誰ガ為ノ独リ言
「今まで本当に、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。と、言いたいところですが――」
ぐいと大袈裟に時計を見上げてやれば、園長もまたわざとらしく微笑んでみせた。
「ええそうです、そうでした。今日はまだこれからなんです。いやはや、どうにも落ち着きがなく……申し訳ない」
「いえいえ。私も最後まで勤めを果たしたいと思えばこそ、どうしてなかなか……」
「想えば長い歳月を、ここで共に歩んできましたから……」
しんと深い静寂。齢七十を超えた者同士、であるが故のものなのだろうか。
このままでは感化されてしまう――などと巡らせるほどに、私の、或いは互いの瞳は潤みを増しゆくばかり。
「……いつまでも浸っているわけにはいきませんね。それじゃあ最後のお勤めではありますが、今日も元気よく、がんばりましょう」
「ええ。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします――――」
遠く青々と広がる空、頬を撫で抜ける春風、ゆるりと行き交う観覧の群れ。こちら側からみるいつもの風景。
「いよいよ、か……」
ふと、己のなにかを嘲笑うように、きざったらしく鼻を鳴らしてみる。しかし、高きに望む太陽はいつもの涼しげな顔で一向にどこを見るでもない。
「まったく。最後くらい、こんな私を笑ってくれてもいいだろうに」
誰に届くでもない独り言。開園から閉園までの、私だけの言葉あそび。誰に邪魔されることもない心の吐露。
「それもまた、今日で最後なのだな――――」
私が動物園のゴリラをやるようになってから早数十年。日当たりの良い芝生も、ひんやりとした檻の中も、愉快な視線に、或いは物珍しそうな視線も。そして熟し切っていないこのバナナでさえも。
これらの全てが、今日で最後なのだ。
「まさか私がゴリラだなんてな。こう面白いこともあるものだ」
ゴリラをやるということ。
それが家族との別れを受け入れ、しかし消沈の底に在った私に舞い込んできた仕事だった。
閉園までの長くはない拘束時間、土日や祝日を除いた自由な勤務形態。慰謝料に養育費を抱えながらもゆとりを持てる給与。決して悪い話ではなかった。
もう失敗はしたくない。そう思えばこそ、だからこそ慎重にことを運ぶ、つもりだった――――。
『それでゴリラをするというのは、ゴリラの飼育員ということで間違いないでしょうか?』
『いえいえ。あなたには文字通り、我が園のゴリラになっていただきたいのです』
『ゴリラになる? 私が、ですか?』
『ええ』
『つまるところ、着ぐるみを着て檻に入れと? ……失礼ですがそれは余りにも常軌を逸脱しています。幼い子供ばかり相手取るならまだしも、これほど大きな動物園でそのような……』
“ やはりか ”
四十を超え失意の中に舞い込んだ良い話。それがあまりに眩しく感じられただけのこと。蓋を開けてみればなんということもない。
私は静かに荷物をまとめ、矢継ぎ早に一礼をした。
「なのにどうして、私は柵の内に居るものか」
“ ひと月勤めれば言い値を払う ”
踵を返した背中にかけられた言葉。大きく揺らいだ私の心が、この指先を契約書へと走らせていた。
まったく、人間とは現金なものである。
初めて見上げたこちらからの空は、今日と似たような色をしていた。着の身着のまま入れられた檻の中、不安と不信に打ちひしがれる私の心、私の身体。それはそれは産まれたての子鹿のように。
『ただ檻に入っているだけでかまいません』
後悔しかなかった。まさか着ぐるみすら与えられないなどとは露にも思わなかった。
こんな格好で、こんな状態でなにが務まるはずもない。ましてやゴリラなどと。そこに在るのはこれから奇異の目を向けられるであろう中年男の、憂を帯びた背中がひとつ。ただのそれだけ。
いや……それだけのはずだった。
『あのゴリラ、全然元気がないね』
『こっち向いた! お母さん、ゴリラがこっち向いてるよ!』
だがそんな私に向けられた目は、私の期待を明らかに裏切ろうというものだった。
開園して間もなく訪れたひと組の家族連れ。まだ学校にも上がっていないであろう童の戯言。しかし妙に、なににつっかえることのない声色。
私を、ただくたびれて震えるだけの男を、まるでゴリラなのだと信じきっているかのような。
思えば飼育員連中。彼らの言動にも引っかかるものがあった。檻に入る際に掛けられた言葉はまごうことなき人間に対する労いのもの。だが開園のベルが鳴り喚くと同時に、その様相は些かの変貌を遂げたようにも感じた。
『…………まさか、な』
私の視界に在るこの腕も、或いは水場に映る私の顔も。それらの全てが、どう見ても己は人間であると強く強く物語っている。しかしながら、私を除いた全ての人間たちは私をゴリラだと認識している。確実にそうとしか思えない目を向けている。
そして閉園のベルが鳴るやいなや、やはり皆が皆私を人間扱いしてくるのである。ついぞ先ほどまで私にバナナを与えていた者も、園外ですれ違う人々も皆一様に。
こんな馬鹿な話があるか。檻に入っただけで、ベルが鳴り響いただけで一人が一頭になろうはずがない。
皆で私を謀っているのか、或いはいよいよ気がふれてしまったのか……あの時は本気で頭を抱えたものだ。
そんな私がこの現実をすんなりと受け入れたのもまた、ある意味で現実的な話といえる。もはや失うものなど無いと諦めかけていたところに振り込まれたものを見て『こんなこともあるものか』と。
そんな形で始まったゴリラとしての暮らしは……いや、時間分の給与を貰って勤めているわけであるから暮らしというよりサラリーマンのそれと変わりないが、ともかくこの生活は悪いものではなかった。無論待遇面でのことも大きかったが、なによりも柵の中、これが思いの外快適だった。
芝生や檻はいつも清潔に保たれており、荒んだ食を潤してくれる野菜に果物、気軽で適度に身体を動かせる設備。そして、煩わしさのない職場環境。
そこに従来のめんどうくさい人間関係など存在し得ない。私は開園と同時にゴリラに成り、園の者らは疑うそぶりも無く私をゴリラとし、愛犬かなにかのように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるばかり。
つまりここでの関係はあくまで動物園のゴリラと飼育員であり、人付き合いに苦手意識を抱いていた私にとってこれは願ってもない環境だったといえよう。
また、向上心が強いことや義理堅いことも良い方向に作用した。
如何に無条件でゴリラだと認識されようとも、内面的に人間であることには変わりない。周囲の者が真面目に仕事をこなす中に在って、私一人が胡座をかくわけにはいかない。ならばこそ仕草や習性に至るまで完全なゴリラに成り切ろうと、ゴリラについて多くを学んだ。これが非常に楽しかった。
だから、と言っていいものか……いつしか私は、心までゴリラに成ってしまったのかもしれない。
私の勤め先には当然他のゴリラたちも居る。その中に、我々とは離れて暮らす一頭の雌ゴリラが居た。病気がちで生活の大半を隔離されていた彼女に、初めは同情していたように思う。
いつだったか、彼女が長く顔を出したことがある。日の下に出るやいなやゆっくりと歩みを進め、私から腕一つ分ほど離れたあたりに腰を下ろした。対面するのは初めてだが、遠く様子を伺っていたのはどうやらあちらも同じだったようだ。
私がゴリラに成っている間は人間との会話など成立しない。しかし、それはゴリラ同士であろうと同じこと。我々にできることは仕草や視線、或いは鳴き声による僅かな疎通だけ。にも関わらず我々の仲が築かれるまでに要した時間は、ほんの些細なものだった。
彼女は一回り以上も若い。更には病気がちで寡黙なこともあり、私はどこか、もう会うことのない愛娘の影を重ねていたのだろう。
決して、家族と離れたかったわけではない。何よりも誰よりも愛していたし、妻も、娘もまた私を愛してくれていた。それは写真に残された笑顔だけが、きっと証明してくれる。
だからといって手放しに安心して良いということではなかった。気づいたときにはもう、己が在り方を後悔しはじめたときにはもう、それは元に戻せないほど遠く離れてしまっていた。
寄り添ってくれるとはいえ、彼女がどういうつもりなのかはわからない。しかし少なくとも、私は幸せだったあの頃に戻れたような気がして、彼女との時間をいつも心待ちにしていた。
のんびりと空を眺める暮らし。
漠然と思考を巡らせる暮らし。
失った家族の影を垣間見る暮らし。
ただのそんなものだが、そんなものだからこそ、私は幸せだったのかもしれない。
だからこそ、この奇妙な役割を最後の最後までしかと勤めあげたかったのかもしれない。
なんとしても、なにに代えてでも。
或いはもう二度と、手放したくなかったのかもしれない。
だが――。
「どうにかならんのか⁉︎ なんとしても“ 彼 ”を助けてくれ!」
なんとなく、わかっていた。
「園長、落ち着いてください」
「どうして落ち着いていられるものか! 彼は我々と共に園を盛り上げてくれた“ 家族 ”なんだぞ!」
この身体はもう、長くないのだと。
「君はこの園の獣医なんだろう? 彼を、彼を救ってくれ!」
「お気持ちはわかります……しかしもうかなりの老体ですから、どうにも手の施しようがありません」
「そんな……」
どうやら閉園までというには、些か足りなかったようだ。
それでも、今日という日を、よくぞ迎えてくれた――――。
遠く青々と広がる空、頬を撫で抜ける春風、ゆるりと行き交う観覧の群れ。こちら側からみる、いつもの風景。
いよいよ、か……。
ふと、己のなにかを嘲笑うように、きざったらしく鼻を鳴らしてみる。しかし、高きに望む太陽はいつもの涼しげな顔で一向にどこを見るでもない。
まったく。最期くらい、こんな私を笑ってくれてもいいだろうに。
誰に届くでもない独り言。
開園から閉園までの、私だけの言葉あそび。
誰に邪魔されることもない心の吐露。
それもまた 今日で ――――
どこかのだれかへ