~ながめのプロローグ~
プロローグのプロローグ:『ゆうしゃ』の正体
ヒトは自分より『弱い』ヤツが好きだ。
弱い奴には何をやっても赦される。
傷付けられる。奪える。踏み躙れる。利用出来る。隷属させられる。殺せる。
社会的な一番の『弱さ』とは何で決まるか?
年齢。性別。学歴、職歴、職業、親の持つそれら。出身地。疾患、障害の有無。容姿。マイノリティ………………否。
如何に『持っていない』かだ。
その点、『奴隷』は間違いなく最弱の存在だろう。
法治国家に於いて、戸籍を、つまりは人権を持っていないのだから。
文字通り、何をしたって赦される。
傷付けて、奪って、踏み躙って、犯して、殺して、利用出来る、何をしてもいいモノ。
思うに、だから『奴隷』は生み出されたのだろう。
矮小な自尊心を、手っ取り早く満たせる道具として。
安い陶酔に浸っていれば、その間だけは忘れられるだろうから。
そうしている一瞬後にも、自分が奪われる側に回るかもしれない、安っぽくて矮小な恐怖を。
冬の冷たい雨が好きだ。
体温を奪われて、かじかんで思うように動かなくなった体に、死んだ自分を重ねる。
それを観測したとき、自分が生きていることを再確認する。
それが、歌いだしたくなる程に、踊りだしたくなるほどに嬉しい。
死にたくなる程の自己嫌悪も、死にかけている間だけは薄れるから。
だから、冬の雨が、冷たい雨が好きだ。
その筈なんだ。
「………………」
服が重い。貼り付いて気持ち悪い。
そこは荒野だった。喜多島穣はそこに独り立ち尽くしている。土砂降りの雨の中、呼吸は浅く、吐く息は白く煙っている。
――違う。鼻腔は、肺は、様々な匂いの混ざった空気で満たされている。虚ろな目で、彼が見下ろすその手には、砂粒程度の汚れしか、今は付いていない。
重いのは服じゃない。貼り付いて気持ち悪いのも服じゃない。
「…………」
掌の向こうが、視界にぼんやりと納まっている。そこには人が倒れている。
彼が殺した人が、下の土が見えない程に、無数に野晒しにされている。
奪った命が重い。他人の『死』が、『生』が纏わりついて気持ち悪い。
死が蔓延する世界に於いて、唯一人、自分が生きていることが、不快で仕方がない。
「死にたい」
掠れた声で、彼自身にも聞き取れない程に小さく、ちいさく彼はそう呟いた。
「――これほどまでとはな…………」
荒れ地と化した戦場を、遠く丘の頂より睥睨していた、騎士ミカエラは口元を覆い感嘆に呻いた。
「『勇者』は『憑獣術』との相性が良いことは、幾つもの文献に記されていましたが、まさかこれほどまでの差があるとは。百聞は一見に如かず、ですね」
彼女の傍らで、参謀ゲルハルトが眼鏡を直しながら、特段驚きも喜びもしていない様子で呟いた。
「その勇者は、どうなった?」
ミカエラの問いに、ゲルハルトは金属製の板と取り出し見やる。ドッグタグに似たそれが一体何を示すのか、彼は一瞥した後、簡潔に応える。
「まだ使えるようです」
まるで消耗品の残量でも確認しただけのような口振り。紛いなりにも一個の人間を、粗雑に扱う彼に、ミカエラは眉一つ動かさない。
「そうか」
遠くを見つめるその顔には、やはり『他人』への配慮の色など微塵も見えない。
「次はどう使うか」その面持ちから窺える『勇者』への思考は、その程度にしかないように思われた。
「引き上げるぞ。陛下に、良い報告が出来る」
「捕虜は如何いたしますか」
踵を返すミカエラの背に、ゲルハルトの無感動な声が掛かる。彼はまだ戦場を俯瞰している。
「いつも通りに。尤も、生き残りがいれば、の話だがな」
追跡も同様に。幌を潜りながら、彼女は背中越しにそう告げ、不意に足を止めた。
「――それと、『厩舎』に話を通しておいて欲しい」
「畏まりました」
終始その声に、感情の熱が籠ることのないままにゲルハルトは応え、ミカエラは今度こそテントを出ていった。
「聴いていた通りです。追跡は後回しに。今戦に投入した『勇者』の回収を最優先に行って下さい。抵抗するようであれば、麻酔の使用も許可します」
やはり冷淡に、ゲルハルトは控えていた兵達にそう、命を下す。短い返事の後、彼等は逃げるようにその場を去る。ゲルハルトにそれを気にする素振りは無かった。
かつて一人の男が、この世界にふらりと現れ、帰依した国に於いて、多大な功績を残した。
それを皮切りに、かねてより散見されていた『異なる者』の足跡が見直されるようになり、そしていつからか、『異なる者』は恩恵を齎す者として『勇者』と、その呼称を改められた。
『勇者』とは奉ずる者。尽くす者。立ち向かう者。忘れた頃に迷い込んで来る者達を、やがて人々は積極的に利用するようになる。
戸籍を持たぬ者。繋がりを持たぬ者。知識を持たぬ者。過去を持たぬ者。纏ろわぬ者。
それは、奴隷と何が異なるのか。
かくて勇者は、戦を運命付けられることとなった。
そしてまた、ひとり――