Chapter 1-(5) 愛した記憶
潮の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。その落ち着いた雰囲気とは正反対に前を歩くルヴィーネは両手を広げて喜んでいた。
「はあ〜! 夢みたいです! まさか治親様からデートに誘っていただけるなんて!」
「大袈裟だな」
治親は困ったように笑い、先へ先へと行くルヴィーネを寂しそうに見つめていた。
治親とルヴィーネは水族館にやって来ている。いつものように賑わっている何も変わらない水族館なのに、治親は歩く度に胸が痛んだ。
あの日、ミラアが連れ去られて悠馬の記憶が消された場所も、誰もがただのアスファルトとしか認識していない。その状況が何かむず痒く、心に重くのしかかってくる。
「治親様!? 顔色が何だか悪いですよ!?」
「そ、そう?」
「大変です! 今すぐ救急車を……!」
「待って待って! どこも具合悪くないから!」
治親は既に119番が押されていたルヴィーネの携帯電話を取り上げた。
すると先程までおどけていたルヴィーネがふっと優しく笑い、そっと治親の手から自分の携帯電話を取った。
「繊細な方ですね、治親様は」
「……本当によく分かるね」
「ずっと想っていましたから」
「あはは……」
堂々としたストーカー宣言に治親も苦笑いするしかなかった。既に知り合いくらいの関係にはなっているから、いっそ清々しく感じるのがまた恐ろしい。
でもそのルヴィーネの洞察力には脱帽するしかない。治親は自ら切り出すまでもなく、思いを語れる状況を作ってもらった。今の治親にとってこれほどありがたいことはなかった。
「思ったよりショックだったんだよ」
「そうでしょうね」
「悠馬とミラアさんが過ごしてきた日々が、あんな一瞬のことで悠馬の中から消えてしまうなんて悲しすぎるじゃんか」
治親が悠馬とミラアと過ごした日数は二年くらいである。長い人生で見ればたったそれだけの期間と思われるかもしれないが、少しは語っていいくらいに一緒にいたつもりだ。
表に出ないけど嬉しそうに悠馬について行くミラアと、呆れながらもそれに付き合う悠馬が治親の見てきた高校での日常だった。
だからこそ、二人が引き裂かれ、記憶がなくなることなんてありえなかった。
怒りもあれば迷いもある。不安もあって疑問もある。頭の中はとりあえずどうしていいか分からない。エンスたちに委ねるしかないのが少し悔しい。
そんな入り混じった感情で来ようと思ったのがこの水族館で、連れて来ようと思ったのがルヴィーネだった。
そのルヴィーネはというと、治親の話を聞いてわなわなと震えている。
「ルヴィーネ……?」
「やはり私の目に狂いはありませんでした! やはり治親様はお優しい方です! お二人のことをそこまで想って!」
「どうしてそんな話になる!?」
悠馬とミラアの話をしていたはずなのに、一度ルヴィーネを挟むとすぐに治親の話になってしまう。
これがいつも調子が狂う原因なのだが、今日ばかりは少し都合が良かった。
何故なら今日、ここに来た本当の目的は感傷に浸るためではないからだ。
目を輝かせながら治親を見つめるルヴィーネ。彼女から一歩下がって距離を取り、治親は頭を下げた。
「ルヴィーネ。ごめん」
「へ?」
思わぬ治親の行動にルヴィーネも驚いて、ふざけた調子も一瞬で抜けてしまった。
「ルヴィーネが言ってる昔にあった男の子が本当に俺なのかは今でも分からない。でも嘘じゃないかもしれないとも思ってるんだ。まあ、悠馬たちのことも自分の目でしっかり見ちゃったし」
「治親様……」
「もしルヴィーネがずっと俺のことを好きでいてくれたんだとしたら、俺に忘れられていたこと怖かったでしょ?」
ずっと想っていた人が自分のことなど忘れて怯えられて。それからも距離を取って逃げられて。治親がもしルヴィーネの立場だったら耐えられないくらい悲しいだろう。
彼女はそれを笑って過ごしていた。単純に治親に会えた嬉しさが強すぎたというのもあるかもしれないが――辛くないはずがない。
ルヴィーネは幼少期からずっと、自分を救ってくれた治親を追いかけていたのだから。
「だから今度は忘れない様に、ちゃんとルヴィーネのことを見てみるよ」
起きてしまったことは仕方ない。治親がルヴィーネのことを忘れたのも、悠馬がミラアのことも忘れているのもどうしようもない。
だったら今の治親にできることは、今のルヴィーネと向き合うことだけだ。一〇年以上遅れてしまったけど、やり直す時間は幸いにもある。
「……うふふ」
ルヴィーネは小さく笑った。何だか臭いことを言ってしまったと治親も急に恥ずかしくなって慌てて顔を上げると、そこには涙を流しているルヴィーネの姿があった。
「それはずるいですよ、治親様……」
ルヴィーネの頬を日の光を取り込んで透明に光る涙が伝っていく。今まで我慢していた感情が一気に溢れるように、次々と涙は生成されていった。
こんな姿は見られたくないとばかりにルヴィーネは涙を拭い続けた。嗚咽も零し始め、いよいよ自分でも止められなくなってしまった様子だ。
それでもやっぱりその後の行動はルヴィーネだった。涙を流しながら勝ち誇ったような笑みを浮かべ、治親に堂々と宣言した。
「今度は私も頭から離れられないくらい誘惑しちゃいますから覚悟してくださいね!」
「……うん。覚悟しておく」
二人は再び目を合わせて微笑み合い、この状況をしっかり噛み締めた。そしてきっと、悠馬たちも何とかなると信じられる気がした。
――大丈夫だ。悠馬は絶対にミラアさんのことを思い出す。
――大丈夫。もう絶対に君を忘れない。
治親は相変わらず泣くことを止められず背を向けたルヴィーネを見て、小さく信じ、誓った。
お久しぶりです。
この春に新社会人となり、環境の変化などに疲れも出てしまい、なかなか書けない日々が続いています。
それでも少しずつ再開していこうと思いますので、よろしくお願いします。
以前は金曜日に更新していましたが、これからは完成次第、曜日に関係なく投稿いたします。
それでは今後とも十二ヶ月の姫君様をよろしくお願いします!