ねた。

「そう言えば、何を忘れたのですか?」

 オミヤは一瞬の間を開けて・・・

「半紙を一枚、湧き水のところで……はい!」

「大事なことが書き留められていたのであれば、わたしにかまわずお探しくださればよかったのに!」

 すかさず話を変え・・・

「はい! あそこで、大橋様のお手紙を読んでもよろしいでしょうか?」

「ええ! 差し支えなければ、わたしにも内容をお聞かせ願いたい」

 二人は一緒に湧き水の座面に腰を下ろした。しばらくの沈黙を挟んで、オミヤが肩を振るわせながら涙した。俊蔵もその様子を見ながら涙をこらえた。

「……いや! 話し込んで喉が渇きました」

 湧き水で顔を洗う俊蔵が、水を飲まないで戻ってきたことをオミヤは気付いていた。

 大橋市之助の手紙は、オミヤの父母の彦六とオタキの牢番役を解き、大橋家の奉公人として召し抱え、併せてオミヤを養女にするという内容であった。

「こんなこと、信じられません!」

 そう言いながら、オミヤが差し出す大橋の手紙を改めて読み進みながら、俊蔵は彼女を妻に迎えることを確信したのである。

「良かったですね」

「はい!」

 初夏の湧き水には水芭蕉が咲いていた。俊蔵は、手紙をオミヤに返して立ち上がると、手拭いに水を浸しオミヤに渡して、横に座って気持ちを伝えようとした。オミヤはそのことを察して涙を拭いたが、止まることは無く、俊蔵の話も水芭蕉を例えにしたので、どことなくぎこちなかった。

 突然、近くにいた鳥たちが一斉に飛びたったのである。誰かが近付いてきたことが分ると、二人は急に間を開け、平静を取り戻そうとした。

「おーい、オミヤ! それに俊蔵様ではないですか」

 世話役のゲンジであった。オミヤは泣き顔を拭きながら振り向くと、手に半紙を持っているのが見えた。オミヤがゲンジの方に走り出すのを見て、俊蔵はてっきり大橋市之助の手紙のことを話すものと思ったのである。

「ゲンジさん! 俊蔵様がお越しになられております」

「ああ! 良かったな。どうした。いきなり走って来て? 泣き顔をしているし」

「いえ、大丈夫! 驚かせてしまいましたか?」

「これ、拾ったって。オカヨがおれに渡したんだ。うちの田んぼに落ちていたって!」

 ゲンジが試し書きの半紙を差し出すと、オミヤは安堵した。

「すみませんでした! わたくしの書いたものです。風で飛ばされて」

「ああ! おまえの字だって分かったんで、届けるつもりでな。何て書いてあるか読めねえが、生きているような立派な字じゃねえか!」

 オミヤは、半紙を四つ折りにして何食わぬ顔で胸にしまった。その書き記した文の意味を問われることを恥じらったのである。その様子を見て、俊蔵が笑顔で近づいて来た。

「ゲンジさん! この前はお出でいただき、ありがとうございました。大橋様からのお手紙のこと、聞かれましたか?」

 俊蔵の問いかけにゲンジは合点がいかない。

「オミヤ! あの半紙は、その手紙じゃないし、何のことだ?」

「えっ、ええ! これです」

オミヤが胸にしまった袱紗包みを取り出すと、四つ折りの半紙と俊蔵に宛てた手紙が落ちてしまった。それを、慌てて拾おうとした。


●七 オミヤの笑顔

「それはわたしが! はやく読んであげて下さい」

 俊蔵の配慮に、オミヤの手は止まった。

 読み書きのできないゲンジに手紙を見せても、先に説明してから見せるのが自然な流れである。俊蔵が手に取った四つ折りの半紙は直ぐにオミヤが受け取り、俊蔵の手にはオミヤの手紙が残った。

「あー! 読みますので。では今から……はい!」

 一通り読み終えると、急にオミヤが笑い出した。

「どうしたんだ、オミヤ! 手紙に書いてあることは難しくてよく分かんねえが、大橋様のところで彦六(ひころく)とオタキと一緒にいられるんだろう。もっと、ありがたそうに読めって!」

「どうしました、オミヤ殿?」

 二人の心配をよそに、オミヤの笑いは止まらない。ゲンジは気まずそうに・・・

「おさっしのとおり、オミヤは俊蔵様のことを好いております。あまりの嬉しさに笑いが止まらず……ああ! オミヤ、もうよせって」

「はい! でも」

「ええ! あれー?」

 するとゲンジまで笑い出した。

「どうしたのですか?」

 俊蔵だけが笑いの元が分らない。ゲンジは、笑いをこらえてオミヤに指示した。

「おまえが取ってさしあげねーと! その手拭いで」

「はい! お顔をこちらに」

 そう言って近付くオミヤに、俊蔵は緊張しながらも山百合の香りを思い出したのだが、拭いたものを見て驚いた。

「これは、いや申し訳ないことを!」

 黄色い鼻汁が手拭いに残った。恥ずかしさを通り越して、一人の気の置けない男の姿が映し出されていた。じつはこれがオミヤの迷いを打ち消すこととなったのである。武士であり、豊かな才能に恵まれ、立派に成長した俊蔵との距離が一気に縮まる思い出の出来事となった。

 しばらくして、オミヤが湧き水で手拭いを洗っている間に、ゲンジが俊蔵に話しかけた。二人が座る座面の位置は、心の距離を現わしていた。

「俊蔵様! おれが言うのもなんですが、笑うとなんとも言えねえ優しい顔をする。でも、一旦、なにか起きると人が変わったように指図して」

「……はい!」

「気が強いのは、ご存じだと思いますが。よろしくお願いします」

 俊蔵は、ふと思い返し・・・

「ゲンジさん! オミヤ殿は、小さな頃からあのように周りの人から可愛がられて大きくなられたのですか?」

「そうですね! 生まれてすぐ、目鼻立ちや肌の色で異人の血が流れているから、何でも出来て賢いのが当たり前だと言われてきた。それが、いつの間にか村の者だけでなく、沢山の人から思われて。ありがたいことです」

「そうですか!」

「そう言えば、あの半紙の字は何て言うか、今まで見たことないようなあいつの字で、生きているみたいでしてね!」

「そうですね! たしかに字は書き慣れておられるし、達筆です」

 そう言って、俊蔵は手に持ったままの手紙を見ると、自分の名前が透けて見えた。彼は気になって開けようとすると、オミヤが声を掛けた。



第九章 千代に八千代に

●一 胸に残ったもの

「俊蔵様! それは、わたくしが俊蔵様に宛てた手紙でございます。あなた様にお気持ちを伝えようといたしましたが、どうしても満足いくものにはなりませんでした。わたくしは、おのれの気持ちが分かりません。ずっと迷っております。あなた様にまたお目にかかれて、夢のようで、どうしてよいか、どうお話してよいのか……!」

「それは、わたしも同じこと! わたしもオミヤ殿に手紙を書きましたが、途中で投げ出してしまた。それより早く会いたいと思い、今ここに来ております」

 二人の話を察し、ゲンジはその場を離れた。

 オミヤの胸に仕舞われた試し書きの半紙は、俊蔵が山古志に来たことによって未だ彼の目に留まることは無かったのである。しかし、それを見せなかったことで二人の行く末が変わろうとしていたかは定かではないが、その後、俊蔵は藩主牧野と妻子の身の安全を図るためという理由により、江戸の藩邸住みを言い渡されたのであった。

 藩邸住みは、幕府を取り巻く不穏な情勢から医術に長けた者が求められた。そして、武術、乗馬等をみても俊蔵が抜擢されたことは自然である。


●二 急ぎの祝言(しゅうげん)

 この内々の打診を知った里奉行、大橋市之助は異例の早さでオミヤの養女縁組を済ませ、俊蔵との婚礼を進めた。青木家は、本家一衛門、そして二左衛門が準備、根回しを行い、村松郷に山古志と城下から大勢の人が集まったのである。

 そして父、三右衛門は、江戸の中屋敷に俊蔵とオミヤの居所を整えるための挨拶回りに江戸に向かい、前日に戻っていた。なんとも見事な連携に、それぞれの想いが伝わる祝言となったのは言うまでもない。

 大橋家は太田川の左岸、青木家は右岸に位置しそれぞれの家の者は橋のたもとに分かれた。オミヤは家の神仏に礼を済ませ、見事な出で立ちで現れた。その歓喜は対岸の青木家にも届いていた。俊蔵もまた正装に身を纏い家から橋までの坂を下りる。

 大橋市之助を先頭に、母オタキに手を引かれ、オミヤがゆっくり坂を下りて行くのが涙を誘った。観衆は養女となってもオタキに介添えを勤めさせた想いをくみ取ったのである。

 村人は二人の馴初(なれそめ)を知っていて、幼なじみも多い。祝福の言葉に包まれ二人は橋のたもとに着いた。

 一つ間を置き口上が読み上げられ、川音と混じり心地が良い。

 オミヤは一歩一歩確かめるように、母と二人で橋を渡り始めた。その橋を渡れば二度と戻らないことを意味する。中央で待っている三右衛門まで進む姿に、何も言葉は要らなかった。

「我が家に嫁ぎし後、戻るときは二の橋にて戻られよ!」

 二の橋とは川の下流の橋のことで、嫁ぎ先から戻る際は死を意味するという仕来りの口上である。オミヤはこの返事に思いを込めた。

 一の橋の中央からオミヤとオタキが分れ、橋のたもとで二人が振り返る。しばらくの間、川音だけが響いていた。


●三 オミヤ卒倒(そっとう)

 祝言も無事に済んで半月ほどが過ぎた。俊蔵とオミヤは江戸に向けて必要なものの準備をしていた。江戸までは馬を仕立て、その馬番はあの太助が行うことになっていた。そして、奉公人の作五郎もしばらく江戸住みを言い渡されたのである。

「オミヤ様! 馬に乗られるのは初めてではないと俊蔵様から聞いておりますが、乗ってみられますか?」

 作五郎は、オミヤの様子を気にして声を掛けた。

「はい! まえに大橋様から小千谷の妙見周りで、山古志に連れて行ってもらったのが最後です。6年ほど前になります」

「そのまえは、どのくらいお乗りに?」

「はい! じつは、大橋様の馬の世話をしておりましたら、おまえも乗ってみるかと申されて、ときどき男の格好をして乗っておりました」

「えっ! もしかして、親戚のお子と遠乗りに行っておられたのは、オミヤ様ですか?」

「はい! 作五郎さんとは何度か会っておりました」

 作五郎は、馬の扱いや乗る姿に感心したことを思い出し、すぐに馬を仕立てた。

「オミヤ様! 江戸に連れて行くのはこの雄と、馬番が仕立てるもう一頭にいたします。旦那様がこの前行ったときにお伴いたしましたが、一番の峠はかなりのものでした」

 オミヤは遠慮もあったが、久々の乗馬にこれに応じた。

 俊蔵と作五郎が見守る中、オミヤが手綱(たづな)を持って馬の首をなでていた。手慣れた手つきに馬は落ち着いて見えたが、次の瞬間馬が離れた。

「オミヤ、どうした?!」

「オミヤ様! ああ、馬はわたくしが」

 オミヤが馬の方に倒れ掛かるのを見て、俊蔵が抱きかかえ、作五郎が馬をなだめた。

「気を失っておる。早く母屋へ!」

 騒ぎを聞きつけ、三右衛門が駆け付けた。

「俊蔵! 気を失ったのか? うむ、これは」

 オミヤの口に吐物が付いていた。

「俊蔵! いま、大橋様のところに西野が来ている。先ほどわしも行って来た。すぐに呼んで来い。すぐにだ!」

「はい!」

 偶然にも、藩医西野が大橋市之助と三右衛門に、江戸での俊蔵の医術習得先の紹介状を持参した時であった。


●四 オミヤ懐妊

 西野が駆け付けると、オミヤは意識が戻っていて、すぐに人払いを願った。

「いかがいたした、オミヤ?」

「西野様! ごぶさたいたしております。しばらく食事が進まず月のものも未だでございます」

「そうか! もしや、心当たりは?」

 ひそひそと話す西野とオミヤを、俊蔵は心配していたたまれずにいた。それを、三衛門が笑った。

「俊蔵! 落ち着け。分からなかったのか、オミヤの容態を?!」

「申し訳ございません。このような大事な時に」

「まあ、よい! おそらくだが、おまえは一人で江戸住みになろう」

「はい! いろいろオミヤに苦労をかけ過ぎました」

「あー、もうよい! 西野に聞いてこい」

 俊蔵があわてて、奥の襖を開けていなくなると、作五郎も笑いながら・・・

「旦那様! もしかして」

「そう言うことじゃ」

 しばらくして俊蔵は、満面の笑みを浮かべながら戻ってきた。そして、この突然の出来事の責任が自分にあると謝ったのである。まさに、オミヤ懐妊のときの話であった。

 とはいえ、オミヤ懐妊によって江戸での暮らし向きは予定を変えざるを得ないと思われた。しかし、そこは大橋家と青木家の間柄。じつは俊蔵の母のトシと大橋市之助の妻ヨウは従妹同士である。その日のうちに先々の話が進み、この突然の出来事は丸く収まったのであった。

 トシとヨウが話す場に俊蔵が呼び出された。

「俊蔵! ヨウ様にお礼を申し上げて」

「この度は、わたくしとご一緒に江戸に行っていただけますことを、かたじけなく思います」

 オミヤの代わりに、ヨウが江戸に行くことになったのである。

「大丈夫ですよ! 俊蔵さんとお伴が出来て。それに、奥方様とは10年ぶりです」

 大橋市之助と妻のヨウは、江戸の藩邸にいたときに知り合い結婚したのである。藩士の妻子が住む中屋敷で長年奉公していたヨウは、まさにオミヤに代わる適任であった。

そしてオミヤは、大橋家の奉公人となった父母のもとで、里帰りをして出産を迎えることとなったのである。これも、思い返せば大きな時代の一コマに過ぎないが、越後長岡の人々の絆の深さと我慢強さを物語っている。

 まさに、時は1863年6月。戊辰戦争のうち激戦となった長岡北越戦争のちょうど5年前のことであった。



第十章 御前候へば

●一 はじめての江戸

 江戸は治安の悪化が心配されたが、俊蔵は精力的に仕事に励んだ。しかし、どこに行っても人が多く、町人たちは方言を口にする侍を見下すような態度をとる。また、道を歩いていて初めて乞食(こじき)というものを見て、俊蔵は不思議に思った。

 俊蔵とヨウが愛宕下の中屋敷から渋谷の下屋敷に行く途中のことであった。

「ヨウ様! あの者は病なのですか?」

「ああ! 江戸にはあのような者が物乞いをしております。長岡は雪が降る故、生きてはゆけませぬが、ここでは人から物をもらったり、捨てたものを拾って生きることがかないます」

「あれは?」

「急ぎ、道を変えまする」

 二人は、赤坂方面に道を変えた。

高輪の東禅寺公司館から来たと思われる異人の行列が、後ろから近づいて来たのだった。すると物乞いの子供が道を遮ったのである。

「どけい! 邪魔だ」

 警護の侍が、その子供を足蹴にした。それを(かば)う女が背中を斬られたのである。俊蔵は道を戻り、その女のところで背中の医術道具から(さらし)とアルコホールの瓶を取り出した。

「きさま、どこの家臣じゃ!? 道を開けろ」

 俊蔵は無言のまま、女の着物を脱がし傷口の状態を見ていた。騒ぎを聞いて人が集まって来る。ヨウも俊蔵の手当てを手伝い始めた。

「はやく退けい! お前たちもこうなりたいか?」

「オーマイガー! まってください。おさむらいさんたち」

 通訳の佐藤だった。見た目は異人であるが、顔立ちは日本人という彼の姿に俊蔵は驚いた。佐藤は馬上の大柄な白人に、聞いたこともない言葉で話しかけていた。俊蔵が聞いた初めての英語である。

警護の侍に佐藤が説明している間に、馬から下りた白人が俊蔵に近づいて来た。俊蔵も背丈は六尺に近いが、それを超える体躯である。

その白人は、(さらし)をいとも簡単に手で割き、アルコホールの瓶を手に取って匂いを嗅いだ。

「オー、グーッ、エルコー! ジャスッ、ピュアー(これは濃度の高いアルコールだ)」

 白人は嗅いだアルコールで(むせ)ながら、それを浸した(さらし)で傷口を拭き、丸めた片方の(さらし)を傷口に押し当て、さらに欲しがった。一瞬の驚きと頷きの後に、ヨウが渡したのである。

彼の名は、ウイリアム・ウイリス。イギリス人医師で当時の外科の最新処置を日本に伝えた一人である。

 これをきっかけに、俊蔵は時折、愛宕下の中屋敷から高輪の公使館まで医術を学びに出かけた。長岡藩とイギリスの関係はその頃から緊密さを増したのであった。


●二 時代の波

 俊蔵は月に一度はオミヤに手紙を書いた。その返事には、いつも手形が付けられていた。長男俊貞(としさだ)の成長の証である。その手形は、屋敷の紅葉から朝顔に例えを変えたころを最後に、手紙を書くことが禁止されたのである。

 俊蔵が、当時高輪の東禅寺にあったイギリス公使館で、誤射による被弾摘出手術の助手を務め帰り支度をしていたとき、ウイリスから話があると引き留められた。その頃には、通訳を介さなくてもある程度の会話は出来るようになっていた。

 その内容は、軍医となっても医術を磨くことは出来ないと言うものであった。医者が本当に救える命は戦場にはなく、死を看取るだけの者と手を掛ければ救えるものを、何の根拠もなく一瞬で自分が決めなければならない。そう言われたのである。

「ユウ、マスッ、ゴウ、ホーム!(実家に帰るべきだ)……そう! ヨウ、カンチュリー、ウィル、ビー、ウオ(長岡は戦場になる)」

「アイ、ノウ(わかっています) バッツ、アイアム、さむらい……サンキュウ、サア(でも、わたしは侍です。ありがとうございます)」

「ノー! ユア、リリ、グッ、ドクター(違う、とてもいい医者だ) ユ、ニードイン、オールジャパン(君は日本全体から必要とされる) アイ、ビリーブ(間違いない)」

 ウイリアム・ウイルスからそう言われたのは、1867年11月の末である。彼は幕府から鳥羽伏見の戦いに協力を求められ、それを断ろうと考えていたのであった。同年11月9日には大政奉還が行われ、江戸の治安は更に悪化し、藩主牧野忠訓と妻子や主だった家臣はすでに長岡に戻っていたのである。

 当時俊蔵は、当時家老に就任していた河井継之助から、江戸藩邸の資材を売却して火砲の購入にあてる担当の一人として最後まで江戸に残ることとなっていた。年が明け、彼は中屋敷を引き払う際に山となっていたオミヤからの手紙を焼き払うことにした。しかし、どうしても処分できなかった手紙が『御前候へば 千代に八千代に古志の里』と書かれた半紙である。

 その半紙は、俊蔵が江戸に向け村松を出るときに、彼が初めてオミヤの作った昼飯を食べたときの箸を包んだものであった。その箸を江戸にいる間、使い続けていたのである。

 すでに色褪せた四つ折りを、さらに折り込んでお守り代わりの子袋に入れていたのではあるが、どうしてもふたたび開いて字を確かめていた。


●三 薩長軍の蛮行

 俊蔵等が長岡に向けて江戸を出たのは、五月の末のことである。進軍を続ける薩長軍とは別の経路を選んだものの、やはり長岡藩士に対する警戒は厳しく、予想以上に手間取っていた。そのため、上州水上を過ぎたあたりで道が一つになるところで、薩長軍に追いつかれてしまったのである。

 すでに三国峠に向け、本隊の経路には敵軍の奇襲を警戒して斥候隊(せっこうたい)が進軍し、後ろには補給隊が順次続くとみられ身動きが取れなかったのである。

 さらに薩長軍は、軍に加わった下級藩士や浪人がいて所々で略奪や婦女暴行、殺害を繰り返しており、俊蔵等もその有り様に焦りを感じていた。そして、俊蔵の判断により薩長軍に成りすます策を決行したのである。

 予想どおり、夜になって水上の家々に薩長軍の悪行の手が伸びた。俊蔵等が宿泊を求めた宿屋にも酔って狼藉をはたらく者が三人。それを待つ俊蔵、そして三島、内田の三人が二階で待ち伏せをしている。この策が失敗した場合も考え、俊蔵は残る三人を別の部屋で控えに据えた。

宿屋の娘を三人が襲って、主人が金を脅し取られている声がした。

「おい! 客は上か?」

 主人は怯えながら返事をすると、階段を上がる音がした。

「……!」

階段を上がり切ったところで、待ち伏せをしていた俊蔵が男の口をふさぎ首の骨を折った。三島と内田がすかさず部屋に引き入れ着物を脱がした。

「おい! 銭は持っていたか? 女はいたのか?」

 別の男が階段を上がって来ると、ふたたび・・・

「……!」

「着替えた。ちょうどよい。おまえは入らぬと思う」

 内田が小声で話しながら下りて行った。手招きで三島を呼んだ。

「よし!」

「……! 下りてきていいぞ」

 三島の声に俊蔵は階段を下りた。そこには、ズボンを脱ぎ棄て下半身を出したままの大柄な男がうつ伏せに倒れ、その下に首を絞められた女がいた。強姦をした後に殺害されたのである。

「これが維新というのか? 服を脱がすのもけがらわしい」

 俊蔵が吐き捨てた言葉に、主人は泣き崩れた。

 成りすました三人は、他の宿屋に押し入った者をいとも簡単に殺害し、服を奪って残りの仲間に着替えさせ、何食わぬ顔で本陣わきの宿営地に入り行軍に加わったのである。薩長軍の身形に合わせて笠を被ると、容易に成りすますことができたのである。


●四 誤認逮捕

 国境の峠越えに三日を要した。それほどの難所の坂ではあるが、俊蔵には山古志の坂の思い出がよみがえり苦にならなかった。また、三島は峠の先の湯沢に縁があり、内田はその先の小出の出身であり、六人の一行からは一人、また一人と姿を消していった。

 俊蔵は、内田と一緒に小出の川猟師の家を訪ね、船を借りて魚野川を下ることにした。この川の先は信濃川に注ぎ、さらに一里ほどで山古志に向かう妙見谷が見えてくる。そしてその先が太田川であった。

 二人は、夕暮れと同時に船を水路に運び川の流れに乗った。(わら)の中に身を隠し、あたかも誤って止め縄がほどけた様に装うためである。櫓は藁下(わらした)に隠し、誰も乗っていないように見せる。おぼろ月夜に船は流れ下った。

「おい、青木! 行き過ぎた。起きろ」

「はあ! どの辺ですか?」

「分からぬ! 見たこともない景色だ」

 俊蔵と内田は、船の上で眠ってしまったのである。急いで櫓を据え、内田が支流の川に船を向けた。信濃川の流れは予想以上に早く、岸にも寄り付き先が見付からなかったのである。

「あった。あそこに着けるぞ!」

 内田はそう言いながら、俊蔵に(もやい)を投げた。小さな水車小屋に、木の渡しが迫り出していて手ごろな場所であった。船を下りて辺りを見回すと一面に水田が広がり、その先に弥彦山が微かに浮かんでいた。広大な越後平野の目印は、日本海に接して(そび)え立つこの山で見当がつくのである。

「とりあえず、近くの家まで行くしかないな!」

「ああ! 腹も減ったし喉が渇いた」

 二人は、あぜ道を川猟師から借りた百姓の着物で歩いていた。稲は、まだ一尺に満たない。二人の姿は遠くから見ても百姓の歩き方ではなく、腰に刀を差しているのが見て取れる。

 家に近づくと馬の鳴き声が聞こえた。武家の屋敷ではないと思えたが、家主と見える男が二人を指さしたので、そのまま屋敷の中に入って行った。

「この者どもです!」

「動くな! おとなしくしろ」

 10人ほどの百姓に交じって侍が3人、俊蔵と内田を取り囲んだ。

「その恰好は怪しい。何をしておる?」

 二人は事情を話し、乗ってきた船を検めることとなった。さらに侍の数が増し、縄を打たれた。

「この船か? 中を調べろ」

 俊蔵は後悔した。薩長の斥候隊に見つかったときのことを考えて、編み笠と隊服を船に積んできたのである。

「これは何だ?」

 いくら事情を説明しても理解に至らず、とうとう奉行所まで連れて行かれることになったのである。そこは新潟にほど近い白根という地であった。


●五 新潟奉行所の謀

 護送先は新潟の奉行所で、幕府の役人が取り仕切っていた。特に、薩摩に対しては不当な交易を新潟で行い不当な利益を得たということを見逃したとされ、奉行所での扱いは乱暴そのもの。俊蔵と内田は再三にわたる申し出を無視されたのである。二人は焦った。すでに拘束されて10日が過ぎ、薩長軍は長岡に到達していることは間違いないと思われたのである。

 すると、隣の牢にいた男が話しかけてきた。

「失礼だが、お二人は長岡藩士か?」

 男は、加藤徳介(かとうのりすけ)と名乗った。オミヤの母オタキを無実の罪に陥れた男である。その男は薩摩の交易に加担したことが発覚し、佐渡の島送りが決まっていた。加藤は俊蔵と内田にこう言い寄った。

「おれは、奉行所に知り合いがいる。素性も知れているから長岡にいたことも分かっている。おまえたちが知っている者の話をすれば、おれとの関係が解りあいつらも長岡に使いを出す。そっちの体のでかい方が青木といったな?」

「はい!」

「おれが知っている青木は、真ん中と右と左だ!」

 俊蔵はこの暗示に反応した。

「右は三右衛門! 嫡男です」

「ほう! 確かなようだな。では、口利きの代償は一緒に長岡に行くことにして、途中でおれはいなくなる。それでどうだ?」

 俊蔵にはこの男の腹が見えていた。怒りがこみ上げ、いまにも首をへし折りたいと思ったが、内田と相談すると言って間を空けた。耳打ちの内容に内田は頷いた。

 その五日後、奉行所に三頭の馬が備えられ、俊蔵、内田は長岡に向かい、加藤は馬に乗るところをまた捕らえられたのである。すでに戦いは始まっていた。


●六 契りの水

 馬を走らせ夜になると、南の空が赤く染まっていた。さらに走ると、焼けこげた匂いが鼻を刺した。

「内田! おそかったか」

「いや、諦めるのは未だじゃ!」

「この先には薩長がいる。どうする?」

 俊蔵の言葉を内田は無視した。

「待て、内田!」

 内田の姿は、夜の闇に消えた。

俊蔵はこうなるという予感がしたが、あえて口にしなかったのである。ゆっくり馬を止め目を閉じると涙が頬を伝った。内田京之介、享年28歳のことである。

 俊蔵は長岡の手前で左に道を変え、栃尾を目指した。その先には山古志がある。途中で敗走する者が何人もいたが、目もくれずに山道を進んだ。その姿に敗戦は疑う余地は無かったのである。

 深夜になっても長岡城下の火勢は衰えることは無く、俊蔵は山道で何度も振り返った。途中で馬の動きが落ちると、彼は下りて休ませた。彼の心には、自分のために走らせてきた馬が愛おしく思えたからである。

 しばらく馬を引き、会津に至る道と山古志に至る分かれ道に差し掛かると、彼は馬を置いて歩き始めた。すでに馬は足を痛めて歩くことすらままならなかったからだ。

東の山陰に朝日が昇り始めたころ、霧のような煙が漂ってきた。西には山の向うが赤々としていて、城下が焼き討ちにあった煙だと分かった。そこには死臭も混じり、深く吸い込むと吐き気がした。

「どれだけ死んだら気がすむ。薩長はどれだけ殺せば止めるんかい?!」

 彼は、憎しみと怒りを力に変えて歩き続けていた。

 上りが終わり、なだらかな下り坂になったところで遠くに見慣れた集落が見えてきた。しかし、そこに彼の目指すものがあるかは分からない。ただひたすら歩き、坂を下った。

懐かしいはずの庄やの家は、すでに怪我人であふれていたが、彼は何かに吸い寄せられるようにさらに坂を下った。

 足取りが徐々に早くなった。

「オミヤ!?」

 湧き水の座面に人影が見えた。

「オミヤ! いま帰ったぞ」

「俊蔵様?……俊蔵様!」

 オミヤは、村松方面から逃げてくる人達の手当てをしていたのだ。

「オミヤ! その着物は……」

「はい! 伯母上様からお預かりしていたものでございます」

「ああ、分かっておる!」

 オミヤは、死ぬ覚悟をしてあの初文の竹の行李に入った着物を着ていた。仮に彼女がどの様な亡骸になっても、俊蔵が見分けられるようにと思ったからである。

「無事か?!」

「はい、みな無事です! 俊成としなり、お父上ですぞ!」

「良かった」

 水はあの時のまま、その流れを残していた。



――――《》完《》――――


                       作者:Kazu.Nagasawa




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