今後の文学作品が目指すべきものは何なのか
ある方のエッセイを読みながら、時々私は本章のタイトルのようなことを考えます。
その方のエッセイでは、今後の文壇について、文豪や哲学者の名作に対する考察を交えながら、文学が何をテーマに紡がれるべきか、ということをよく考えていらっしゃいます。作品の価値が本質ではなくポイントやランキング、賞や売り上げといったものによってのみ語られる風潮に対する虚無感などは私も強く共感するところですし、無知無学の私には参考になる点も多々あります。
しかし、そういうものに流される大衆と孤高の自分、という構図になりがちな面については、私とは少々見解が異なるのかな、と思っています。今の世の中は大衆を大衆として一括りにできるほど単純ではないからです。創作は自らの孤独と向き合うところから始まる、私も確かにそう思うのですが、自分以外のものを大衆として二項対立のように扱う気にはなれません。
かつて、文豪と呼ばれる作家たちが活躍していた時代には、日本は戦争を含めた社会や価値観、思想の変化の大きなうねりがありました。日本全体の発展と共に、そこでは数多の素晴らしい作品が生み出されました。
翻って、現代はどうでしょうか。日本の衰退はもはや決定事項であり、人間の本質を描く芸術性の高い作品は既に星の数ほど生み出されています。私が嗜好する大衆文芸の一ジャンルであるミステリでさえ、現在ではほとんどが、どこかで使われたトリックの応用と組み合わせになっていると言っていいでしょう。
昔の文豪の名作と呼ばれる作品はどれも素晴らしいです。しかし、これから新たに小説を書いていく上で、彼らの真似をしようとしてもうまくはいかないでしょう。昔の名作が今も読み継がれているのは、当時の時代に合わせた背景とテーマがあり、根底には現代にも通ずるものがあるからです。この『根底に通ずるもの』を上手く現代の文脈に沿った作品として昇華させられれば、それは新たな文学作品として立派に成立していると言えるでしょう。その『現代の文脈』というものを捉える上で、自分と大衆という単純な二項対立として社会を捉えるのは危険だと思うのです。
コミュ力の高いオタクもいます。読書家のギャルもいます。インテリのバカもいます。一億総中流のスローガンは消滅し、様々なライフスタイルや価値観が許容され始める中で、結果として生み出された大衆という形。それは例えばガンダムに興味のない人がガンダムもザクも、酷いケースではマクロスまで含めて一緒くたに『ガンダム』と言うのに似ています。
価値観が多様化し、社会が停滞する中で、頼るべきものもなく、大衆に溶け込みながらも常に孤独を感じている。現代の文脈とは恐らくそのようなものだと私は考えています。ポイントやランキング、賞や売り上げに固執することは、その結果として表れた現象です。それすらも、私は徐々に弱まっている、そしてこれからも弱まっていくと予想しています。それは小説という媒体そのものの衰退と無関係ではないでしょう。
そうした背景を踏まえた上で、いかに現代の人間を描き、未来につなげていくことができるか。
私は歴史的に大衆文芸と呼ばれ見下されてきたミステリの愛好家ですが、趣味として文章を書くようになった物書きの端くれとしては、小説がこれからの社会でどのような役割を果たしていくのか、ということを考えずにはいられません。
結論をまとめサイトのように綺麗に纏めることはできませんが、とりあえず、ああこのアマチュア底辺作家はこんな面倒臭いことを考えながらどうせ読まれもしない小説を書いているんだな、ぐらいに受け取って頂ければと思います。