Chapter 2-(5) 涙の先
真菜の放った言葉が空気に溶けていく。
悠馬は呆然としたまま、しばらく固まっていた。これまでの真菜とのやり取りを考えても、好意を持たれていると思っていた。それだけにこの返事はダメージが大きい。
「そっか。ごめん、俺も急にこんなこと言い出して」
「ううん、私こそ……」
「ちょっとライブで舞い上がってたのかも。じゃあ帰ろうか」
悠馬は辛い思いを必死に隠そうとした。だけど長く耐えられる気はしない。悠馬は一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
その悠馬の寂しい背中を見ている真菜もまた、辛い思いが込み上げてきていた。でもその混沌とした感情の中から、どうしても言わなければいけないことを選ぶのに時間はかからなかった。
「違う……」
気づけばそう呟いていた。
「違うの、宮葉君!」
「え、何が……?」
悠馬も驚いた顔をして真菜の方に振り返った。
「私は……私は本当は宮葉君が好き」
「え……」
「中学校で一緒のクラスになったときから、ずっとあなたのことが好きだった」
「じゃあ何で……」
「答えちゃいけないから」
「どういう意味?」
悠馬には何が何やら分からない様子だった。
それも無理はない。悠馬と真菜は両想いという関係なわけで、それで付き合わないというのはおかしい話だ。
しかし、もう真菜には一つも迷いはなかった。
「ミラアさんって知ってる?」
「……白花もそれか」
悠馬はうんざりしたように首を掻いた。
「みんなそのミラアって名前を俺に言うんだ。知らないものは知らない。冗談にしてもしつこすぎる」
そんな悠馬を見て、真菜はふふっと小さく笑った。
「仕方ないよ。宮葉君がどれだけうんざりしても思い出さなくちゃいけない人だもん」
「……一体何者なの。そのミラアって人は」
「何者か〜。そうだな……色んなことをした人だけど、悠馬君の人生を変えた人かな?」
「俺の人生を?」
そう。彼女は彼の人生を変えてしまった。
もちろんミラアが現れなくても悠馬の人生は普通ではなかっただろう。家族の問題で毎日勉強して遊んでという高校生活は送れなかったはずだ。
そして、一度崩れた家族を取り戻すこともなかっただろう。
真菜は深呼吸した。ここで話せば初恋が全て終わる。その最後の決心だった。
「悠馬君のご両親との関係はどうやって戻ったの?」
「いきなりどうしたの?」
「いいから答えてみて」
「んん……一番は父親から連絡来て、拓斗が母親を見つけたから話し合う場ができたからかな。苺ちゃんも父と話してくれたみたいだし、色んな人に助けてもらったな」
「じゃあ、宮葉君は?」
「俺?」
「ご両親と話すの、苦しくなかった?」
「そりゃ苦しかったよ。お母さんにはもう別の家族がいたし、お父さんも中途半端な状態で帰ってきたしな……」
「でも仲直りできたんだね」
「まあ、動くしかなかったし……」
「宮葉君はそんなに強い人じゃないよ」
真菜は小さく笑った。
「何だよ失礼な……」
「だって親に買ってもらったキーホルダーを失くして大慌てするような人だもん」
悠馬も今しがたそのことを話して真菜に告白したから少し反応に困る。
「誰かが宮葉君を支えてくれた。誰かが、宮葉君の背中を押してくれたんだよ」
「誰かが……」
「うん。誰かが」
悠馬にも真菜のいう誰かというのがミラアだということは分かった。
しかし、やはりその名前に聞き覚えはない。漫画のような頭が痛む感覚も全くない。やはりみんなの勘違いではないのだろうか。
と、そんなことを思っている悠馬を察したのか、真菜は少し悲しそうに微笑んで悠馬の鞄についているキーホルダーに触れた。
それは真菜が見つけてくれた親との思い出のキーホルダー……ではなく、虹色の奇妙なイルカのキーホルダーだった。
「白花? それがどうかした?」
悠馬の問いかけに返事はせず、真菜は自分の鞄に手を入れた。そして取り出したのは――同じ虹色のイルカだった。
しかし真菜のキーホルダーは紐の部分は乱雑にちぎれていて、何だかイルカも薄茶色に覆われていた。
「白花も同じの持ってたの!? ……にしても随分汚れてない?」
「あはは。必死で掴み取ったからね」
「掴む?」
「はあ。宮葉君。一緒に買ったことを覚えてないなんて、女の子は悲しんじゃうよ?」
「え、これって白花と買ったんだっけ?」
「違うよ」
「何だその冗談――」
「私じゃないでしょ?」
もうおどけた真菜の顔はない。これが最大の一手と言わんばかりの表情だ。
さすがに冗談を言っている雰囲気ではないと察した悠馬は虹色のイルカをじっと見つめた。
このキーホルダーはおそらく真菜たちと行った水族館で買ったものだ。治親がルヴィーネに追いかけられていたり、苺に好きな人を聞かれたり、楽しかった思い出がある。
虹色のイルカは悠馬一人で買ったものだった。だからさっき真菜に言われたときは本当に焦ったものだ。
でも、何でこんな変な色のイルカを選んだのかは分からない。可愛さも明らかに消されているし、綺麗さも妙に欠けている。思い出に買うにしても、もっと違うものを選ぶ気がする。
――本当に一人で買ったのか?
真菜が「女の子が悲しむ」って言ったから女の子と一緒に買ったのか。しかし苺ではないだろうし、真菜も本人が違うと言っているし、ルヴィーネは治親しか追いかけないし……悠馬の周りにいる女性の可能性は全て潰れてしまっている気がした。
『大事にするわ』
そうして思考を巡らせていると、そんな声が聞こえた気がした。あまり記憶にはない声。でも何度も耳を通ったような馴染みのある声。気怠いような、弾んでいるような、不思議な引力を持った声。
「ミラア……」
うんざりするほど聞いた名前をぽつりと口にしてみた。
すると無意識に一粒の涙が頬を伝った。
その悠馬を見て少し安堵しながら真菜が口を開いた。
「私がしたことは宮葉君の思い出を見つけたに過ぎない。でもミラアさんは悠馬君の人生を変えてしまった。救ってしまった」
真菜は静かに悠馬の手に不格好な虹色のイルカを置いた。
「だから私は宮葉君の告白は受け入れられない。宮葉君もその言葉を伝えたい人は私じゃないでしょ?」
「…………いいのか?」
「良いも悪いも、私がフッたんだから!」
真菜は白い歯を覗かせて笑って見せた。その頼もしい姿につられて悠馬も笑ってしまう。
「ありがとう、白花」
「どういたしまして。それじゃあ宮葉君は行くところあるよね?」
「ああ。今すぐ行かなきゃいけない」
真菜はそう言った悠馬の背中をトンっと軽く押した。それを合図に悠馬は暗い住宅街を走り出す。
「はあ、終わっちゃったなあ……」
「白花ー!」
初恋の終焉に肩を落としていたら、走り出したはずの悠馬がこちらを向いていた。
「本当にありがとう!」
「もう、分かったから走って!」
これ以上は真菜も耐えられそうになかったから、焦って悠馬に急ぐように言ってしまう。
「俺、白花があのときキーホルダー見つけてくれなかったら、もっと早く潰れてたと思う! だから、本当にありがとう!」
「……どういたしましてー!」
それを最後に、悠馬が振り返ることはなかった。
「そういうところなんだよね……」
悠馬は良くも悪くもそういう人だ。受けた恩に差をつけない。人生を変えたミラアの方が影響が大きいはずなのに、そうやって真菜も同列のところまで引き上げてくる――いや、悠馬にとっては元々、同じくらいの貰いものなのかもしれない。
「うん! 宮葉君の前で泣かなかった私は偉い!」
そう無理に出した大声が空に消えると同時、真菜の目からは大粒の涙が溢れ出した。何度拭っても止まりはしない。でも今はそれが少し楽だった。
「ミラアさん、帰ってこないと許さないんだから……」
最後にそう呟いて、真菜もまた歩き出した。
その一歩は今までと少し違う感触がした。