[原]セツエン
一
夏の山、蝉たちが鳴いている。音の波に小さな声がまぎれていた。出所を探し、少年は 薮をかきわける。
それは、死にかけた子犬だった。
灰色の毛に包まれた体はやせ細り、骨が浮きでている。足に力が入らないように土にねそべっている。舌を出して弱々しく息を吐いていた。
(親に捨てられた子犬かな)
八歳の少年、セツエンはしゃがみこんでそれを見つめる。犬のまぶたを蟻が歩く。小さな虫を追い払う力もないようだ。
(もう、死んじまいそうだ)
彼は手をのばす。触れる寸前、痛みが走る。子犬が噛みついた。犬は震える足で立ち上がり、かすれた声で吠える。しかし直ぐに力をなくし崩れ落ちた。
(……死にたくないんだな)
セツエンは子犬を抱いた。立ち上がり、駆けた。垢と泥で黒ずんだ肌に雫が浮かぶ。ぼろ布でできた服がはためく。大きな傷跡が残る左足を引きずり、セツエンは前へ進む。
(こいつは俺と一緒だ……)
小石につまづき、右足の指をぶつけた。爪が肉に食い込む。強い痛みがしびれるように響く。左足の古傷も痛み始める。それでもセツエンは前へ進む。
子犬はもう眼を開けていない。手足をけいれんさせている。セツエンは前へ進む。
(ぜったい、死なせてなるもんか!)
冷たい空気が彼の喉を通る。せせらぎが聞こえる。彼は子犬を草の上へおろした。小川へ向かい手のひらで水をすくう。鼻の前につきだされ、子犬は顔を上げ少年を見つめた。
少年の黒い瞳と、子犬の 翡翠のような瞳が互いを写す。
「……親なんて忘れちまおう。もう、自分の力で生きなきゃ駄目だ」
それは、獣へ向けられながらも、自分に言い聞かせているような言葉だった。
二
それから一年が経った秋の日、セツエンは家の玄関で夕涼みをしていた。彼の住む小屋は手入れされておらず、柱や壁は所々腐りかけていた。
セツエンと同じ年頃の少年、ソクが小屋の前にあらわれた。坊主頭をかきながら細い目をより細めてにやけている。セツエンは嫌な気分になって彼から目をそらした。
ソクは地面に落ちている小石をつかんで振りかぶり、セツエンへと投げつけた。石は鈍い音を立てて 額にぶつかった。
「やーい! 悔しかったら追いかけてみなー。すてごの、のろま! すてごの、のろま! くせーんだよ!」
ソクの笑い声を少年は黙って聞いていた。痛むをでこ押さえると、小さな手に血がついた。やり返せないことが情けなくて泣きそうになった。
二年前の冬、セツエンは父を病で亡くした。残された母は子供を捨てて渡りの商人と駆落ちをした。親という最大の味方もおらず、村中から腫れもの扱いされた少年は、誰に何をされても抗うことができなかった。
小屋から雄叫びが響く。四つ足の影がすさまじい早さでソクに近づいていく。柔らかな毛の下でしなやかな筋肉が形を変える。少年は逃げようと振り向き足を絡ませて転ぶ。翡翠の目をした獣が噛みついた。あの夏に出会った子犬は二回りも大きく成長していた。
ソクの泣き声を耳にして、セツエンは立ち上がり、左足を引きずりながら彼の元へ向かった。
「おい! カンム! やめろ!」
後ろからつかみかかり、力いっぱい子犬を止める。ソクは泣きわめき、黄色い水たまりを残して逃げていった。
「ああ、もめ事を起こしちまった……」
優しかった大人たちは父親が亡くなってから変わってしまった。自分が煙たがれており、これ以上嫌われれば村を追い出されかねないことを少年は知っていた。
「ったく、お前は噛みすぎだ! カンム!」
彼の気持ちなど察さずにあくびをしている犬に文句を言う。彼はこの噛み癖のある雌犬をカンムと呼んでいた。
彼女の横顔を眺めているうちに、セツエンはソクの情けない後ろ姿を思い出した。気分が良くなって小さく笑った。一人と一匹はそろって山に向かった。
太陽が半分ほど地に沈んだ頃、山の幸で腹を満たしたセツエンとカンムは小屋へ帰った。夕暮れで赤らんだ土の上に人の影がのびている。影の持ち主は近づき、少年を殴り飛ばした。
「おれの子に手を出しやがって!」
男はソクの父親だった。セツエンは地面に倒れたまま恐る恐る男を見上げる。丸い顔についた大きな鼻が赤らんでいる。男が鬼のように見えて、彼は立ち上がれずに丸まって震えた。口の中が切れて血の味がした。
カンムが吠えた。男に飛びかかり足に噛みつく。直ぐに蹴飛ばされた。セツエンは立ち上がり彼女を抱きあげ、涙でにじむ視界でカンムの無事を確かめた。
「なんだあ? 獣と乳くり合って。まったく、淫売のガキが! 村の面汚しめ!」
捨てられてもなお母の悪口を言われるのは心が痛んだ。悔しかった。その一方で卑しい自分が殴られるのは当然の事かもしれないとセツエンは思った。
男は転がっていた木の棒を手に取り、ゆっくりと彼に近づく。カンムは目を開き、牙を剥き出しにしてセツエンの腕の中で暴れた。
「犬っころの頭を叩き割ってやる! 晩は犬鍋だ! ソクも安心するな」
獣が 猛り吠える。カンムは興奮のあまりセツエンの腕に噛みついた。彼は黙ったまま痛みを耐え、目をつむり彼女を強く包む。暗闇の中、暖かな体温と強い鼓動が伝わる。彼女の生命を感じる。
「やりすぎだ。もうやめておけ」
三十代半ばの男が現れてソクの父親の手をつかんだ。石のように角張った顔の右頬には大きな傷跡が走っている。この村の 猟師の長、オヤユだった。
「そいつはソクをいじめたんだ! こらしめねえと仕方ねえ」
「大人が子供を殴ったんだ。もう充分だろう」
少年から距離を置いて二人の男が言い争う。セツエンは黙ったままカンムを抱いていた。
「犬は危ねえからなあ。殺さねえと気が済まねえ。オヤユだって娘がおるだろ!」
セツエンの父とオヤユは共に狩りにいく相棒だった。村の中で彼だけは必ず自分を助けてくれるものだとセツエンは思っていた。カンムを傷つけたりしないと信じていた。
オヤユはセツエンへと振り返る。向き直り、ソクの父に小声で話しかけ、うなずいた。セツエンはじっと見ていたが、何を言ったのかは聞こえなかった。
話しが終わった。ソクの父は場を後にして、オヤユはセツエンの前に立った。
「大丈夫か、セツエン。今日はうちで寝たらどうだ。娘も喜ぶだろう。ただあいつは犬が苦手だから……」
「……そう言って、カンムを殺す気か!」
オヤユの言葉に耳を貸さず、セツエンはカンムを抱えて小屋へ入る。オヤユは追いかけてこなかった。
誰もいない小屋の中はびゅうびゅうと風が吹き込んでいた。腕の中で暴れていたカンムを床に降ろした。
「おい。蹴られたのは大丈夫か?」
少年はしゃがんで彼女の喉をくすぐった。彼女はめんどくさそうに顔を背け、すました顔をしている。しつこく彼になでられ続け、とうとう笑うように吠えた。じゃれ合って玄関を転がりあう。
噛まれた傷を柱で打ち、セツエンは痛みの声をもらす。直ぐに彼女は気づき右手の傷をなめた。
「カンム、お前の眼は奇麗だなあ」
セツエンは左手で彼女の頭をなでた。毛が柔らかく気持ちよかった。唾液が染みて傷が痛む。舌はひんやりと冷たい。だが彼女の温もりが伝わった。
「オヤユも母さんと一緒だ」
父と母と暮らしていた頃の部屋を思い浮かべ、彼は今の荒れ果てた部屋に重ね見る。
狩りに出るとセツエンの父は数日は帰らなかった。父のいない家が怖くて彼は母の布団で寝た。『おっとうは村一番の猟師だから大丈夫』『わたしも、おっとうも、セツエンが一番の宝ものだからね。必ず戻ってくるさ』母の言葉から愛情に感じ取り、彼は安心して眠りについたものだった。
「人間なんて口だけだ」
母が商人と駆け落ちしたのは去年の春の深い夜だった。布団に入っていたセツエンはふと目を覚まし、逃げようとしている二人を見た。しがみつく彼を母は蹴り飛ばした。柱から出ていた釘が足にささり、左足の太ももを切り裂いた。赤い水たまりが広まるのを目にしても母は息子を置いていった。彼は捨てられた。
セツエンはカンムを抱きしめる。
「お前だけだ。俺のことを想ってくれるのは」
一人と一匹の間に言葉はいらない。彼は彼女の鼓動を聞く。優しく力強い音だった。それが自分にとって何より大事なものだとセツエンは気づく。この時から、村人たち他人が彼にとってどうでも良いものと変わった。
三
ごうごうと風が吹き、雪が舞う。夕暮れの山中、八人の男たちがやっとのことで山小屋へとたどり着いた。体にのった雪を払い落とす。部屋の中央に火をつけた。
男たちはみなマタギだった。頭に傘をかぶり、背中にカモシカの毛皮をかけ、屈強な腕には獣を殺める武器が握られている。冬の間は手に入りづらい新鮮な肉を求めて山に来ていた。
三四十の脂ぎった男の衆に混じり、一人若い青年がいる。黒い髪をぼさぼさとのばし、尖った目つきをしていた。
「おい、セツエン。身体を暖めておけ」
十五歳となったセツエンにオヤユが声をかけた。セツエンは聞くそぶりもなく、幅の広い小刀を着物のすそで磨く。
オヤユは四十半ばとなり髪は薄くなり、頭のてっぺんは肌色がのぞいている。中背だったが背筋がのびていて他のマタギより大きく見えた。
「返事ぐれえしやがれ!」
一番背の低い男モンが声をあげた。
「いや、いいさ。若い男だ。少しぐらい冷えても大丈夫だろう」
「まったくお頭はセツエンに 甘え。昼に親子の獲物を見逃したのにも怒りもしねえ」
顔をしかめながら青年をにらみ、モンはくちゃくちゃと口の中の野草を噛む。彼は三十前半でセツエンの次に若い。ぎょろぎょろとした目つきで鼻の下は長く猿に似ていた。
「動物に優しい猟師なんて笑いもんだ。去年の事をまだひきずってんのかあ? 獣が死ぬたびにめそめそしてたら、泣きすぎて干物になっちまうぞ」
モンの言葉にセツエンは小さく震える。手を止めて刃を火へと掲げた。熱気をふくむ赤々とした像が写る。刀をしまい、彼はうつむいた。
「モン、うるさい。さあ、寝るぞ」
「へえへえ。お頭の言うことには従うさ。まあ男だけだ。おっ母もおらん。ぐっすり眠らせてもらおう」
オヤユは小さくため息をつき、八人に聞こえるようにこう告げる。
「ここは山だ。獣達に囲まれている。いつ襲われるか分からん。寝る時も気を抜くな」
深夜の山に静けさは訪れない。夜に目覚める鳥たちが鳴いている。男達の寝息も聞こえる。風が吹き、小屋をきしませる。山の奥から獣の遠吠えが響く。目を開き、セツエンは低い声でつぶやいた。
「……殺してやる」
静かに立ち上がり、毛皮をかけ、傘をかぶり、彼は武器を手に取る。眠りについた七人など見向きもせず、ただ一人暗い森へと進み出た。
夜というのに外は明るかった。濃紺の空に青白い星がいくつも沈み、雪のつもった大地は淡く光っている。葉の落ちたブナの木は巨大な動物の骨のように見えた。
冷たい空気をセツエンはゆっくりと吸いこむ。右手に持った槍を杖に使い、左足をひきずりながら雪を踏み歩む。
体がかたむく。雪の底の土がぬかるみ足を踏み外した。手を伸ばし近くの木をつかむ。飛び出た枝が突き刺さり、赤い雫が地面の白を溶かした。
目をつむりセツエンは顔を歪める。「赤」と「白」の光景が浮かぶ。立ち直り、手のひらの赤い線を眺めた。胸を痛ませるのは傷ではなく、思い出だった。
雪山の中で、彼は蝉の鳴き声を聞いた。
四
子犬と出会った夏の日をセツエンは思い返す。過ぎ去った日は今日まで途切れはしない。一つを引っ張れば紐でつながれたように後の出来事も訪れる。それは去年の冬のことだった。
白い大地を八人の男達がちりぢりになって歩いている。飛ぶ鳥の目には蟻のように写るかもしれない。昼の雪山だった。
青年がしゃがんで獣の糞をつかんでいる。灰色い犬が彼に忍びよる。彼の腰に鼻を当て、首をふってブナの木を示す。お前はこんなのも見つけられないか、と自慢げな様子だ。ある獣が縄張りを示すために臭いをつけていた。十四歳のセツエンと成犬になったカンムだった。
セツエンはオヤユに手をふった。オヤユが残る六人に合図をし、カモシカ狩りが始まった。セツエンの目とカンムの鼻は重宝され、二年前から狩りに参加するようになっていた。
生き生きとした彼女の姿を目にして彼は安心した。他人と近づこうとしない青年が村人達と猟をするのには訳があった。大きくなるにつれてカンムの気性は荒くなり家畜を襲うようになった。十日に一度は彼女の衝動を晴らさなくてはならなかった。だがセツエンの左足の傷はひどくなる一方で、村から離れた山へ一人では行けなくなっていた。
銃声が響き、鳥がはためく。セツエンは目を凝らし遠方を見つめる。モンの放った銃弾がカモシカの後ろ足をかすめていた。獣は倒れず崖の上へと逃げていく。
空気の変化にセツエンは気づく。カンムは歯茎をむき出しに荒々しく息を吐いている。血の臭いをかいで興奮したらしい。
「おい、カンム! 落ち着け」
たくましい四つ足でカンムは走る。セツエンの足では追いつけない。追いついたとしても力はかなわず止められないだろう。
「深追いするんじゃない!」
彼女は崖を駆けのぼる。石を飛び越え、雪を踏みつける。カンムの姿は小さくなり、山奥へと消えていく。
「戻ってこい! カンム!」
澄み切った空気は人の声を響かせる。それでも彼女に言葉は届かない。
夜の山小屋で七人の男が火を囲っている。セツエンは一人玄関の前ででうろつく。窓から暗くなった外を見た。
「おい、セツエンそこにいても仕方ない。こっちへ来て飯でも食え」
日が暮れてもカンムは帰ってこなかった。入れ違いになるのを恐れて彼は小屋で待っていたのだ。
「本当はあいつ犬の子じゃねえのか」
「あのあばずれ女ならやりかねん。ほれ! 泣くなら鳴けよ、ワンワンと!」
他のマタギ達がセツエンを茶化す。オヤユの低い声ですぐに静かになった。セツエンは不安のあまりそのやり取りにも気づいていなかった。
強い風が吹き、小屋をきしませる。音の波に小さな声がまぎれていた。出所を求めて青年は扉を開く。
それは血だらけの犬だった。
甘えるように鼻を鳴らし、弱々しく足が震えている。ふわふわとした毛はむしられ、右の脇腹に大きな傷がかかっている。桃色の肉が空気にふれ、血が滴る。いつもの威張っている彼女はそこにいなかった。
セツエンは恐る恐る彼女へ手を伸ばす。頬へ手が触れる。力がぬけて地面に腰をついた。カンムを抱く。痛々しい姿が悲しかった。無力な自分が悔しかった。帰ってきてくれたことが嬉しかった。セツエンはすすり泣いた。
翌朝、マタギ達は小屋で狩りの用意をしていた。セツエンはしゃがみこみ、布で傷を覆ったカンムの頭をなでる。
「カンム、今日はゆっくり休めよ。俺は奴らについていかねえと駄目なんだ」
幸い半月も大人しくしていれば治る怪我だった。彼は彼女を小屋へ残すことを決めていた。
「犬が心配なら、残ってもかまわないぞ」
「いいや、俺は俺の仕事をする。あんたらに迷惑はかけねえ」
オヤユの言葉を受けて首を横に振る。カンムとの暮らしに他人が立ち入ることを嫌い、セツエンは人に借りを作ろうとはしなかった。
「待ってろよ、カンム。少しの我慢だ」
小屋から離れる時、翡翠のような瞳と黒い瞳が互いを写した。弱々しいカンムの眼を見てセツエンは立ち止まる。置いていきたくなど無い。彼女の傍らにいたい。その気持ちが甘えに思えた。彼は眼をそらして、山へ足を進めた。
狩りが始まる。たくさん獣を狩って、彼女に肉を食わせ、傷を治してもらおう。セツエンはそう思った。全ては彼女との今後のためだった。
たくさんの獲物を抱えて戻ってきたセツエンを迎えたのは、床に跳ねた大量の血痕と、雪に残る狼どもの足跡だった。小屋は荒らされ、彼女の傷を覆っていた布は血に沈んでいた。カンムは 何処にもいなかった。
吹雪く中、セツエンは装備もせずに外へ出る。彼女の姿を探した。マタギたちが彼をおさえる。彼はもがき、泣き叫び、気を失った。そのまま山を降ろされる。村へ戻っても床に着いたままうなされ続けた。
この冬、セツエンは唯一の家族を失った。季節が一巡して、再び狩りの時期が訪れようと、あの赤と白の光景は彼の頭から離れなかった。彼女を襲った狼たちを、彼女を一人残した愚かな自分を強く憎んだ。炎のような想いは彼の胸の内を焦がし痛みつける。
セツエンは山へ来た。言う事を聞かない左足のせいで一年待つこととなった。彼は憎しみを冷たい刀に乗せ、血を求めた。
五
ぼぉぼぉぼおと梟が鳴いていた。『あの鳥は嫁鳥を決めるとずっとつがいで暮らし続ける。人間と一緒なんだ』父親の言葉をセツエンは思い出した。
山の奥へと彼は進む。雪の中から骨が飛び出ていた。熊に襲われたカモシカのものらしい。
(……死ねば、骨となる)
今日の昼、カモシカの親子を見つけた時、彼は黙ってマタギ達に知らせなかった。
(産まれて、死んでの繰り返した。死ぬなんて大したことじゃない。……だが獣も人も、死ぬのを恐れている)
去年の春、子連れの熊と遭遇したとき、母熊はすさまじい執念でマタギたちを襲った。セツエンはその姿に恐怖よりも先に感動を覚えた。
(大事なものがある奴は……死ねない。残されたものを想って死ぬのが怖くなる)
狼の牙にカンムが襲われたひと時を思い浮かべ、彼は自分を苦しめた。大勢に囲まれて彼女は命を奪われた。怖くて、悔しかっただろう。セツエンは思う。
(俺が怖いのは……カンムとの思い出がなくなることだけだ)
森の奥にカンムの幻を見る。直ぐに消えた。彼女はもういない。胸の痛みが彼女のありがたみをより強く教える。偶然の出会いは彼に唯一の幸せをもたらした。
(……奴らか?)
何かこすれる音がして彼は槍を構えた。風が吹いて枯れ木を揺らす。鳥の羽音が聞こえる。風がやみ、夜の森から音が消える。しばらく辺りを見回し、彼は槍を降ろした。
足音に気づいた時には遅かった。左足に激痛が走る。槍を振るうも後ろに跳ばれ、かわされる。若い狼が距離を置き喉を鳴らしている。
「来い! まずはお前からだ……!」
狼が飛びかかる。セツエンは槍を構え、腹を狙う。爪と牙がセツエンの喉へ向かう。切っ先が骨に守られていない柔らかな肉に突き刺さる。獣の重さを支えられずに木の棒は折れた。腹の奥まで刃が入りこみ、獣は力なく雪に落ちた。
狼は横に倒れたまま白い息を吐いていた。どこを見ているかも分からない。セツエンの手が震える。死にかけた狼とカンムの死に際が重なって見えた。
「……お前が、お前らがやったことだ!」
小刀を取り出し、獣の喉に突き刺した。湯気を上げながら血はあふれ雪を溶かす。彼女からはもう感じることのできない温もり、それは生命を感じさせた。
獣のうなり声が空気を振るわす。彼は恐れず吠える。
「お前らは俺の全てを奪った。……俺もお前らの全てをかっ消してやる」
狼の死体をつかみ、気配のする方へと投げ捨てる。肉と骨の 塊は力なく雪へと落ちた。
十匹あまりの狼たちが姿を現した。自分を殺めるために光る牙にも恐れもせず、青年は小刀を構える。彼は気づいた。
獣達の瞳が闇に浮かんでいる。そこにただ二つ、 翠色の、宝玉のように輝くものが混じっていた。
「あ……ああ。お前は……」
セツエンは立ち尽くす。初めは幻だと思った。だが、彼女は確かにそこにいた。
「……カンム」
灰色の毛は白さが混じり、身体も少しやせている。だが、その足どりも、特徴的な瞳も彼が知っているカンムに他ならない。彼女はゆっくりと血の水たまりへと近づき、 屍を愛おしそうになめた。
「生きていてくれたのか! おい、カンム。どうしたんだ? 俺のことを忘れたのか? そんなわけないだろ!」
カンムは顔を上げる。喉をうならせ、セツエンの首元を睨みつける。
「ああ、なんで、なんでだ!」
幼き頃、彼女が自分を守るため男に立ち向かったことを彼は思い出す。彼女の瞳にはあの時と同じ憎しみが込められている。それが向かう先は――
「なんでお前は! そいつらといるんだ!」
カンムとセツエンの瞳が互いを写す。彼の身体から力が抜けた。
(……そうなのか。ああ、そうなのか!)
雪が強くなり、視界を白く染めた。獣達は家族を奪った人間を憎む。血は雪を溶かす。
セツエンは自分の思い違いを、過ちを知った。
四つ足の獣は駆ける。二つ足の人を殺すために。
(お前は俺と一緒だと思っていた。でも、俺は自分のことしか考えてなかったのか)
彼は小刀を握る。ずっと求めていた彼女が近づいてくる。
(お前をちゃんと見てなかったんだな。……お前は違う。お前には……)
一人と一匹には与えられないと彼が決めつけたものを彼女は持っていた。一度なくなったそれを再び得ることの難しさを彼は知っていた。その幸せを知っていた。
(……お前には家族がいるんだな)
自分以外を選んだことが寂しかった。前に進んだ彼女が誇らしかった。友を祝ってやりたかった。友の幸せを喜ぼうとした。独りよがりの自分が情けなかった。友の家族を殺めた自分を恨んだ。謝りたかった。
牙が光る。柔らかな毛の下でしなやかな筋肉が形を変える。彼女の毛色は雪の白になじんだ。美しかった。
セツエンからカンムへかける言葉はなかった。小刀が雪へと落ちる。セツエンは動かない。それがたった一つの謝り方だと思った。死は怖くなかった。
六
薄氷が砕けるように、冷たい空気に銃声がとどろいた。続いてまばゆい炎がはじける。火薬玉が雪上を転がる。獣達が散っていく。
「おい、セツエン! 大丈夫か!」
お頭を先頭にマタギ達が歩み寄る。オヤユはセツエンの姿を見つけて走り出す。彼の肩をつかむ。たいした怪我をしてないと知り、拳を振り上げた。
「この馬鹿たれが! 夜の山に入るなと言うただろう!」
オヤユは初めてセツエンを殴る。青年はなされるままに倒れる。オヤユは彼を抱き上げておぶった。モンは逃げ腰ながら辺りを見回して鉄砲を構えている。セツエンの尻を肘でつついた。
「ったく、お前には困ったもんだ。一匹狼のつもりかもしれんが、みんな心配してたんだ。お頭なんて泣きそうな顔しちまってさ」
「モン! 黙っとれ! ……娘の泣き顔を見たくないだけだ」
暗がりの奥に翡翠が二つ浮かぶ。水に包まれ光る表面に彼の顔が映っている。
「……すまん」
「反省しろ」
セツエンは涙をこらえてオヤユの背中に顔をうずめる。ほおに触れる獣の毛皮は固くごわごわしていたが、暖かかった。耳を澄ますと無骨な鼓動が聞こえた。
翡翠は闇に溶けた。彼が落とした刃は雪に包まれていく。男達は小屋へ向かった。
涙もろく恐がりな十五歳の青年だった。