先生は大人のように
「君ぃ……困るんだよね。自分の立場を分かってるのか?」
「……すみません」
「親御さんから訴えられでもしたら私の立場はどうなる!?」
「……すみません」
保身と打算が見え見えの説教がようやく終わり、私は代わりに授業を受け持ってくれた先生へとお礼を述べた。
「すっかり噂になってますよ。気を付けて下さいね」
「……すみません」
面倒な所を見られたと思いながら、皆が帰った部室で耽っていると、放課後の細く伸びる校舎の影からひょっこりと彼女は顔を出した。
「先生♪」
「あまり近寄るな。俺の首が飛ぶぞ」
彼女は少し早めの冬服で、誰も居ない事を良いことに私の隣の長机へと腰掛けた。二人で窓の外を眺めては僅かに動く景色に想いを馳せていた。
「昨日はゴメンね」
「……気にするな。事故さ」
「まさか後ろから先生が追ってきてたなんてさ」
「結構大きな声で呼んだんだが?」
「……犬が大嫌いで…………」
「怖い物知らずのお前でも怖れる物があるんだな」
校庭に迷い込んだ大型犬に服を食いちぎられ、持っていたパンを奪われズタボロで逃げ惑っていた所を後ろから追いかけていたら、生徒を襲う変態教師と間違えられて通報までされた。
全く酷い目にあったもんだ……。
「先生は怖い物あるの?」
「権力には逆らえないさ。お前たち程若くは無い」
「ゴメン……皆にはちゃんと説明したんだけど、やっぱり変な噂になっちゃってて……」
「お前が気に病む事は無い。それより怪我とかしてなかったか?」
「うん。夏服はダメになっちゃったけど……」
「なぁに、後少しで衣替えだし、どうせ来年は着ないんだ」
「……うん」
私は完全に落ちかける夕陽に彼女達の未来を託し、彼女へと目を向けた。
「さ、そろそろ帰れ。また犬に襲われるぞ?」
「でもまた先生が助けてくれるんでしょ?」
「……さあな? 俺も自分の身が危ないからな」
その言葉に何を思ったのか、彼女は私のネクタイを掴んで引き寄せた。急に引かれた私はバランスを崩し顔から彼女の方へと突っ込んでいく。
「―――っと!」
私は長机に彼女を押し倒してしまった……。
「次もまた、必ず助けてよ。私が……責任取るからさ」
手にネクタイを巻き付け離さない彼女の顔に私の顔が近付いていく。それはとても危険な好意だ。
「……止めるんだ。ネクタイを離しなさい」
「やだ……」
力尽くでネクタイを奪おうと彼女の拳を握った。
「変なことしたら大声出すからね……」
「変な事をしているのはお前だろう」
ふと彼女は唇を噛み締め目を潤ませた。
「先生のこと好きになるのは変なことなの!?」
私は……とりあえず困った。
なんだ、どうしたらいい?
「私陸上部の選手なのに、先生ったら死にそうな顔で必死で追い掛けてくるんだもん!!」
…………そりゃあ生徒がズタボロで逃げてたら追うよ。
「私、先生のことずっと見てたよ! 家庭的で男のクセに裁縫が得意で! 私がボタンを付けて貰ったときも! とても楽しそうだった!」
…………。
「私卒業まで待てない!! 今ここで返事をして!?」
……ふと、彼女の頭の先に仕舞い忘れの裁ちバサミとボビン糸が見えた。彼女から逃げるだけならネクタイを切ればいい……。しかし、ここで逃げることは彼女から目を背ける事を意味する。
私は、ボビン糸から赤を選んで20cm程の長さに切った。
そして、それを彼女の左手の薬指に蝶結びに結わえた……。
「―――え?」
彼女の右拳が緩み、ネクタイがしゅるりと離れ私は自由になった。首下を少し緩め、軽く咳払いをする。彼女の顔は夕陽よりも紅くなり、結んだ糸をしげしげと眺めている。
「大人ってのは面倒でな。それが何を意味するかはお前の想像に任せる。俺からはそれしか出来ん」
「先生……嬉しい♪」
彼女はヒラヒラと左手を優雅に舞わせ、嬉々とした愁いを見せた。
「帰る前に外せよ?」
「いや! 少なくても寝るまで離さない!」
…………大丈夫かな?
とびきりの笑顔で教室を後にした彼女を見送り、私は溜息一つで完全に落ちた夕陽の先を見つめた。
翌日、すれ違う時に見えた彼女の薬指は細く痕が残っており、朝方まで名残惜しそうに付けていた事が窺えた―――
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