遊者、“母”と出会う(上)
アルハイムから西に向かうと、サンドストンという地域に入る。ここは全体的に緑の多く、森と森の間に町があり、人々がひっそりと暮らしている。元々は林業が盛んだったこの辺りは、モンスターが増え始めたときにはそれをやめざるを得なかったらしい。それによってさらに人が減り、町の存続すらも怪しくなったとか。魔王が居なくなってモンスターが大人しくなってきた現在、林業に復活の兆しが見え始めているらしく、モンスター狩りの戦士を雇うと共に、この辺りにまた人が増え始めているようだ。
タークがサンドストンに入ったのは、この辺りにあるリンバルという町に元仲間が居ると聞いたからだ。こんなところになら勇者も訪れないだろうとも思ったので、会いに行くとしたらうってつけの場所だった。
道中、この辺りの森に上級のモンスターが現れたという情報が流れた。旅の人になれば、出現の情報と共に、そのモンスターの種類、さらには懸賞金なんかもすぐに共有される。
ふんふん、なるほど。タークはいかにも興味のありそうな感じに返す。それでも、情報をくれた人間はタークに期待をすることは無いだろう。それは、あまりにもタークが弱そうに見えるからだ。
自分を強く見せるために自身の魔力をオープンにしている人間も居る中で、タークは本当に微々たるものしか出していない。それはもちろん、勇者という脅威から身を守るために身に付けた術である。しかし、タークの位置情報が流されていたことを考えると、分かる人には分かるというのが事実のようで、勇者対策としては全く役立たないことも分かった。空しい。
それでも、ここに居る人間にタークの内に秘めた魔力に気づく人間など居らず、雑魚だと蔑む目で見る奴ばかりだ。まあ、タークにとってそれは都合が良いことだ。そうです、僕は雑魚です、だから僕のことなんか気にしないでね、とタークは人ととは逆のアピールをする。こうすることで、こういった面倒な事態からは逃げることが出来るのだ。
というわけで、当然のことのようにタークは上級モンスターをスルーする。まあ放っておいても倒したい奴が倒すだろう。人の生きがいは横取りしないのだ。
タークはリンバルの町へとたどり着いた。空気が美味しい。そして少し肌寒い。少し秋口になってきているからだろう。この辺りは避暑地としては使えそうなところだが、今は来ることに適しているとは言えそうに無い。少し肌寒い、ということでも、人よりも寒がりであるタークにとっては十分に寒かった。
町はのどかというか、静かな町だった。それが普段から閑静な感じなのか、それとも周辺にモンスターが出現したことで静かになっているのかは分からない。ただこの静かな感じが、より寒さを助長させているような気がした。
ヨミの情報だと、元仲間は『ルフラン』という店を営業しているということだった。タークは見逃さないようにと慎重に歩いていく。全体的にこの町には白い建物が多く、歩いているとずっと同じところをぐるぐる回っているような錯覚に陥ってしまいそうになる。大体のお店は開店休業という状態だろうか、オープンしているが人が入っているようには見えない。
三十分ほど歩くと、やっとルフランは見つかった。タークは中を覗き込んでから、その扉を開いた。
「いらっしゃい。……って、ん?」
「サラサさん、久しぶり」
「ターク!?」
座りながらのんびりと挨拶した店主は、タークの顔を見て驚きの声をあげた。店主のサラサは旅の初期の仲間だ。女性の平均値という体型をし、やる気の無いように目がいつも半開きの状態である。肩までくらいの髪を左側に束ね、それを肩から前方へと垂らしている。おっとりとした姉御肌の人であり、初期の仲間を引っ張ってくれていた。タークやマウアーにとっても姉のような存在の人なのだ。
「久しぶりじゃない。魔王を倒したこともちゃんと耳に入っているわよ。お疲れ様」
「ああ。っていうか、それから一度も会ってなかったのか」
「そうよ、来てくれても良かったのにね」
サラサは呆れたように言った。
「まあ僕も僕なりに忙しかったんだよ。あ、何か飲み物もらえる?」
「お茶で良い?」
「ああ」
サラサはそう言って立ち上がった。その姿を見て、タークはあることに気づいた。
「さ、サラサさん!?」
サラサはとても大きなお腹をしていた。もちろん、太ったわけではない。重たそうな体は、その重量以上に重い存在が入っている。サラサの中にはもう一つ命があるのだ。
「何? あ、これ見て驚いちゃった?」
「……お茶は自分で入れるよ」
タークは急いで立ち上がると、サラサに座るよう促した。サラサは少しタークを見つめた後、それに従ってくれた。
「あら、優しいのね」
「別に……」
勝手が分からない店の中で、タークは取り合えずと水だけを準備し、椅子のほうへ戻っていった。サラサはニコニコしながら、その様子を眺める。
「お水で良いの?」
「良いよ」
そう言って、タークはそれを一気に飲み干した。サラサに言いたいことがあって来た訳だけれど、ここに来て聞きたいことも出来た。さて、どちらから先に言うべきか。
「旦那さんは?」
結局、後者のことを問うことにした。それは、タークがここに長居して良いものかと疑問に思ったからだ。
「居ないよ」
「シングルってこと?」
「ううん。死んじゃった」
失敗した。あまり触れるべきではなかった。これならさっさとマウアーのことでも話しておけば良かったと、タークは後悔する。
「何変な顔してるのよ」
「いや、ごめん」
「まあ気にすることじゃないよ。ちゃんとここに家族が居るんだから」
サラサはそう言って自身のお腹を撫でた。優しく暖かい表情でまだ触れることの出来ない我が子を撫でる姿が、タークにはとても神秘的に見えた。
「いつ生まれるんだ?」
「もうすぐよ。もう臨月に入ってるの」
サラサは一人で新しい命を迎えようとしている。その事実に、タークは胸を痛めていた。人の生き方は様々だろうが、サラサが今こんな生活をしているなんて思いもしなかったのだ。
マウアーと旅を始めた当初、仲間というのは本当に一期一会と言った感じだった。出会っては別れ、出会っては別れ。二人にとって初めて、長く一緒に旅をしたのがサラサだった。実力は上位レベルの普通の魔道士。ただ物知りで、タークとマウアーは色んなことを教わったものだ。特に、人を見る目、というものにサラサは長けていたように思う。
そんなサラサがこんなところで一人で生きている。それがタークにとっては現実味の無いもののように思えた。
「大変じゃないか?」
「大変よ。でも、手伝ってくれる人が居るから何とかなってるわ」
その時、サラサは何か思いついたような表情を見せた。そして、いかにも辛そうな顔を見せる。
「……でも、男手が足りなくてね。ああ、困ったなぁ。どこかに頼りになる男の人は居ないのかなー」
上を向いてそう言い、チラッとタークを見る。あまりにも露骨だったからか、サラサは自分の行動を自分で笑う。タークはそれに苦笑いを返した。
「……まあ、手伝えることがあるなら手伝うよ。サラサさんのためだし」
「やった! さすが伝説の大賢者様は頼りになるわね」
伝説の大賢者を臨月を向かえた妊婦の手伝いに仕向けるのはサラサぐらいだと思う。まあ、それも悪くないかもしれない。タークはサラサの頼られるのが嫌ではなかったから。
「あの時が一番笑ったわ! 私のほうが丈夫なんだからあんたが来ても意味ないでしょうが、ってタークが勇者に叱られてたの!」
「行かなかったら行かなかったで、男らしくない、とか言われるのに」
「ふふふっ、勇者はタークが何をしてもガミガミ言ってたもんね。思えば、あの頃はタークが一方的に勇者のことが好きって感じだったのにねえ」
「……忘れて」
タークはサラサと昔話に花を咲かせていた。これは、マウアーから隠れたいと話したことが発端になっている。
「それにしても、あんたらが別れるとはね。名コンビだったのに」
「別れるって言い方は誤解を生みそうだからやめてくれ。僕はマウアーの束縛から自由を得ただけだから」
「でもあの頃は――」
「だから忘れよう。な?」
サラサと出会った頃は、タークがマウアーのためにと奮闘していた時期だった。その頃を知っている数少ない仲間がサラサだ。それが薄れていき、さらにマウアーの闇が表面化されている時期まで知っているのがサラサという人だった。
「それにしても全然人が来ないな」
話題を変えようと、タークはそう言ってみた。実際、ここまで客は一人も来ていない。しっかりとエプロンを装備しているタークが空しく感じられるくらいに、客が来ない。それどころか、表をほとんど人が通らないのだ。
「うるさいなー。普段は来るんです。日が悪いんだよ、全く」
「日が悪いんだったら閉めたら良いのに」
「開けておくことに意味があるの。そうじゃないと、今日タークとだって会えなかったわよ?」
「……なるほど」
確かにその通りかもしれない。しかし、それが意味だとすれば、タークは待ち構えられていたことになるのだろうか。
そう思って聞いてみると、サラサは母性を感じる微笑を見せた。
「タークを待ってたんじゃないわ。いや、待ってたのかな。タークだけじゃなくて、私はみんなを待ってるのよ」
「みんな?」
「うん。一緒に旅をした仲間だったり……、それだけじゃなくてね、私が居なくなったあんた達のことを知っているような、すれ違った仲間、みたいな人たちかな」
すれ違った仲間。タイミングが違えば仲間として一緒に旅をしたかも知れない人たち、ということか。
「そんなに来るのか?」
「たまーにね。一応、勇者と旅をした女主人を謳い文句にしているから。私もそうだったんですよー、って人が現れたりするのよ。だから、私が旅から離れた後のあんた達のことだって結構知ってるの」
「へぇ。サラサさんが居た頃と言えば……ヨミやローは一緒だったか?」
「少しの間は一緒だったわよ。ローは店に来ないなぁ。ヨミも来たことは無いけど、通信はしたことあるわよ」
まあここに来たのだってヨミの情報だし、やっぱり交流があったらしい。
「私がヨミと会ったときなんて、あの子本当に小さかったもんね。今は大魔道士でしょ? きっと大人っぽくなったんだろうなぁ」
残念、ヨミは見た目はほとんど成長していない。そこはわざわざ言うこともないけれど。
「勇者は来たわよ」
タークは凍りつく。そして、今すぐ走り出したいような衝動に駆られて立ち上がった。
「ど、どこに!?」
「ここに決まってるでしょう。ちょうどさっきタークが座ってた椅子に座って、大量のパスタ食べてた」
「いつ?」
「三ヶ月くらい前かな。その前にも何回か来てるわよ」
なんてこったい。こんな場所なら来ないだろうと思った場所は、マウアーが頻繁に(常に移動しているマウアーとしては数回訪れるだけでも頻繁になる)訪れていた場所だった。タークはショックで言葉を失った。
「タークが来てないか、って毎回聞かれる。私が、会いたいわねー、って言ったら、私もって答えるのよね」
きっとその目は据わっていたことだろう。マウアーが怖くなったのはいつ頃からだろうか。
「じゃ、じゃあ僕はそろそろ失礼しようかな――」
「ちょっと! 私のためならって言ったのは嘘だったの?」
サラサは呆れたように睨み付ける。
「僕のこれからの人生に関わってしまうかもしれないから」
「もし勇者が来ても、私がちゃんと仲裁に入ってあげるわよ。大賢者様とあろうものが、逃げ回ることばかり考えるんじゃないの」
「もう大賢者であることも放棄しがちだから、別に良いんだけど」
「あんたはプライドとか無いの?」
「プライドよりも命が大事だからね」
タークが言うと、サラサは大きくため息をついた。
「全く……。性格ってのは変わらないものなのかねぇ」
「知らないよ。昔の自分の性格なんてさ」
そう言って、タークはまた椅子に座った。タークに本気で出て行く気などは無く、まだサラサと話したいと思っていたのだ。
「勇者も変わってないわ。いつだって純粋な気がする」
「その純粋さ故に怖いというのもあるけどね」
純粋さ故に、人の頼みを断れないで居る。だからこその勇者である。その純粋さはタークを追い回す面でも現れているし、マウアーという人の全体像はずっと変わらないのだ。
「……まあ、分からないでもないわね」
そう呟くサラサの表情が少し陰るのを、タークは見逃さなかった。
「何か思うところがあるのか?」
「まあね。だって。魔王っていう人間全員にとっての敵が居れば、勇者はそれを倒すことを目標にすれば良いけど、人間同士の紛争なら勇者は一体何をすれば良いって言うのよ」
サラサは少し遠い目をしながら言った。マウアーのことを、心の奥底から心配しているような、そんな気がした。
そのサラサの不安は、タークにもよく理解出来るものだった。どちらに正義があるのかが明らかなものなら良いが、戦争というものは基本的に正義のぶつかり合いだ。今のマウアーはただ止めるということに終始しているが、それはいつまで可能なことだろう。ずっと続けば、マウアーが人と戦わなければならない日が来る。それをマウアーが理解出来ているのだろうか。
「勇者なんて、絶対悪を倒せば必要が無くなる。マウアーはそれが分かって無いんだよ」
「タークはそう思ってるんだね。じゃあ、それこそタークが止めてあげれば良いのに」
サラサはタークを冗談っぽく睨む。ただ、その表情の奥には、少しの怒りが見えた気がした。
「一応、そういうことは言ったよ。でもマウアーは、まだ困っている人が居る、の一点張りだ。マウアーは勇者の仕事を人助けだと思ってるから」
「……言い訳っぽい。結局、タークが勇者と一緒に居てあげるってことで解決できることでしょうに」
「……その場合、僕の人権に関わるんだよ」
タークとしては、譲ることの出来ないところだ。それに、本当にそれでマウアーが勇者を辞めてくれるかも怪しいものだった。
「いつかは分かってもらって、普通の女の子に戻ってもらわないとね。でないと……」
その後に続く言葉が、サラサの口から放たれるには時間が掛かった。そして、そこに続いた言葉は、タークの持っていた不安と合致するものだった。
「いつか、人の事を憎むようになってしまうかも」
またサラサがため息をつくと、時間が止まったかのような静けさが辺りを包んだ。
結局、タークはそのままサラサの店に泊り込んだ。さすがに女性と同居というのは抵抗があるものだが、一階を店、二階を自宅と言われると、何となく抵抗も薄れた。
「ねえねえ、まだ話そうよ」
マタニティ的な寝巻き姿のサラサはそんな提案をしてくる。タークは少し顔を赤くしながら目を逸らした。
「もう良い時間なんだから、早く寝なよ。若い男を家に泊めているという自覚を持つように」
「あら、妊婦に欲情してるの?」
「してない!」
「こんなお腹してたら、ほとんどの男は異性としてなんか見ないよね。まあ、異性としてよりもみんな優しくしてくれるけどね。タークだってそうでしょ」
妊婦とはとても神秘的な存在と言えるだろう。妙な使命感と共に、本能的に大事にするのは、男女を問わないのではないだろうか。こんな姿を見れば、タークとしても心配になり、その挙句の宿泊だった。
「母体に障りそうだし、さっさと寝よう。明日もまだ居るからさ」
「タークはいつまで居られるの?」
「別に何の予定も無いし、マウアーさえ来なければしばらくは居れるよ」
「じゃあ、本当にしばらくお願いしていい? なんだかんだで、結構不安なのよね。モンスターが出てると、こっちに来ないだろうとは思ってもなんだか落ち着かなくてね」
先ほどは冗談っぽい頼り方だったが、本心で男手は必要に感じていたらしい。タークは、サラサの出産が無事に終わり、モンスターが退治されるまではここに居ることを決めた。
「っていうか、勇者が来ても居てよ」
「それは別」
マウアーが来れば、マウアーにサラサのことを任せることにする。そのほうが、サラサにとっても良いだろう。男手よりも、勇者が守ってくれるほうが安心なのだ。
そのまま、三日ほど同じような日々の繰り返しだった。起きては朝食を準備し、お昼ぐらいになるとサラサの友人が色々と世話をしてくれる。タークはずっと店番をしながら、サラサと話をしていた。
「旅の後半くらいは、勇者信仰者が多かったでしょう?」
「そうだね。名が知れ渡ったんだろう」
話のネタは旅のこととマウアーのことばかりだ。サラサはタークとマウアーのその後の旅の話が好きで、ずっとそのことばかり話している。タークとしても、聞き上手なサラサに対して、饒舌になっていた。
「勇者に憧れて、みたいな奴は、大抵僕のことを邪険にするんだ」
何だこいつは、という目で見られることは多々あった。そういう奴らが、今タークのことを探すことに協力しているのだろう。そいつらに関しては、タークが言ってもマウアーへの報告をやめてくれないことは初めから分かっているので、今回の元仲間巡りには含まれていない。
「ああ、そうそう。たまにこの店に来る子で面白いのが居たわ。タークの悪口ばっかり言ってた」
邪魔に思うくらいなら分かるけれど、悪口ばかり言うというのはいかがなものか。さすがに誰か気になるところだ。
「誰?」
「えっと、確かアサとか言ってたような」
アサとは、勇者信仰者の代表的な女だ。魔法使いをしたり剣士をしたりぶれぶれ。気は強いがどこか抜けている、ちょっとお馬鹿な奴だった。
「どんなことを言ってた?」
「勇者様の相手ならもっとイケメンが良いとか、いつも勇者様に叱られてるとか、賢者じゃなくて魔法馬鹿なだけとか。勇者様に相応しくない、って力強く熱弁してたわよ」
相応しくないというのは、タークも同調するところだ。今なら仲良く出来るかもしれない。まあ、しないけれど。
「ああいうのがいるから、マウアーも調子に乗ってしまうんだろうな。だからあいつは――」
話している最中、突然サラサは小さく声をあげたので、タークは話を止めた。サラサのほうを見ると、少し顔を青くしているように見えた。
「ちょっとトイレに行ってくるね」
「あ、ああ」
タークはそのことに安心する。てっきり、陣痛が来たのかと思ったのだ。臨月になると、トイレが近いものらしく、再会したときからそれは分かっていたことだった。
それでも、さっきの表情を見るからに、状況は変わってきているのかもしれない。いざ出産となったときは、どうすれば良いのだろうか。助産婦にはすぐに連絡が取れるようになっているとは言っていたが、どうも心配である。
ボケッと待っていると、不意に店のドアが開かれた。来客のようだ。
「いらっしゃい」
「ちっす! サラサさん、また来たぞー!」
やって来たのは見覚えのある顔だった。女性にしては短髪だが、体は大人の女性といったそれをしている。服装は魔法使いといった感じなのに、何故か剣を背負っている。どこか憎めない笑顔は、馬鹿そのものである。
「「あーっ!!」」
そこに居たのは勇者信仰者代表、アサであった。思わず身構えるタークと、それにあわせて身構えるアサは案外気があっているのかもしれない。ほんの少しの間を置いて、アサは大きな声で話し出した。
「ターク! ここで会ったが百年目!! とっととお縄頂戴だぞ!」
「何がお縄頂戴だ。僕は何も悪いことなんてしてない」
「見え見えな嘘をつくな! 勇者様をあんな……酷い目に遭わせておいて!」
何て言ったんだ、マウアーよ。アサはギャーギャーとうるさく糾弾してくる。
「何もしてない。ってか、アサが僕を捕まえられるのか? アサはどれだけ修行したんだろうねぇ」
いくらほぼ引退した魔法使いとはいえ、タークにはまだまだアサよりも優れているという自信はある。タークが言うと、アサはその軽そうな頭なりに考え込んで、策を練っていた。
「……勇者様呼んでくる!」
「ちょっと待って」
タークは急いでアサを捕まえる。それはタークを威圧する最善手だった。
「な、何だよ?」
「マウアーを呼ぶな。それは卑怯だろう」
「卑怯もなにも、勇者様にタークを探すように頼まれてたんだから」
「アサはそんなことをして空しくならないか? このご時勢に、マウアーの個人的な人探しなんかに時間を使うのはもったいないだろう?」
「勇者様のためなんだから、もったいないわけないだろ!」
勇者様のため。そう聞くと世界平和に影響しそうではあるけれど、実際はただの女性の個人的な執念である。しかし、アサにそのことを分からせるのは難しそうだった。
タークとアサはにらみ合う。すると、どこかから声が聞こえる。当然、それはサラサの声だった。
「さ、サラサさん?」
タークはアサの手を掴んだままトイレの前まで移動する。アサもサラサの声が気になったのか、黙って着いてきた。
「た、ターク。やばいかも」
「ま、まさか……」
「生まれるかも」
タークはアサと目を合わせる。
「な、何!? サラサさん、子供生まれるの!?」
「そうだから静かに! で、ど、どうすれば良いんだ?」
「テレパスで連絡はしたけど、気づいてないかも」
テレパスが気づかない、というのは、恐らく助産婦に魔力が無く、受信できる石を置いていて、それが光っていることに気づいていないということだろう。助産婦が油断するほど、サラサの出産は予定とは違うのだろうか。これは、一刻を争うことかもしれない。
「助産婦はどこに居る!?」
「あ、あたし知ってるかも」
「よし。じゃあアサ、呼んできてくれ」
タークはアサから手を離し、アサを押し出した。
「でも、勇者様に……」
「そんなことは後で良いだろう。この状況、分かるだろう。ねえ?」
タークが軽く脅迫気味に言うと、アサは嫌なものを見たかのような顔をして、店から出ていった。
「お湯とか必要だろうな……」
何となくの知識で、タークはとりあえずお湯を用意し始める。サラサはトイレにこもったきりだ。
「サラサさん! 大丈夫か!?」
「……大丈夫」
苦しそうなサラサの声に、タークは今までに味わったことの無い緊張感に包まれていた。
アサは、ものの数分で助産婦を連れてきてくれた。そこからはてんやわんやだった。タークはサラサの友人を呼びに行き、アサは中で出産の現場に立ち会った。とてつもなく長く感じられた時間を過ぎたところで、この世界で始めて上げた声が響いたのだった。




