Chapter 1-(2) 心の答え
ピピピという軽快な体温計の音とは裏腹に、エンスの気分は重たかった。
『40.0℃』という表示がされ、何もないどころか容態は悪化している。ミラアの呼吸も昨日より早く、顔も真っ赤であった。季節的にはインフルエンザという可能性は考えられなくもないが、不安ばかりが募っていく。
十二ヶ月の呪いの薬は即効性がある。服用した途端にリセットされるため、限界まで様子を見ることができる。
しかし、もちろん十二ヶ月の呪いの薬は日本どころか地球には存在しない。更には調合する材料に鏡花星にしかないものが必要となるため、手配するには多少なりとも時間を要する。
「……要望に応えてくれるだろうか」
ローデスがミラアを嫌っているため、地球と鏡花星への連絡はとことん断たれている。唯一あるものが宮葉家のクローゼットだが、あれは鏡花星から宮葉家への一方通行であるため、エンスが直々に向かうことはできないのである。
そうなると方法は、鏡花星から誰かに持ってきてもらうしかなくなる。
エンスはパソコンの連絡先一覧を開いた。しかし、そこには五つの連絡先しかなかった。一つはミラア。もう一つは悠馬。そしてローデスと鏡花星でエンスが所属していた研究室である。
ミラアの緊急事態にローデスが手を貸してくれるなど考えられない。研究室も国からの援助を受けて動いているため、実質ローデスのものと言える。ローデスの支配下にある以上、普段は一般市民の研究員に動かせると何があるか分からない。下手すれば鏡花星永久追放だって十分考えられる。
となると、何とか切り抜けられる答えは一つしかなかった。あと一つ登録している連絡先の名前を何度も目で追う。
「……この方しかいないか」
それは博打とも言える手段であった。自分もミラアも何をされるか分からない。最悪のケースも考えられなくはない。それでもやはり、この方法しかない。
エンスは冷や汗を掻いた。メール新規作成をクリックし、連絡先にその人のアドレスを入力する。文の一文字目を打とうとしたその時、朝によく聞くチャイム音が鳴った。
エンスは神経を張り詰めていたため、ただのチャイム音にかなり驚いて体を跳ねさせた。一呼吸おいて、玄関の扉を開ける。すると予想通り、悠馬と羽花がそこに立っていた。
「おはようございますエンスさん」
「ああ、おはよう」
「何か顔色悪いですね」
「はは、ちょっと怖い夢を見てしまってね。巨大なタコにけさ固めされたんだ」
「それはしんどいですね……」
なるべく動揺を隠すようにエンスはポーカーフェイスを保った。エンスはミラアに嫌な事態が起きるかもしれないと悠馬たちには言いたくなかった。この一年、宮葉家には間違いなく一番世話になっている。迷惑をこれ以上かけることはしたくなかった。
「それで、ミラアは大丈夫ですか?」
「ああ、それが熱が下がらなくてね。今日も学校を休ませるよ」
「そうですか、分かりました。伝えておきます」
「すまないね。よろしく頼むよ」
「いえ。それではお大事に」
悠馬は一礼をして階段を下りて行った。さすがに二日連続となると羽花も不安なのか、心配そうにエンスたちの部屋の奥を見つめるだけで大人しかった。
エンスは再びパソコンの前に座り、メールの入力を始めた。ミラアに十二ヶ月の呪いの前兆が出ているかもしれないこと、薬の服用、副作用のこと。そしてそれの調合には鏡花星にしかないものが必要であること。膨大な内容をなるべく簡潔に纏めた。
最後に、サブタイトルを入力する。『なるべくローデス様に見られないようにしてください』と。
そして送信ボタンをクリックし、数秒後に送信しましたと画面に表示される。
それをしたところで急に眠気が襲ってきた。というのも、エンスは昨日の朝から一睡もせず、ミラアの状態を心電図や看病で監視していた。さすがに睡眠欲というものが爆発してくる。脳をかなり酷使しているため、疲労も大きかった。
「少しだけ寝るか……」
エンスは自室のベッドに体を投げた。どんなときも油断できない状況だが、さすがにこれ以上続けると、今度はエンスの体が壊れて、ミラアの状態を元に戻す話にすら辿り着けなくなってしまう。
エンスはゆっくり瞼を閉じ、眠りについた。なるべくミラアの呼吸に耳を傾けることを意識しながら、知らないうちに夢の中へと入っていくのだった。
☆ ☆ ☆
「ん……」
オレンジ色の光がエンスの網膜を刺激する。朝日を取り込むために開けたカーテンは知らないうちに夕日を入れていた。
時刻は午後四時。朝寝てから一度も目が覚めなかったことを考えるとかなり眠ってしまっていたようだ。
「これしきでこんなに寝てしまうとは、研究員らしくないものだ」
一人で呟いてから、エンスはベッドから体を起こした。そしてすぐさまミラアの様子を確認する。呼吸は朝と比べてかなり安定しており、熱も少し引いているようだった。
エンスは安堵し、ミラアの少し汗で濡れた額を拭いた。熱を測ってみても三十七度台にまで下がっていた。
「そうか、大丈夫か……」
十二ヶ月の呪いの前兆かもしれないと気を張り詰めていたが、一気に弛緩した。何よりも安心が勝つが、死と隣り合わせになるという呪いなだけに、回復傾向にあることは吉報だ。
大きく息を吐くと、ミラアが眠そうに目をゆっくりと覚ました。上体を起こすことはせず、首だけ捻ってエンスの方を見た。
「ミラア、具合はどうだい?」
「かなり楽になったわ」
「そうか……。良かった……」
「何でエンスは泣きそうになっているの? ただの風邪なのに」
「あ、いや、私も寝ていたから欠伸が出ただけだよ」
エンスは涙を誤魔化すように右手で拭った。そもそもミラアは自分が十二ヶ月の呪いにかかっていることを知らない。ましてや、ミラアの発熱が十二ヶ月の呪いに繋がっているかもしれないなんて思うはずがない。だからエンスの安心している様子はかなり大袈裟に思えるのだろう。
ミラアが頭に疑問符を浮かべていると、部屋のチャイム音が響いた。エンスがミラアにそのまま待つように言い、玄関の方へと赴いた。ドアを開けると、そこにいたのは隣に住む悠馬、羽花、そして悠馬のもう一人の妹で羽花の姉である結希だった。
「どうしたんだい、悠馬」
「学校のプリントを渡すついでと言ってはなんですが、お見舞いに行こうかと思って」
悠馬の手には林檎の入ったビニール袋があった。おそらく、ミラアのためにわざわざ買ってきてくれたものなのだろう。ロゴも青果店のものだった。
「わざわざすまないね。今ちょうどミラアが目を覚ましたんだ。会ってくれるとミラアも喜ぶよ。入ってくれ」
「お邪魔します」
「お邪魔しまーす!」
久しぶりに会えるために羽花もここ数日の落ち込み具合からは考えられないくらい明るかった。結希は結希で心配してくれていたみたいで、普段は見せない無邪気な姿で羽花と小走りにミラアの部屋に向かった。
「っと、そうだ。風邪がうつってはいけないから、マスクを用意しとかないとね。悠馬も先にミラアと会ってやってくれ」
「分かりました」
悠馬はビニール袋をエンスに手渡してミラアの部屋に入った。既にミラアは羽花と結希と談笑している。上体こそは起こしていないが、会話は弾んでいるようだ。
「ミラア、具合はどうだ?」
「かなり戻ってきているわ。明日にはもう治りそうよ」
「そうか。それは良かった」
見たところ、いつも無表情なミラアではあるが顔色は多少は良くなっているようだった。薬を飲んで一晩経てばミラアの言う通り明日には回復しそうだった。
その後は学校の連絡事項を伝え、羽花とミラアが魔法少女リーラの話題で盛り上がっていた。気を使ってエンスが三人にマスクを用意してくれた。元気になってきているとはいえミラアにはまだ熱があるため長居は良くなかったが、久しぶりにミラアと話せているためか羽花が嬉しそうで話題が尽きなかった。
「おい、羽花。そろそろ帰るぞ」
「えー! もっとミャアちゃんとお話ししたい!」
「ミラアが元気になってくれたらたくさんお話できるから。な?」
「んー……分かった」
名残惜しそうではあったが、羽花はしぶしぶ悠馬の隣に立って玄関の方へ歩いた。
「熱あるのに悪かったな。お大事に」
「ううん。久しぶりに羽花たちと話せて楽しかったわ」
ミラアは相変わらず表情を表に出さないまま機械のように手を振っていた。ただ体を起こしていたので、やはり状態は良くなっているのだろう。その姿に悠馬も安心した。明日はミラアは学校に来てくれそうだ、と。
☆ ☆ ☆
もうすぐ日付が変わる。辺りは真っ暗だ。風邪を引いているのだから早く寝るのは当たり前だ。晩御飯も軽くではあるが喉を通り、体のだるさも消えていた。
しかし、何故だか分からないけど苦しさが消えなかった。どこから来るものか分からないけど痛みが襲ってきた。
無意識のうちに立っていた。部屋を出た。部屋と同じように暗い廊下が姿を現す。一つ違うところと言えば、向かいの部屋から少しの光が漏れていることだ。
風邪がぶり返してきたのだろう。ちゃんと報告して様子を見てもらおう。
そう思っているはずなのに、手は部屋のドアノブに向かって出ない。足は右方向にある玄関へと向かっていく。
まるで自分が誰かに操られているかのようだ。気持ちと行動が一切同じことをしない。今自分がしたいことはまた痛みが来たことを伝えることなのに、体は一人にさせてくれと心の目的から離れて行く。
静かに靴を履き、静かに玄関の戸を開いた。虚しく蛍光灯だけが光っていて、マンション独特の薄暗さが包み込む。
階段を下り、気づけばマンションから完全に出ていた。パジャマのままふらふらとおぼつかない足取りで歩く少女の姿は他人から見れば危なっかしいものだろう。
目的もなく歩き続けた。何をするでもなく、どこに行きたいわけでもない。ただ暗い夜道を歩き続けた。
☆
「ん……?」
エンスはパソコンで研究作業をしていた。しかし、そこでパソコンに異常を知らせる通知音が鳴り響いた。対象ファイルはミラアの心電図だった。エンスは冷や汗を掻いて、おそるおそるファイルを開いた。
すると、今まで見たことのないような異常数値を記録していた。振動数、振幅、全てにおいてかつてない最悪の状態に陥っている。
「ミラア!? ミラア!?」
エンスはすぐさま向かいのミラアの部屋に入った。すると布団が半分に折りたたまれていて、そこにミラアの姿はなかった。風呂やトイレを探してみても姿は見当たらない。
エンスは玄関まで探した。すると明らかにおかしい状態に気づく。
「ミラアの靴がない……」
エンスは慌てて部屋を飛び出した。施錠も忘れて急いで階段を下っていく。ただでさえ体調が悪いからそう遠くへは行けないはずだ。エンスはミラアの名を呼びながら街を走り回った。
「ミラア……どうしたんだ……」
悲しい気持ち。腹立たしい気持ち。ミラアに対するものか自分に対するものか分からないそれがエンスを締め付ける。
とにかくミラアを探し出すことが第一だ。エンスは静まった夜の住宅街を走り回った。




