背中ぱん ~コロナの日々でぼくたち/わたしたちは 2020・晩夏~
「お母さんなんか、大っ嫌い!」
あたしはそれで家を飛び出した。
「こんな遅くに、待ちなさい、真紀!」
でもお母さんは追いかけてこれない。
おばあちゃんがいるから。
老人ホームでコロナ感染者が出た影響で、おばあちゃんが家に帰ってきた。認知症のおばあちゃんからは目が離せない。
家には、リモートワークになったお父さんもいるけど、あまりおばあちゃんの世話をしようとしない。
あなたの母親でしょっ、とお母さんが切れる。
家にいるからって遊んでるわけじゃない、仕事してるんだと、お父さんは言い返す。
夏休みだけど、おばあちゃんも戻ってきちゃったし、コロナだし、旅行なんて感じは吹っ飛んだ。
殺伐とした毎日。あたしの家族、どうなっちゃうんだろう。
あたしは家から駆け出して、夜11時過ぎの街を走った。すぐにコンクリで両岸が固められた小さな川にぶつかり、川沿いの道をまだ走った。熱帯夜で汗がだくだく出てくる。
そもそも、楽しみにしていた中学は、いきなり入学式が出来なかった。その後も、しばらくは休校が続いた。かわいくて気に入っていた制服も着れず、絶対入ると決めていた吹奏楽部の部活も出来ず、新しい友だちだって作れない。
6月になってようやく通学できるようになったけど、やっぱり部活は無し。遠足も山上学校も無し。少しは話をする友だちが出来たなと思ったところで、もう夏休み。
それで家にいると、おばあちゃんが色々やらかして、お母さんが切れて、お父さんも逆切れして。あたしは否応なくそこに巻き込まれ。
それで今晩ついに。
早くお風呂に入っちゃいなさい、とお母さん。もうちょっと後、とあたし。スマホばっかり見てないでさっさと入ってよ、お母さん大変なんだから、とお母さん。うるさい、とあたし。そこから大喧嘩。
くだらない。
なんて、くだらないんだろう。
走り疲れてというよりあまりに暑くて、気が付けばあたしは、とぼとぼ歩いていた。
川の両側にはずっと、街灯が飛び飛びの点線になって連なり伸びている。真ん中は川が流れているはずで、でも水位は低いし黒っぽい影になっているだけ。ずっと先に、一つ二つと橋が見える。
ここは小学校への通学路だった。
喧嘩っ早く正義感が空回りするあたしは、よく揉め事を起こして泣きながら帰った。
そんな時はいつも工藤くんがいてくれた。彼のこと、ずっとクーって呼んでた。
「あたし、間違ったこと言ったかな」
と悔しくって尋ねると、クーは、
「そんなことない、真紀は正しい」
と答えてくれた。
「どうしたら良かったのかな」
と泣きじゃくると、
「あれで良かった。真紀は頑張ったよ、間違ってない」
「でも、あたしが悪者みたいに」
「いいじゃん」
クーは言った。
「俺、分かってるから」
「ホントに?」
「うん、絶対」
それでクーは、ぱんとあたしの背中を叩いて励ましてくれるのだ。
でも学年が上がるにつれ、あたしとクーは一緒に帰らなくなった。
話すこともすっかり減ってしまった。
クーは男子で、あたしは女子だから。
何か、バカみたいだけど。
そういうこと。
それでせめて卒業式の時には、中学も別々になっちゃうし、何か言わなきゃ、絶対言わなきゃと思っていたんだけど、その卒業式自体がコロナで無くなってしまった。
で、それっきり。
それっきり、クーとは顔も合わせることなく。
偶然駅でばったり、なんてこともなくて。
あたしは少し先、左側の家をみる。
そこがクーの家。
クー、いるかな。
もしクーが今隣にいたら、分かってると言って、背中ぱん、してくれるかな。
——でも、いきなり家を訪ねるなんてありえない。
あたしは歩きながら、じーっとクーの部屋の辺りを見る。小4くらいまで、クーの家に上がって遊んでいた。でも今は明かりが消えていて。
あー、いない、とがっかりして。
それってイミフと呆れて。
それでしばらく行き過ぎたところで橋を渡って、その途中で座り込んだ。
見上げると、意外なほど星がたくさん見えた。
こんなふうに星空を見ることなんて、随分無かったように思えた。
そうしたらふいに、あたしがちっちゃい頃、ボケちゃう前のおばあちゃんと手を繋いで、この橋を渡ったことを思い出した。この先の児童公園に一緒に行った。
星がぶわんと滲んで見えなくなって、何かと思ったら涙がだらだら零れていた。
何か色んなことが、ひたすら切なかった。
もうどうしたらいいのか分からないよ。
その時だった。
「真紀?」
背中で聞き慣れた声がした。懐かしい声。
振り返るとクーがいた!
そうしたら、もっと涙が出た。
クーは戸惑っていて、少し大人っぽくなっていて、でもやっぱりクーなのだった。
「ぱん、して」
あたしは言った。
「ぱん?」
「背中をぱん」
背中に触れた掌は、覚えていたのよりずっと大きくて優しかった。
この小説は、別途本サイトに掲載している「みぞおちパンチ」と双子の関係にあります。