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宵の灰、明けの黒

作者: F.ニコラス
掲載日:2022/06/25

 俺は誰かに手を引かれて歩いていた。


 灰色の空の下、灰色の地面の上、灰色の建物の間。

 あまり気は進まなかったが、前を行く誰かがぐいぐいと俺の手を引っ張るので、致し方なく歩を進めていた。


「――――」


 誰かが少しだけこちらを向いて、何かを言う。

 よく聞こえなかったが、俺は「ああ」と生返事をした。


 ここは大通りのようであったが、車はおろか歩行者すらいない。

 辺りには、ただぬるい空気だけが沈殿している。


 俺は視線を横にずらした。


 建物はどれも似た形だ。

 定規で線を引いたように四角く、通せんぼをしているように高く、皆一様に肩を並べて佇んでいる。


 道のわきの電柱もまた、等間隔で植えられ電線で繋がれていた。

 ずっと同じ姿勢で立っていなければならないなんて、コンクリートの棒切れも大変なものだ。


 感心して、俺はまた前に目を向ける。

 誰かは相変わらず、俺の手を掴んで黙々と歩いていた。


 俺はその姿をよく見ようと目を凝らすが、どうも焦点が合わない。


 周囲の景色と、誰かを交互に見る。

 焦点を合わせられないのは誰かだけで、他のものはちゃんと鮮明に映った。


 不便だな、と俺は思う。

 俺は、目の前の誰かを知ってはいたが、知っている人間のうち誰だったかが思い出せないでいた。


 顔を見ればわかるかもしれないが、焦点が合わないのでは仕様がない。


「烏だ」


 俺は言う。

 次いで空を見上げると、そこには烏がいた。


 烏はばたばたと忙しなく翼を動かし、どこかへ飛んで行くところらしい。

 なんとなく目で追っていると、突然、空に大きな手が現れ、あっという間に烏を握りつぶしてしまった。


 手は握りこぶしを作った状態のまま、ふっと消える。

 前の誰かに視線を戻すと、その手が烏の首を引っ掴んでいた。


「お前か」


 短く問う。


「――――」


 誰かはまた少しだけ振り返って何かを言い、烏をその場に捨てた。


 やはり誰かの言葉は聞き取れなかったが、今回のは意味だけわかった。

 「見るな」と言ったのだ。


 俺は妙に納得し、地面に放られた烏を見るのはやめにした。


 灰色だった空が、徐々に黒くなっていく。

 空が黒くなるので、地面と建物も黒くなる。


 それに呼応するかのように、電柱に付いたライトがちかちかと瞬きながら目を開ける。


 沈殿した空気がじわりと蠢いた気がした。


 俺はなんだか落ち着かず、依然として手を引き続ける誰かに問いかける。


「次はだれを殺したらいい?」


「違うよ」


 初めて、誰かの声がはっきりと聞こえた。


 そうか。

 そうだったな。

 確かに、お前は違う。


 口を閉じ、俺は静寂に耳を傾ける。


 2人で歩いているのに、足音はちっとも聞こえない。

 これではまるで幽霊だ。


 俺は誰かと一緒に、どんどん先へと進んで行く。

 代り映えのしない景色が、前から後ろへと流れて行く。


 途中で何度か、空から動く何かが降りてくるのが視界に入ったが、誰かに見るなと言われたことを思い出し、いずれもすぐに目を逸らした。


 どれくらい歩いたろうか。

 俺たちはとうとう、一番端に辿り着いた。


 前の誰かが立ち止まったので、俺もつられて足を止める。


 焦点が合わない誰かをちらりと見てから、目の前に広がる光景をまじまじと眺めた。


 一番、端。

 終わりの場所。


 今まで続いていた道は途切れ、数歩先は崖になっている。

 崖から先の空間には真っ黒い闇がなみなみと注がれており、踏み入ったら戻って来られないであろうことは想像に難くない。


 空は黒、地面も黒、建物も黒、崖の先も黒。

 隣に立つ電柱のライトだけが白い光を落とし、かろうじてここに反射するものが、地面があるということを示している。


「帰ろう」


 俺は誰かに向かって言う。


 たぶん、今は夜だ。

 夜なのであれば、家に帰らなければならない。


 だって夜は怖いものだ。

 無防備に出歩いていたら、どんな目に遭うかわからない。


 先ほどまでずっと引かれていた手を、今度は俺の方が引く。


 早く、早く帰ろう。


 踵を返そうとしたところで、しかし誰かはまた俺の手を引き始めた。

 この先へ進もうというのだろうか。


 俺は踏ん張り、そちらへは行くまいと抵抗する。


「まだやることがある」


「いや、無い。ここにはもう何も無い」


 説得しようとする俺の言葉を一蹴して、誰かはぐいぐいと俺の手を引っ張りながら崖に近付いて行く。


 誰かは俺よりも背が低いはずだったが、なぜか力は俺よりも強かった。


「なんでそっちに行くんだ」


「なんでも」


「行きたくない」


「駄目」


「行きたくない! 俺はここで」


 言い終える前に、頬に衝撃が走る。


 ぶれる視界。

 じん、という痛み。


 遅れて、俺は誰かに殴られたのだと気付いた。


「もう朝だ」


 誰かは言う。


 瞬間、今まで合わなかった焦点が合い、誰かの姿が鮮明に目に映った。

 嫌というほどに、見知った姿だった。


「なんだ、お前か」


 俺は安堵し、笑う。


 誰かは無表情だったが、それでも少し笑ったようであった。


 それならばもう、拒むことは無い。

 手を引かれるままに、俺は前へと進む。


 改めて、眼前の闇を見てみた。

 なるほどそれは、闇は闇でも、夜明け前の闇であった。


 俺たちは仲良く同時に、崖の先へと足を踏み出す。

 つま先にひやりとした感覚があり、次第にそれは体全体を包み込んだ。


 視界が黒一色になり、途端に眠気が襲ってくる。

 自分がほどけてバラバラの糸になり、黒の中に溶けていく。


 それでも隣にいる誰かの手の感触だけは、最後まで残っていた。



* * *



 泡が水面に浮かんではじけるように、俺は目を覚ました。


 何の変哲もないアパートの一室。

 丸机がひとつあるだけの、殺風景な部屋。


 そこに俺は佇んでいた。


「おはよう」


 はていつからこうしていただろうかと首を傾げていると、横から声が飛んでくる。

 見ると少年が1人、腕組みをして立っていた。


 その顔は、いつも通りの無表情だ。


「ああ、おはよう」


 俺はそちらへ体を向け、応える。


「俺は寝てたのか?」


「寝てたんじゃない? いま起きたんだから」


 それもそうだ。

 起きる前は眠っていたに決まっている。


「何にせよ、殴っても起きないほどじゃなくてよかったよ」


「殴ったのか」


「さあ?」


 その言い方は絶対に殴っただろう、と思い、俺は体に痛む場所がないかを探る。

 が、予想に反して痛むところはおろか、違和感のあるところすら無かった。


「殴ってないのか」


「さあ?」


 同じ調子で、同じ言葉を返してくる。

 どうあっても答える気がないらしい。


 俺が訝しげな目線を送っていると、これ以上の追及はお断りとばかりに彼は口を開いた。


「いいから早くおいで。今日は買い出しに行く予定でしょ」


「げ、忘れてた」


「……まったく、世話の焼ける」


 少年は軽く息を吐き、さっさと部屋を出て行く。


 置いて行かれてはかなわない。

 俺は慌てて、彼の後を追うのであった。


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