溺惑の必要悪②
『ウォォオ――!』
低い轟きは魔物の咆吼か。
腹の底をかき混ぜるような音は不快で、俺は眉を寄せる。
「来るぞ!」
グランの声と同時に黒い触手が水槽をまるで小石のように軽々と弾き飛ばした。
いつもなら躱すけど――後ろにはファルーアがいる。
「おらああぁっ!」
グランが大きく右腕を振りかぶり、大盾で水槽を迎え撃つ。
肉体強化を重ねた一撃は凄まじい勢いで水槽を粉砕し、その破片がばらばらと降り注ぐ。
そのあいだにファルーアの杖の先――龍眼の結晶が金色の光を煌々と放ち始めて広い部屋を照らし出すと、魔物は光を嫌っているのか紅く明滅する双眸を眇めた。
『ウオォ――』
あの音はどこから出ているんだろう。
裂けた口からは太い触手が溢れているし、その先は水中で見えない。
そもそもこいつはどこから来たんだ?
本当に災厄だったら……血結晶が埋まってるなんてことないか?
必死に目を凝らす俺に向かって黒い触手が振り下ろされる。
ボーザックが深々と傷を穿った一本だ。
「ハルト!」
「大丈夫!」
グランに短く応えて足の裏で地面をしっかりと捉える。
「脚力アップ、脚力アップ、脚力アップ……ッ」
その足をバフで強化し、俺は踏み切った。
「おぉ――ッ!」
双剣を上に、思い切り触手に突き込む。
体液をだらだらとこぼす傷よりもさらに奥。双剣がズブリと沈んだのを軸に逆さまの状態で足を引き寄せた俺は触手に足裏を当てて――。
「吹っ飛べッ!」
思いっ切り蹴り抜いた。
その勢いを使って双剣を引き抜き、地面を視界に捉え身を捻る。
弾き飛ばされた触手が天井を打つのと同時に着地したけど――しまった!
次の触手が真横からうねりを上げて迫ってくる。
「……ッ!」
「させねぇッ!」
そのときグランの巨体が俺と触手のあいだにねじ込まれ、そのままガアンッと耳に響く音を立てて触手が受け止められた。
「助かる、グラン!」
「礼にはまだ早いぞハルト! 次だ!」
見える範囲で四本。
触手は反対側の一本を俺たちに向けて振るう。
「げっ! 挟むつもりか⁉」
こんなやつに潰されるとか考えたくもない。
「肉体強化ッ、肉体強化!」
俺は即座にバフを書き換えて膝を曲げる。
そのとき、鈴のような声が空気を震わせた。
「――いくわよ」
「!」
俺は咄嗟にグランと目配せし、示し合わせたかのようにファルーア側へと飛び退いた。
「射抜きなさい――ッ!」
煌々と輝く太陽のような光に目が眩む。
影という影が消滅し、次の瞬間、地面が震え――。
ガガガガガッ!
『ヴォオオォ――ッ』
激しい雨のような音が降り注ぎ、魔物の咆吼が木霊する。
ザッ
着地した俺とグランはすぐさま身を翻して構え直し――それを見た。
「……げ」
「うお……」
地面から、壁から、幾重にも突き出す岩の槍たち。
転がった石臼さえも突き抜けるその強靱な切っ先が四方八方から魔物に打ち込まれ、縫い付けている。
松明も篝火も巻き込まれて火花を散らし、再び生まれた影が踊る。
その光景の恐ろしさときたら実は経験があって――あれは、そう。
災厄の毒霧を似たような方法で仕留めたユーグルのような、古代の魔法と思しきそれだ。
絶対に敵対はしたくない。
「無理矢理形を変えたから長くは保たないわ、天井を落とすから逃げる準備を!」
ファルーアはすかさず杖を回し、言い終わらないうちに天井を指す。
「吹き飛びなさい!」
ひゅ――ズガアアァァンッ!
「って、ええぇーーーーっ⁉」
「うおおおぉお⁉」
光球が生み出されて天井にぶち当たり、破片が礫となって飛来。
時間! 準備の時間くれよファルーア!
俺は心のなかで絶叫しながら慌てて手を突き上げ、バフを広げた。
「速度アップ、速度アップ、速度アップ、速度アップッ!」
天井には太いヒビが奔り、重力に逆らえずにゴモリと膨らんだかと思うと崩壊が始まる。
「クソッ! 行くぞ!」
グランが駆け出し、ファルーアが追随する。
跳ねる金の髪を追い掛けた俺は――次の瞬間焼け付くような痛みに体を折った。
「……っ、ぐ……」
背後から腹側へと突き抜けた熱いそれがなにかはわからなかった。
けれど熱は急激に体を蝕んで、傷口から溢れた液体が服を染め上げる。
足が縺れて転がった俺の後ろ……製造場所が魔物とともに瓦礫に押し潰されて土煙が視界を覆い、吸い込んだ砂塵が肺を満たした。
「が、げほっ……」
「……ハルト⁉」
気付いたファルーアのランプが揺らぐのを煙る空気の向こうに確認して、俺は両腕を突っ張って体を起こす。
ああくそ、鎧のないところを撃ち抜かれたッ!
「だ、いじょうぶ……! ごめん、足が縺れた――行こう」
俺を撃ち抜いたのは魔物の体液――酸かもしれない。
熱と痛みが腹部を中心にびりびりと駆け上がり吐きそうだ。
「走れるわね?」
「……おう!」
ファルーアが頷いたのが薄らと確認できて、俺は右足を踏み出した。
「――ッ」
焼けそうだ……!
体の内側をなにかが這いずり回っているような激痛。
視界がぐるりと円を描くような気持ち悪さを感じながら、次は左足を踏み出す。
瓦礫の隙間からは水が噴き出し始め、ここが危険だと報せている。
逃げないと――心配かけてる場合じゃない、踏ん張れ!
(治癒……活性……ッ)
唇を噛み、声を殺して練り上げたバフで五重。
これが切れたら俺は動けない。だけど止まるわけにはいかないんだ。
その瞬間、目の前に大きな影が広がった。
「馬鹿野郎! 行くぞ!」
「グラン……」
現れた大盾使いは問答無用で俺を担ぎ上げ、一気に駆け出す。
その向こう側、完全に俺の行動を見透かしていたファルーアが珍しくふんと鼻を鳴らした。
「痩せ我慢なんてしないでいいわ。馬鹿ね。全員で戻るわよハルト!」
「ファルーア……」
あー、格好悪い……それにこれ、まずいみたいだ。
急激に頭がぐらぐらし始めて悟る。
ただの酸とかじゃない――なにかの、毒。
「ごめ……ん」
「! ……おいハルト⁉」
グランの声に応えることは――できなかった。
本日分です!
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