恋い初め
俺、久保永慎は酷く苛立っていた。
放課後の体育館の裏、目の前には顔を真っ赤にした女子生徒。クラスメートではなかったと思うが、確か名前は白石鈴と言っていたか。
「す、好きです。1年生の頃からずっと好きでした。…付き合ってくれませんか…」
最後は蚊の鳴くような小さな声だったが、辛うじて聞き取ることができた。そして俺は、そんなくだらないことのために時間を浪費した自分に落胆した。
「それは、俺と君が恋人同士になるということか」
「はっ…はい」
「なぜ?」
「なぜ…って…」
「第一に、俺は君のことをまったく知らない。第二に、俺は毎日の勉強で忙しい。第三に」
「中学生に恋愛は必要ない。勉強の邪魔になるだけだ」
彼女の目にみるみるうちに水滴が浮かんだ。ああ、泣くのか。この程度のことで。だから恋愛は面倒くさい。
「…そんな」
「こちらにデメリットが三つもある以上、君と付き合えと言われても疑問を持たざるを得ないな」
「デメリット…ですか」
「そうだ。話はそれだけ?もう帰っていいか、塾の宿題があるんだ」
鞄を持ち直して踵を返す。この告白のせいで30分も無駄にした、今日のノルマは終わるだろうか。
「ま…待って。待ってください!」
制服の裾をぐいと引かれて、片足が宙に浮いた。
「……何か?」
「つ、付き合ってくれなくてもいいんです。友達からでいいんです」
「……友達?」
なら、最初からそう言えばいいじゃないか。まったく矛盾している。髪型だ化粧だと自分磨きには余念がないくせに、待っていれば誰かから告白されると信じている女然り、わざわざ気になる奴にちょっかいをかけに行く男然り。恋愛はことごとく矛盾している。
といっても恋人ではなく友達、と言われれば断る理由は何もなかった。
「……まあ、友達なら」
「ほ、本当ですかっ」
「で、俺は何をすればいい?」
「えっと、連絡先を教えてほしいのと、勉強を……」
「勉強を?」
「教えてくれると嬉しいかなあ、なんて…」
この白石という子は、これが最大の声量なんだろうか。この大きさじゃ授業中指名された時、クラス中どころか隣の席まで届くかすら怪しい。きっと苦労しているんだろう。とまあ、それはさておき。
「そんなことでいいならお安い御用だが」
元々、人に教えることは嫌いじゃない。自分の理解が深まるし、相手に貸しを作れるという点において、教えるという行為はなかなか重宝する。人間関係は損得で計る謀るものだと、ずっとそう思ってきた。
かくして、俺は白石鈴の“友達”となったのだ。
放課後の図書室で、2人して教科書とノートを広げる。そんな日がもう3日も続いている。上手くすれば学校と塾の宿題をまとめて片付けられるし、彼女はお喋りなタイプでもなかったので、案外この空間は心地がいい。
そして実際に教えてみればのみ込みが早く、たいして手間もかからなかった。聞けば定期考査は毎回平均点らしく、何もあえて人に教わる必要もないだろうと思えた。
「2人って付き合ってるの?」
クラスメートの図書委員にそう聞かれたことがある。勉強を教えているだけだと答えるとあからさまにがっかりした顔をした。どうやら図書室で逢引をしているなどと、お互いのクラスでにわかに噂になっているらしい。が、そんなものに興味はなかったし、振り回されるなんてくだらないと思っていた。
***
「す、好きです。1年生の頃からずっと好きでした。…付き合ってくれませんか…」
それは自分の耳でやっと聴き取ることができる程度の小さな声だった。彼の耳に届いていたことに安堵する。
放課後の体育館裏。靴箱に手紙を入れるという古典的な方法で、私は彼を呼び出した。何度も練習した言葉を言い終えてそれでもなお、顔の火照りは収まってくれない。
「それは、俺と君が恋人同士になるということか」
「はっ…はい」
「なぜ?」
それまで足元ばかりに向けていた視線を初めて上に向けた。私より20cmは高いところから覗く目は何故か怒っているように見える。
中学生に恋愛は必要ないと彼は言った。私と付き合うことはデメリットだとも。
予想していたことだ。泣くな。そう思っても、目からこぼれ落ちた水滴は宿主の意思に反して頬を伝った。彼は迷惑そうな顔をしている。
学年2位の成績を誇る秀才である久保君は、こうして呼び出しでもしなければ本来話す機会なんてない。そもそも私はA組で向こうはE組、普段過ごす教室すらかけ離れているんだから私のことを知ってるはずがなかった。
だから友達でいいからと食い下がった自分のしつこさには呆れたし、それを了承した彼には心底驚いた。勉強を教えてほしいとか、随分図々しいお願いをしたのに。
携帯番号が走り書きされたノートの切れ端が渡されて、それはこの日以来宝物になる。
久保君はきっと覚えていない。中学の入学式の日、私に声をかけてくれたこと。父から救ってくれたこと。たった数十秒の出来事がどんなにか嬉しかったこと。
それから時計の長針が5周回った。朝が早いお父さんはついさっきお風呂に入ったところで、あと1時間もしないうちに寝る準備に入る。お風呂から出るまであと20分、あまり時間はない。
お父さんは個人で街のパン屋を経営している。小さい頃に母が死んで以来、一人娘への溺愛っぷりが息苦しい。門限は5時で、同姓の友達関係はいちいちチェックが入って、日記は当然のように毎日読まれている。小5の時、男の子の友達を父に紹介したら怒り狂って絶縁させられたから、それからはもう異性と仲良くすることは諦めていた。だからこそこそ隠れて電話しているところを見つかりでもしたら、今度は絶縁ぐらいじゃ済まない。相手の家に殴りこみに行くぐらいするかも…。一気に血の気が引いた。
固定電話はちょうどリビングとお風呂場の間にあるから、電話中にお父さんがお風呂から出てきたらもうバレバレ。私の手元には携帯はもちろん子機もない。教室で最新型のスマートフォンを見せびらかすクラスメートが羨ましくて仕方がなかった。
シャワーの音を片耳で聞きながら、電話のボタンを押す。今時固定電話なんて変に思われるかな。でももう後戻りなんてできない。
『………はい、久保です』
「あっ、もしもしっ……、白石です」
『ああ、白石さん。何か?』
夕方聞いたバリトンが直接耳元に飛び込んできて、飛び上がりそうになった。何か言わなきゃと意識すればするほど、言葉が体の底に沈んでいく。
「あの、えっと、特に用があるわけではないのですが、せっかく連絡先をいただいたのでご挨拶をと…」
『そうか。…ああ、夕方言っていた勉強の件だけど』
「はっ、はい!」
『すまないが、火曜と金曜は塾なんだ。生徒会の活動もあるから完全にこちらの都合に合わせることになってしまうが、それでもいいなら時間を作る』
「十分です。とてもありがたいです。すみません…無理なお願いを聞いていただいて」
ぼーっとしている間に、彼はこんなに色々考えてくれていたんだ。冷や汗が出た。生徒会長の役割を担う彼は本当に忙しいのに。
『……その口調は癖なのか?』
「え?口調、ですか?」
『同じ2年だと言っていただろう。別に敬語を使う必要はないと思うが』
「すみ…ません。不愉快でしたか」
『そうじゃない。ただでさえ会長という肩書に媚びへつらう奴が多いからな。俺の立場が君の負担になるのが嫌だっただけだ』
個人的には好きだ、なんて言葉に鼓動が跳ね上がったりして、そうして幸せな夜のひと時は過ぎていく。
それからの2週間は、私の中学生活の中で一番幸せな2週間だったと思う。昼休みに彼の方からわざわざ教室に来てくれて、その日の都合が合えば放課後図書室に行く。隅のテーブル、向かいの席に座って教科書とノートを広げる。定期考査直前というわけではないから人は少なめで、時々耳に届くペンの音が心地いい。彼の説明はいつも端的で分かりやすくて、それでなくてもすぐ近くで聞こえる声と滑らかに動く唇と、校則通りにキッチリ着てある学ランと、彼の全部にどきどきした。中学生活の中で一番幸せな2週間だった。
「最近帰りが遅いが、何かあったのか」
「お父…さん」
「学校の用事がある時は朝連絡しろと言っているだろう。部活をやっていないお前が毎日のように遅くなる理由はなんだ」
「図書室でと、友達と勉強していて」
「試験前でもないのにか?勉強なら家に呼んで鈴の部屋でやればいいだろう」
「図書室でやった方が調べ物がやりやすいから…」
「なんて友達だ?2人でか?」
「ちゃ、ちゃんと女の子だし心配しないで大丈…」
「父さんはその子の名前を聞いてるんだ」
「あ、あの……………、夕斐、ちゃん…」
図書室での勉強が始まってからきっかり2週間後、夢は終わりを告げた。咄嗟に口にしたのはクラスで唯一仲のいい子の名前。口裏合わせを頼めないこともないのが救いかもしれない。机の引き出しに隠してあったはずの電話番号のメモは、もうどこを探しても見つからなかった。
私はその日、初めて親に嘘をついた。
***
あれから曜日がふた回りして、週が終わろうとしている。図書室にはもう半月行っていない。にもかかわらず、俺は2日に1回は白石鈴の教室に赴いている。否、彼女のクラスメートからすれば押しかけていると表現した方が正しいかもしれない。
最初と2回目に用事があると断られた時は、そんなこともあるかと納得した。3回目に断られた時は、思わず溜息が出た。4回目に断られた時は、もうほとんどヤケになっていた。
そして今日また、帰りのホームルームが終わると同時に自分の教室を飛び出した。普段は走らない廊下を全力疾走。すれ違った教師が視界の端で呆然としていたが、知ったことではない。
「白石、いるか」
幸いにも彼女の席は教卓の一番前で、見つけるのは容易い。ちょうど帰り支度を終えて席を立ったところらしく、間一髪だった。
「なんで、」
「一緒に来てくれ」
強く引いた腕は、ちょっと力を入れたらぽっきり折れてしまいそうなほど細かった。部活に向かう生徒がひしめき合う廊下を早歩きで進む。校内は注目を浴びていけない。校門を出て100メートル、制服姿がまばらになったところで俺はやっと足を止めた。
「ここ最近ずっと予定が合わないみたいだが、どうかしたのか」
ここ2,3日ずっと考えていた。本当にのっぴきならない予定があって断らざるをえないのか、図書委員から広がったくだらない噂に翻弄されているのか、それとも一緒に過ごすのが苦痛になったのか。本当に予定があるなら勉強より大切な予定なんて理解に苦しむし、噂が原因ならさっさと否定すれば済むことだし、ましてや…
「俺に教えてもらうのがもうまっぴらだってことなら、言ってくれなきゃ分からない」
「!? ち、違う!違います!そんなこと言わないでください…!」
それまでずっとコンクリートの地面を見ていた彼女が、弾かれたように顔をあげた。どうやら俺を嫌っているわけではないらしい。
「じゃあなんで避けるんだ」
「…それは」
「鈴」
野太い声が聞こえて振り返った。中肉中背、丸刈りの頭。年齢は見たところ40代後半ぐらい。モッズコートにジーンズという、どこにでもいそうな格好をしている。名前を呼んだということは父親か何かだろうか。だが俺は、恐怖で歯をカチカチいわせている人間というのを見たことがなかった。
「話が違うじゃないか。女の子の友達と勉強だと言っていたが、そいつは」
「違う、これは、違う…」
明らかに挙動不審になって、視線が男と地面とを行ったり来たりしている。異常だ。そして自分は、この中年男にあまりいい印象を持たれてはいないらしい。目の前でそいつと呼ばれたあたり、想像に難くない。
「ひょっとして、この前の電話番号の主じゃないだろうな」
「………!や、やっぱりメモ捨てたのはお父さんだったの………!?」
「何を驚いている?ゴミがあったから捨てただけだ」
「………ゴミ、じゃ…」
ピリピリした空気の中で交わされた会話から、俺は以下のことを推察することができた。
話しているのは確かに彼女の父親だということ。以前渡した電話番号のメモは何故か捨てられたらしいこと。それは決して彼女の意思ではないということ。膨らんでいく疑念は、次の一言で決定的になる。
「お前はまだ子どもなんだから、黙って私の言うことを聞いていればいいんだ。いつも言っているだろう」
「あんた馬鹿か」
気付いたら2人の間に立ちふさがっていた。ここひと月で関わるようになった程度の奴を庇う謂れはないし、敬語を忘れたのもまずいと思った、だが。
「………なんだ貴様は」
「彼女と同級生の久保永慎だ」
「同級生?ただのか?なら関係はないだろう、さっさと帰って自分の親に甘えていろ」
怒りのあまりわなないた。別に甘えていろという台詞に腹を立てているわけじゃない。後ろで震えている白石鈴を、人間だと思っていないことに腹を立てているのだ。
さっきこいつは、私の言うことを聞いていればいいと言ってのけた。親のではなく、私の。
「関係ならある」
「なんだと?」
だが、だからといってなんだというのか。白石鈴とはまだ知り合いの域を出ない間柄であるし、こんな危険人物とは関わらない方が身のためだ。触らぬ神に祟りなし。
それに知り合いといっても、こちらからわざわざ教室に出向かなければおそらく自然消滅していた、所詮その程度の。
「俺は彼女の彼氏だ」
あの時の自分の言葉を俺は今でも信じられないでいる。あの後父親が何やらわけのわからないことを喚き散らして、辺りがちょっとした騒ぎになった。父親の久保永慎への感情は地を這うどころか土の中に穴を掘り始めたはずで、それは2人で出かけるたびに門限は5時だと小学生のような注文をつけてくることから窺える。最初の頃は保護者同伴の勢いだったので、さすがに丁重にお断りした。
体の内側を得体の知れない感情が侵食していく。今まで勉強にしか興味がなかったのに、これはいったいどうしたことか。
…というようなことをクラスの友人に愚痴ったら、恋は理屈じゃないと一蹴された。堅物のお前が突然女の子に執着しだすから悪いものでも食べたのかと心配していた、とも言われた。
執着と聞いて少し考えてみた。きっかけはなんだっただろう。告白された時はまだ好きではなかった。夜電話をもらった時もまだだった。なら、勉強を教え始めた頃か。父親に刃向かったのは正義感でもなんでもなく、彼女を独り占めしたいという底の浅い欲望のあらわれだったのか。
結論は出ない。
友人は言う。だからこそ面白い、と。
隣で君が笑う。つられて笑う。
名前を呼ばれる。耳に心地いい。
ああそうか、俺は恋をしているのか。