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蝶々と青虫  作者:
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七章、春例祭(2)

「やっぱり来たのね」


 火は八方から一斉にかけることになっている。役目を仰せつかっている巫女たちがそれぞれ松明を持ったところで、緋袴に白の単を着た同じ格好の者たちが渡廊のほうから矢をつがえているのが見えた。


「高桐くん」

「悪いな、藤尾。可愛い許嫁の頼みとあっちゃ聞かないわけにはいかないんだ」


 白絹の単に緋袴。衣装こそ揃いのものではあったが、顔には皆、複雑な文様の描かれた呪符を張り付けている。おそらくは『遣い』と同様の式神だろう。無言で藤尾たちをうかがう式神の後ろから、高桐が顔を出した。


「馬鹿ね。御寮員のあなたが神御寮をそむくの?」

「今日は、蝶ちゃんの『高桐にいさん』なものでね。アオを返してもらおうか」

「――放ちなさい」


 巫女たちに言うのと同時に、藤尾は懐から式神符を取り出した。高桐の式神たちもまた一斉につがえた矢を放つ。藤尾の呼び出した八体の式神が矢を受けるが、そのひとつがそれ、近くにいた巫女役の少女の腕をかすめた。


「あっ」


 少女の身体が傾ぐ。松明の火が離れ、庵の右の柱にかかった。


 *


 ひとつめの演目が終わると、あたりは舞姫を褒めたたえる客人の声でわっと華やいだ。ナンテンが直前で辞退をしたため、急遽呼ばれた舞姫だったが、まずまずの出来だったらしい。高杯に積まれた唐菓子を摘まみながら、蛇ノ井は観覧席のほうを再び盗み見た。蝶子はやはり先ほどと寸分たがわぬ様子でそこにいる。


(寸分たがわない?)


 己の感想に違和を抱く。さりげなく袂を探り、折り鶴をすいと宙に投じた。小鳥の姿に転じたそれはひとびとの頭上を飛んで、可憐な小鳥を思わせる仕草で蝶子の肩に留まる。直後、そこに座っていたはずの人影が霧散した。

 否、霧散したように見えたのはおそらく蛇ノ井だけだ。周囲の者は気付いていないが、同じ場所に座しているのは、蝶子ではなく、蝶子の衣を纏った別の女だった。


(ナンテン)


 蛇ノ井は席を立つ。空を仰ぐと、まもなく太陽は天の中央に差しかかろうとしていた。


 *


 蝶子はヒルコとともに走っていた。蛙化生のヒルコはその破格といえる力で、地下に穴を掘り、進むことができる。御所の門にはいくつかのあやかしよけがかけられているため、ヒルコたちは下御森神社から御所まで続く地下道を使い、御所のうちへ入った。これらの地下道は急ごしらえしたものではなく、下御森神社と神御寮が協定を結ぶ以前から、使われていたらしい。

 たとえば、煌帝の寝所や、神御寮といった、特別守りの強いところは近づくことができないというが、それでもかなりの部分は自由に行き来ができるという。蝶子としては、下御森のしたたかさに呆れる気分だった。


「ヒルコ、どちらの方向?」

「右だ。確か、この上あたりに庵が立てられていたはずで……」


 上がってきた息を整え、蝶子は手燭を暗闇に掲げた。数日前にヒルコが掘ったばかりのまだ新しい地下道が現れる。踏み固める時間がなかったため、地盤が弱く、一部は早くも崩れ始めていた。


「くそ、天井の一部が落ちてるな。どのあたりから上に上がったんだったか」


 ヒルコが困ったように頭をかく。蝶子は袂から、『遣い』の呪符を取り出すと、それを放った。


「アオのところへ案内して」


 高桐に再三、阿呆だのなんだのと馬鹿にされる『遣い』はやはり、高桐が放つものよりも勢いがなく、地面すれすれのあたりを飛んでいる。盛り上がった土にぶつかりそうになった『遣い』はしかし、そこで何かに気付いた様子で、ぐんぐんと上にのぼっていった。『遣い』の嘴が天井の一点をつつく。


「ここだ」


 ヒルコがつけた掘り痕を見つけて、蝶子は天井へ手を伸ばす。


 *


「アオ!」


 庵の中は徐々に煙が充満し始めていた。どこからか微かに響いた声に、アオはひとつ瞬きをする。しかし肝心の声の主が見当たらない。


「ちがう。こっち」


 どうやら声は筵の下からしているらしい。


「蝶子?」


 筵をめくると、地中から土をかきわけて蝶子が頭を出した。


「いた、アオ。間に合った」


 土に塗れた頬をこすって、蝶子はほっと息をつく。まさか土の下から出てくるとは思わなかったので、さすがのアオも一時呆気にとられた。しばらく沈黙してから、結局尋ねる。


「何をしているんですか」

「迎えに来たんだ」


 穴から這い出た蝶子は何でもないことのように言って、アオに手を差し伸べた。


「逃げよう。アオがこんなところで、焼き払われる必要はないんだよ。誰が何と言ったって、蝶子はそうは思わない。もしも『はじまりの男神』が目覚めて門を開くなら、わたしが門を閉じてやる。だから、おいで、アオ。一緒に行こう」


 煙に包まれ始めた庵を睨み据える蝶子は、静かに怒ってすらいるようだった。正しく蝶子は憤っている。この状況に。不条理さやさだめといったもの、ただびとならば膝を折るすべてに。そしてこんな小さな身体でそれらを打ち破らんとしている。

 差し出された、少し土で汚れた白い手のひらをアオは目を細めて見つめた。


「アオ……?」


 ――ひとの情を解さないと言ったわね。今もそうなの?

 先ほど、藤尾はアオに尋ねた。


(わからない)

(そんなものは生きていくのに必要ではないから)


 でも、蝶子が差し出した土で汚れた白い手のひらは、そこだけが淡く光を帯びて、アオの目に映る。きれいだとそう思う。食べてしまうのが惜しいほどに。食べたくないと切に願うほどに。アオは蝶子に触れたかった。飢えにも似たくるおしさが胸をよぎり、それでいて、身体中が満たされる心地もする。小さな青虫が探していたものがそこにあった。当たり前のようにもうそこにあるのだった。


「蝶子」


 手のひらにそっと触れる。アオはたぶん少し、わらっていた。


「あいしています」


 そのとき、微かな音が空を切った。



 アオによって身体を突き飛ばされ、蝶子は筵に尻餅をついた。 


「ごめんね、蝶子ちゃん」


 戸口から、巫女装束の藤尾がつがえた弓を持って現れる。足元にうずくまったアオに気付き、蝶子は悲鳴を上げた。アオの背には、深々と一本の矢が突き立てられていた。


「火が焼き払うのは肉体だけよ。矢が魂を根の国へと運ぶの。大事なのは、火ではなくて矢のほうなのよ」

「アオ!」


 蝶子が飛びつくと、射られたアオの胸からはあおみどりの体液がどくどくと流れ落ちて、蝶子の手を濡らした。何かが急速にこぼれ落ちてしまっていることがわかった。それはアオをかたちづくっている大事な何かにちがいなかった。


「いやだ。いやだよ、アオ。アオ!」


 アオが消えてしまう。なくなってしまう。蝶子はどうしたらよいかわからなくなって、アオの青虫に変わりつつある前脚を握り締めた。蝶子の血肉があれば、前と同じようにアオをとどめおけるのではないかと思った。必死に手をかきむしろうとする蝶子に、アオは何故か苦笑したらしい。ひとがたが解けて、現れた大青虫が弱々しく背を震わせる。小さな前脚でそれでも蝶子にしがみついていた青虫は、蝶子の血肉ではなく、眦にたまった涙のほうを吸って息絶えた。


「いや……」


 蝶子は動かなくなってしまった大青虫を抱きしめて首を振る。


「アオ。へんじして、アオ。蝶子をおいていかないで……!」

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