ポキポキポキポキポキポキポキポキ
本章はお手元に八本のポッキーやプリッツ、あるいはそれに類するものを用意して、適宜折って食べながら読み進められると面白いかもしれません。もしかしたら。
リクエストがあったので、今回は僕が骨折したときの体験談を書いてみようと思います。
これ読んで何が楽しいのか僕にはよくわかりませんけど(笑)
さて、僕は三十年余りの人生の中で八回の骨折を経験しています。どうやらこれは平均的な日本人の骨折経験回数と比べるとだいぶ多いようで、ネタにできるようなできないような、そう言いつつも今こうしてネタにしているわけですが(笑)
でも例えばロッベンやリベリーが自分の怪我の多さをネタにしていたらあんまり笑えないな。いや笑えるか?
一部適当に脚色してありますので、そこんところはご了承頂ければ。
初めての骨折は僕がまだ十一歳の時でした。祖父母の家の台所で従妹と遊んでいるときに、水拭きされたばかりの床に足を滑らせて、食器棚の角に思いっきりスライディング。WBC日本代表もかくやという勢いで食器棚にぶつかった僕の左足小指は、その夜のうちにハムのように腫れあがっていました。
とはいえ、僕にとっても初めての骨折だったし、一応歩くことができたから、これがまさか骨折だとは思っていませんでした。病院に行ってレントゲンを撮るまでは。
昔の話なのであまりはっきりとは覚えていませんが、しばらくは松葉杖をついて生活していた記憶があります。ギプスはしなかったような……。
二度目の骨折は確か中学生になってからだと思います。中一かな?
当時ピンクの象に跨っていた僕は、突然走り出したピンクの象から振り落とされて、左側から転落。その際に左の上腕部の骨をポッキリと折ってしまったのです。
足の小指などという体の中の僻地とは違って、今度は腕ですから、痛みも比べ物になりません。自分の腕の重みがつらい。上腕部から先の左腕がそのままボタっとちぎれて落ちてしまうんじゃないかと思うような痛みでした。
腕一本使えないわけだから生活への影響も大きく、当時科学部(という名のただパソコンをいじるだけの部活)に所属していた僕は休部状態に。そしてそのまま幽霊部員となるわけですが(笑)
三度目の骨折は高校に入ってからで、交通事故によるものでした。
一時停止を無視して猛スピードで交差点に突っ込んできた車に左側から追突され、シートベルトをしていた胸部に強い衝撃が加わったことによる胸骨骨折。まあ、当時は助手席でしたから、ぶつかるところがあと少しずれていたら足がなくなっていたり死んでいたりしてもおかしくはなく、その意味では幸運だったと言えるのではないでしょうか。シートベルトがなかったらフロントガラスぐらい簡単に突き破っていたでしょう。
この時は骨折といっても骨がポッキリ折れたわけではなく、ちょっと削れたという程度のものだったので、前の二回に比べたら痛みも症状も弱く、普通に生活することができました。事故直後は車を運転していた母のほうがぐったりとしていたため、保険会社への連絡など僕が走り回っていたのですが、いざレントゲンを撮って症状を確認してみたら母は捻挫で僕は骨折ということで、警察官などは『あの時走りまわってた子の方が重かったのか』と話していたらしいです。
ここから先は僕がピンクの象に関する仕事を始めてからの話になります。
四度目の骨折は、ちょっと気難しいピンクの象のお世話をしている時に、その引き綱が左手に絡まってしまい、そのままぐいと引っ張られたことによって起こった不幸な事故でした。左手薬指の第一関節の周りを二箇所。もう結婚はできそうにありません(笑)
だいぶ骨折慣れしてきたのか、この時は骨の折れる『ポキ』という音がしっかりと聞こえました。しかしまあ指先で骨の折れた音がそんなにハッキリ聞こえるわけもないかと考え、張れも痛みもそれほど強いものではなかったので、当初はあまり重大には考えていなかったのですが、レントゲンを見たらやっぱり折れていたんですねえ。
五回目の骨折は、全体を通して二番目にバカな理由によるものでした。
木製の柵を乗り越えようとしてよじ登り、着地に失敗してコンクリートの上に右足首をグネッと妙な形でついてしまったのです。
いやあ、痛かった。それまでの骨折とは比べ物にならないぐらい痛かった。足をつくだけでもつらい。何よりも、骨折を引き起こした自分のバカさ加減が一番痛かった(笑)
レントゲンの結果、足首の二箇所を折る複雑骨折で、初めて足に分厚いギプスを装着する羽目になりました。
その後一ヵ月ほどは全く足をつくことができず、ギプスが外れて久しぶりに右足で床を踏んだ時、脚は棒きれの杖をついているかのように頼りなくて、複雑骨折の重さを思い知らされましたね。
六回目の骨折は、ピンクの象の子供をお世話している最中に起こりました。
動物の子供は可愛いですよ。ただ怖がりなのが玉に瑕。お世話をしている最中に近くを通りがかった消防車のサイレンの音に驚いて、体をこちらにグイグイと押し付けてきたのです。僕の身体は背後にあった鉄パイプとの間に数秒間挟まれて、結果、肋骨に罅が入っていました。罅は不全骨折といって、立派な骨折の一つなんですよ。骨折に立派もクソもないですけどね。
ただ、怪我をした直後もそれほど痛みはひどくなく、これはちょっとした打撲かなと判断して、普通に仕事を続けていました。しかし、二、三日経ってから痛みがひどくなりだして、起き上がるのもつらい状態になりました。罅は初めての経験だったので、感覚がよくわからなかったんですね。
胸骨の時と比べても、この肋骨の罅は痛かった。足や腕を折った時は患部を動かさないように意識していればそれほど痛みを感じることはなかったのですが、胴体ともなると話が違う。立てば激痛座れば鈍痛、歩けば患部によく響く。しかしこれは悪夢の序章に過ぎませんでした。
七回目の骨折は、その翌年、ほぼ同じような状況で、再び肋骨に罅が入ったのです。
前回の罅が脇腹付近だったのに対して今度は背骨に近い場所で、肋骨といっても微妙に患部は違ったのですが、この時は『ポキッ』という骨の折れる音がはっきりと聞こえました。また、前年にも肋骨を折っている経験、そして痛みの感覚からも、これは骨だろうという確信がありました。
最初に行った総合病院では、レントゲン写真を見たのが専門外の外科の医師で、骨は折れていないと診断を受けました。痛みが酷いなら数日休めばいいと。しかし、僕はこの診断結果に納得していませんでしたし、かかりつけの接骨院でも『骨だと思う』と言われていたので、数日後、市内でも一番混雑する整形外科に行って再びレントゲンを撮ってもらいました。結果は先に述べた通り。一度罅が入って脆くなっていたんでしょうか……。
しかし、痛みにおいてもバカさ加減においても、極めつけは去年の秋に負った八度目の骨折でしょう。
去年は春に体中ひどい発疹が出たり、プライベートでも色々あったり、散々な年でした。仕事の疲れと精神的なストレスが極限状態まで高まった時期に、この事件が起こったのです。
その日たまたま虫の居所が悪く暴れていたピンクの象をどうにかしようと、その尻に飛び蹴り(当たっても逆効果。何故こんなことをしたのか自分でも謎です)をかまそうとしたところ、体をスッと引かれてしまい、飛び蹴りは空振りに。宙を舞った僕の身体は腰から思い切りコンクリートの地面に落ちてしまいました。
あっ、これはヤバい。
骨折慣れした僕は即座にその状況のヤバさに気付きました。腰の痛みがそれまでに経験したどの骨折より桁違いに強かったのです。足は痺れているし、うまく立ち上がることもできません。
それでもどうにか体を起こしてベンチに座り、三十分ぐらいそのまま休んでいました。足の痺れは少し収まったものの、腰の痛みは全く収まる気配がない。横になっても痛みが軽減されることはなく、僕は仕事を早退して、すぐ病院に向かいました。
レントゲンとCTによる検査の結果、胸椎の破裂骨折との診断。運が悪ければ下半身不随になるおそれもありました。検査の後、ベッドに寝かされたまま重症病棟に移され、その夜のうちに入院。二日間は絶対安静で、折れた骨片が神経側に張り出しているため、もし神経症状が表れるようであれば手術になるとのこと。幸いこの二日の間に症状が悪化することはなく、上半身をがっちりとギプスで固定して、ようやくベッドから起き上がれるようになりました。
入院中の経過はまずまず良好で、退屈だったため本をよく読みました。テレビを見るのは日曜だけで、朝の将棋講座とNHK杯、フジテレビ系列の競馬中継、夜には真田丸とクラシック音楽館。それ以外の時間は専ら読書に費やしました。
積ん読のストックが尽きると、今度はなろう小説で気になったものを読み漁り、今の相互お気に入りユーザーさんにはこの時期に読んだ作品がきっかけとなった方が一番多いと思われます。『スペルバインド』の元になった短編は病院のベッドの上で書いたものですし、『ノックスの憂鬱』も半分ぐらいは入院中に書いたように記憶しています。
退院後の骨の回復はあまり芳しくなく、通院が終わったのは先月末でした。現在はリハビリをしながら、落ちた筋力、体力を回復させ社会復帰を目指しているという状態です。リハビリを頑張っても体力が元の状態に戻るのは今年の秋ぐらいになるとのことで、一年がかりの怪我になってしまいましたねえ。いやあ、ほんとに。
よい子のみんなは格闘ゲームの飛び蹴りの真似とかしちゃだめだぞ。
僕は骨折以外にも怪我の多い人間で、捻挫、打撲、肉離れ、靱帯損傷など諸々を合わせれば、怪我ポーカーでロイヤルストレートフラッシュが作れるような感じです。笑わば笑え。
言われた通り骨折歴を書いてみましたけど、これのどこが面白いのか、僕にはやっぱりわかりませんねえ(笑)